第4話


         ※


 私はメインエントランスを出てから十歩歩いた。距離にして約五メートル。エントランス正面で立ち止まっていては、他の刑事や機動隊員の邪魔になる。


「さて、と」


 私はクライム・バスタービルの正面から伸びる道を見つめた。綺麗に整備された、レンガ敷きの道路だ。両脇には街灯と街路樹が並び、その内側に数台の警察車両が停車している。


 だが、この中で本物なのは街灯と警察車両だけ。レンガに見える道路は、特殊耐爆仕様素材でできている。周辺の官庁施設におけるテロ対策だ。街路樹もまた、酸性雨に耐えられるようゲノム編集されたもの。とても本物、自然物とは言い難い。造花みたいなもんである。

 私は腰に手を当て、かぶりを振った。あーあ、やだやだ。


 私は脇道に逸れ、一般市民居住区へと足を向けた。自室のあるマンションの前を素通りする。ちょうど過ぎ去った時、軽い電子音が耳朶を打った。同時に立体画像が私の目の高さに浮かび上がる。


『これより一般居住区になります。よろしいですか?』

「いいわよ、どいて」


 口頭で述べ、さっと手で払う仕草をすると、画像はすぐに消え去った。


 軽く息を吸って、やや大きめの一歩を踏み出す。

 ここから先は、ちょっとばかり危険になる。いろんな人がいるからなあ。


 立体画像の妨害をすり抜けた私が、最初に感知したもの。それは臭いだ。何だか焦げ臭い。これは、仮設住宅に住む人々が室内で暖を取ったり、調理をしたりする際に発生するものらしい。それが、上手く浄化されずに排出されている。工場の排ガスと似たようなものだ。


 さらっと『仮設住宅』と言ってみたが、実際に自分の一軒家やアパート・マンションの部屋を持っている人々はごく僅か。多くは、このポート・トウキョーに移住して、まともな家屋、生活スペースを持てずにいる。

 関東地方の、特に東京湾沿岸部に住んでいた人々が、一斉に移動してきたのだから仕方がない、といえばそうなのだが。


「いい暮らしさせてもらってるわよねー、私も」


 だから先ほど、立体表示が出たのだ。一般居住区に出て行っても大丈夫なのか、と。

 ここから先、治安は一気に悪化する。それは単純に貧しさが原因となっており、かつての日本では考えられないことだそうだ。

 その原因たる『事変』が起こった頃、私はまだそんなことを考えられる年頃ではなかったのだけれど。


「あ、そうだ」


 私、二十歳になったんだっけ。山路に連れられて行った居酒屋(といっても屋台なのだが)を思い出した。先月までは、私は十代だったので飲酒はできなかった。

 こんな決まりを厳密に守ろうとするあたり、私も山路も随分と真面目な人種である。外国からの移民がドヤドヤ入国してきてからは、『自分の祖国では二十歳前でも飲酒できるのだ』と主張して、酒の提供を強要する輩も多い。密造酒も結構な価格で売り買いされていると聞く。


 私はいつの間にか、内陸部のメインストリートへと足を向けていた。俗っぽいネオンがあちらこちらで瞬き、何かを焼いているのだろうか、香ばしい匂いが漂ってくる。

 このあたりは、居住区というより商業区とでも呼ぶべきだろう。少しは旧・東京二十三区の面影がある(と、山路が以前言っていた)。


 当然ながら、その華やかさには影がつきまとう。

 廃品を使って醸造した酒にあたり、嘔吐するホームレス。

 あぐらをかいて物乞いをする、両腕のない乞食。

 暴力団の下っ端にカツアゲされる、しかし裕福には見えない会社員。


 私はそれらから目を逸らし、並んでいる露店をざっと眺める。一昔前だったら『世界中の料理が終結!』とでも宣伝して集客が望めたことだろう。

 だが、ここで売られている多国籍料理は、祭りやイベントのためのものではない。国家主権が曖昧になったところにつけ込んで流入した、違法入国者のための料理なのだ。


 入国者の目的は様々。単に食い扶持を稼ぐためとか、日本の刑法は甘いから、こっちで犯罪に手を染めようとか。そういった理由で来ている連中は可愛いものである。


『赤金商会』『旧都心派』『大阪首都移転派』――この連中は、もうちょっと危ない。少なくとも、制圧任務に私が招集される程度には。


 連中の全容は、ある程度の推定はされているものの、厳密には分かっていないというのが現状だ。


「おっと」


 私はある露店の前で足を止めた。


「おお、美咲ちゃん!」

「ういっす、とっつぁん」


 私に声をかけてきたのは、以前数回訪れたことのある露店の店主だった。白い鉢巻きに浅黒い肌をしており、欠けた前歯がチャームポイント(?)の、背の低い男性だ。


「とっつぁん、私、今日は飲みたいんだけど」

「ああ! もう二十歳になったんだな!」


 さも嬉しそうに、両手をすり合わせるとっつぁん。早速酒を勧めてくる。


「ここの酒は、ちゃんと製造元を明らかにしてるからな! 腹を壊すこたぁねぇ。安心して注文してくんな!」

「じゃあー、ジン・トニックともつ煮込みで」

「あいよ!」


 意気揚々と調理台に戻るとっつぁん。だが、その時だ。首筋をぞわり、と震わせる不快感が、私を捉えた。このべたつくようなこの感覚は――。


 私は屋台の注文席から調理台へと身を乗り出した。


「ねえ、とっつぁん」

「あん?」

「怒らないでね?」

「どうしたんだ、突然――」


 とっつぁんが全てを言い切る前に、私は動いた。腕を伸ばして調理台に両腕をつき、とっつぁんの横っ面に回し蹴りを見舞ったのだ。もちろん、手加減はしたけれど。


 調理台が倒れ、食材や酒のグラスがばらばらと落ちる。


「とっつぁん、マジでごめん!」


 私はそのまま屋台のカウンターを蹴倒し、盾にした。直後、バタタタッ、バタタタッとキレのいい金属音が連続する。


 間違いない。私は今、銃撃を受けている。

 相手の素性は分からない。だが、さっきとっちめたゴロツキとは一味違うようだ。


「くそっ!」


 武器になりそうなものが目に入らず、悪態をつく。直後、こつん、と音を立てて、何かが振ってきた。


「やばっ!」


 私は確かめるまでもなく、それが手榴弾であると確信した。頭上でキャッチしたそれを、私は背後に放り投げる。ドン、という鈍い音が、全身を震わせる。民間人に被害が出ていなければいいのだが。


 いいや、それは生き残ってから考えるべきことだ。とにかく武器になるものはないか?

 そこでようやく、私は見つけた。とっつぁんが刺身を切るのに使う包丁だ。


 私は、再び銃声が轟く中、相手の人数と装備を推し測った。

 自動小銃の銃声は、二ヶ所から聞こえてきた。一般人に紛れて攻撃してくるのだから、大人数ではあるまい。

 きっと、自動小銃を持った相手が二人、後方支援に一人、計三人といったところか。私が今さっきまで尾行されていることに気づかなかったのだから、これ以上の人数は考えづらい。


 当然ながら、最初の銃声が響いた時点で、一般市民は大方危険を察知し、逃げ出していることだろう。悲鳴や怒号と共に、ざあっ、と人の気配が私の周辺から消えていくのが感じられる。

 それにしても、一介の刑事に過ぎない私を狙ってくるとは、敵はどんな算段なのだろう?


「ま、いいや」


 自分を落ち着かせるべく、わざと呑気な口調で割り切る。すると、今度は銃声が一方から聞こえてきた。距離はさっきと変わらず。


「ふぅん?」


 きっと、もう一方の敵は弾倉を取り換えている――と見せかけて、私がのこのことそちら側へ出ていくのを待っている。そう私は判断した。

 わざと包囲網の手薄な部分を作って敵を誘い込むのは、古来からの常套手段だ。


「だったら……!」


 私は包丁一本を手に、一気に跳躍した。倒れた屋台の反対側、歩道を挟んだ雑居ビルの方へと。僅かな道幅の歩道を渡り切って、


「山路さん、ごめん!」


 そう言った直後、私は自分の足首を『展開』させた。

 脚部収納型の、小型スラスター。ガチャリ、と私のくるぶしの皮膚がずれ込み、ふくらはぎまでの内部構造が露出する。そこから除いた噴射口から、青白い炎が煌めき、私の身体を跳ね上げる。

 その方向と推力を計算し、私は雑居ビルを垂直に駆け上がった。


 本来、こんなことは許されていない。私のような『性能』を有する刑事は、作戦遂行時以外はその力を封印しておかねばならないのだ。

 だが、このままでは私は蜂の巣にされてしまう。相手を倒さなければ。


 正当防衛だったと言い張るのに、私一人では心細い。山路に謝ろうとしているのは、おそらくバディである私のお目付け役である彼が、非難の対象になるだろうと思ったからだ。


 それはともかく。

 私の足元を掠めるように、自動小銃の弾丸が飛来する。


「もうちょい!」


 私は再度、スラスターを噴射。より速く雑居ビルの外壁を駆け上がる。


「ここだッ!」


 そして両腕を外壁につき、バン! と派手な音と共に空中回転。落下の勢いを活かして、男たちの頭上から舞い降りた。

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