レモンスカッシュ

井筒 史

レモンスカッシュ





目の前の信号が赤に変わりそうだった。


8月。世間では“例年通りの熱さ”というこの気温。車の温度計を見ると、外気の気温は38度だった。これが例年通りなら、これからもずっと、毎年35度以上の猛暑が続くのだろうか。


冷房のかかった車内でも、外から刺す日差しがまぶしい。ハンドルを持つ右手の腕に窓ガラスを通り越して差し込む光と紫外線が、対比して左腕との色の違いを生み出している。



しかし、本当に暑い。



信号が赤に変わり車を停車させた。冷房の効いた社内でも顔からにじみ出る汗、そして鎖骨あたりまで滴る水滴を、カッターの襟元を軽く握ってパタパタと仰ぎ、汗を少しでも冷やして送風する。


ふと、視線を左に向けた。歩道には自動販売機がある。極限の熱さの中で水分補給をしたいなと切望した。自動販売機の誘惑に負けそうになった。


でも、路肩には止められない。後続車がいるし迷惑になるかもしれない。


自分とは反対の信号が赤に変わると、今度は歩行者専用の信号が一斉に青になった。ここの信号は、変則の信号機なのだ。


今パッと車から降りて、自販機に飲み物を買いに行って、すぐに乗り込めば間に合うかもしれない。


「行こうかな」


すると、自動販売機の前に女性が立った。財布を取り出して硬貨を入れた。購入する商品はすでに決めていたようで、彼女はすぐに押して自動販売機から落ちてくる「レモンスカッシュ」を手に取った。


「レモンスカッシュかぁ。ほしいな」


すると、今まで背を向けていた女性が、身体を回転させて、私の方を向いて“コンコン”と窓を叩いた。私は突然のことに驚き、助手席側の窓ガラスを空ける。


女性は私に笑顔を向け、先ほど買ったレモンスカッシュを、助手席の窓から手を伸ばし、座席にそっと置いた。


「どうぞ」


私は驚いた。自分の目の前で何が起きたのか理解できなかった。もちろん、見ず知らずの女性に頼んではいない。なのに、こんな偶然があってはならない。「あっの」と、私の声が唐突に漏れた。


すると女性は「青になってますよ」と手で信号機を指し、教えてくれる。


慌てて視線を信号にずらした。後続車のクラクションが「ブブー」と煽り立てる。


私はその場を急ぎアクセルを踏み走り出す。言葉をかける余裕はなかったが、女性に頭を下げながら走った。走りながらその場を離れたので、まともにお礼を言えずに終わった。





帰宅して、除湿をかけた快適な部屋でビールを飲む。


ビールを一口飲んで、一日の疲れを取る。が、心の中がもやっとしていた。今日のこと頭から離れないのが原因だということぐらいわかっていた。


外回りから帰ってきてすぐ、小林や藤堂に今日のことを話してみた。帰ってきた言葉は「めっちゃすげー!」とか「その人美人だった?」とか。相談する相手を間違えたことを後悔した。


なので、女性の佐藤さんや辻本さんに意見を求めた。すると「もう一度同じ場所に行ってお金を返してきなさい」と。やはり女性はしっかりしている。正論だ。


だから、財布にある百円と十円を五枚、あらかじめ用意して車のサイドボードに入れておくことにした。幸い、あの道は営業の帰り道でよく通るため、同じ時間帯でも会える確率は十分にあると確信していた。


「よし」と、意気込んでビールを飲みほした。


だが、このご時世こんな親切があっていいのだろうかと、偶然にも起きたことを素直に受け取れ切れない自分がいる。確かにあの時、私は「レモンスカッシュ」が無性に欲しかった。暑さが極限に体を蝕んでいたからだろうか。


あの女性は窓をノックし、レモンスカッシュを置いてくれるまでの動作に迷いがなかったようにも見えた。私が引っ掛かっているのはそこだった。


私は、車の中でそれほどまでにレモンスカッシュを欲しているような顔をしていたのだろうか。顔に「レモンスカッシュくれ」とか書いていたのだろうか。


それに、引っ掛かっているのはもう一つ。あの時以外で、例えば車内で目の前を歩いていく女性を見たとか、そういうこともなかったような気がしていた。女性の姿を見たのは自販機の前だけ。彼女がどこから来たのかすら、見覚えがなかったようが気がしていたが、あまりの暑さに朦朧として、周りを注視していなかったのだろうという結論に落ち着いた。


不思議だ。本当に不思議な出来事だった。


だが、レモンスカッシュに助けられたのも事実だった。あの後帰社して車から降りたとき、地味な痛みだったが「ずきずき」と頭痛に襲われた。もしかしたら、私は熱中症になりかけていたのかもしれない。


女性に感謝をしつつ、空のビールに水を入れシンクに置いた。明日も仕事だ。今日のようなことがないように、熱中症対策を施そうと考えながら就寝した。




とりあえず自動販売機のレモンスカッシュの金額が知りたかった。


午前中の外回りが終わり、昼食前に一度自動販売機の近くにあるコンビニエンスストアの駐車場に車を停め、そのまま歩いて自動販売機に向かった。


コンビニは、自動販売機のある歩道の道路を挟んで向かい側にある。変則の信号機が青になるのを待ち、自動販売機の前に立った。


金額は140円だった。値段を確認し、車に戻ろうかと思ったが、なんとなくここで女性を待ってみようかと思った。だが、大の男が一人自動販売機の前に立ち続けるのもどうかと思い、自動販売機の前にあるサイクルショップに背を向け、「待ち合わせ」をしているかのような佇まいで待っていた。



10分・15分・20分



スマホの時計を確認する。スマホ画面に私の汗が二滴ほど落ちる。



25分・30分



待てど待てど来ない。


汗が、滝のように流れ落ちる。視界もぼやけ始め、危険を察し口に塩飴を入れた。

すると、背後からサイクルショップの店員らしき高齢の男性が声をかけてきた。


「あんた、よっちゃんまってるのかい?」




――――――――――――――――――――



自動販売機に効果を五枚入れる。あらかじめ決めていたレモンスカッシュのボタンを押し、落ちてきた商品を購入する。そこでサイクルショップの鈴木さんから、水羊羹と向日葵の花束を受け取る。


そして、変則の信号機が青になるのを待ち、信号が青になってから渡り、車に乗り込んで走る。


行く先は、よっちゃんさんの場所だ。


サイクルショップと自動販売機のある道沿いからまっすぐ行くと、住宅街を抜けて森林が生い茂る場所に差し掛かる。そこを右に曲がる。砂利が敷かれた駐車場に入り、私は車を停めた。


水羊羹と向日葵、そしてレモンスカッシュを持ち、よっちゃんさんに会いに行く。




――――――――――――――――――――





「おじちゃん、熱中症には気を付けてね!」


小さいころから知っていたよっちゃんさんが目の前で倒れたのは一年ほど前のことだと鈴木さんは言った。ニュースで熱中症により高齢の方が亡くなっていることを心配してくれていたよっちゃんさんは、奥さんを亡くして一人でお店を営む鈴木さんを気にかけくれていたらしく、毎朝通勤の時に変則の信号を渡り、鈴木さんに声をかけてくれていたやさしさに溢れる女性だった。


だが、8月の初旬。たびたび「猛暑」と言われ続けた天候の中、その日いつもより元気がなかったよっちゃんさんを鈴木さんが見かけた。会社を休んだらどうかと心配する鈴木さんに「大丈夫」というが顔が青かったという。よっちゃんさんは、顔色が悪いまま、通勤していった。


心配していた矢先、昼食を摂るためにコンビニで買い物をしようと鈴木さんが横断歩道を渡るため信号を待っていると、目の前にふらついて歩いてくるよっちゃんさんがいたという。よっちゃんさんは体調不良で仕事を早退しての帰路だったと、後に鈴木さんはよっちゃんさんの同僚から聞いたらしい。



そして鈴木さんは、よっちゃんさんが信号が赤だったのにもかかわらず、横断歩道を渡りだしたのを目の当たりにした。鈴木さんは「おい!」と声を張り上げた。が、間に合わず、鈴木さんの目の前で、よっちゃんさんが車に跳ねられた。普段から渡っているはずの信号機を、見落としていたほどに憔悴していたよっちゃんさんの顔を、鈴木さんは今でも忘れられないというのだ。

よっちゃんさんは、そのまま病院に運ばれたが亡くなってしまった。


その日から、不思議なことが起きた。鈴木さんの店の前の自動販売機に人を探しているような人がぽつぽつと現れ始めた。鈴木さんは何気なくその人たちに声をかけると、どうもここでレモンスカッシュを渡してくれた女性を探しているらしい。黒髪の、色白の、笑うと目じりがやさしく垂れる若い女性を。



「おじさん、水分だけじゃだめだよ!塩分とかも大事。ほら!これなんてどう?」





――――――――――――――――――――



「あの子は向日葵が本当に似合う子でね、昔は俺の嫁と一緒に、夏休みに水羊羹を食べてたんだ。ほら、この作業場の隅にちょっとした机と椅子があるだろ?そこで食べてたんだよ」



私がよっちゃんさんに会いたいというと、「ちょっとまってな」と、店の中に入っていく。鈴木さんは花屋と和菓子屋に連絡をしていたようで、店から出てくると「命日に行った方がええぞ」と言った。だから私は後日、よっちゃんさんの命日に、再び鈴木さんのサイクルショップに伺うと、綺麗に包まれた向日葵と淡い桃色の羊紙に包まれた水羊羹を持たせてくれた。


「よっちゃんによろしくいっといてくれ。盆前には迎えに行くってよ」


そして、よっちゃんさんの目の前に立つ。暑いだろうと、水をかけ、花壇の水を入れ替える。向日葵の顔を綺麗に正面に向け、水羊羹をひざ元に添えた。

その横に、未開封のレモンスカッシュを置いた。





偶然な出来事、そしてやさしさにあふれた出来事。


生前の想いは、私一人の命をすくってくれたこと。それが痛く心に染み、やさしさを疑った自分をどれだけ恥じたか。


人間の温かみを、つながりを、たった一つだけど大きい「レモンスカッシュ」から感じることができたことに、私は感謝した。



本当に、ありがとう。

また、来ますね。



鈴木さんからもらった写真を手に持ち、墓前に言葉を添えた。


写真には、あの時私を救ってくれた、向日葵に負けない素敵な笑顔の女性が映っていた。






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