第44話

むしろ機体の揺れと吹き荒れる風に助けられ、二蹴り、三蹴り、息が切れだした四蹴り目で辿り着く。背中合わせと繰り出す反転も小刻みに、百々はレフの背後に腰を落とした。

「取れるか?」

 言葉は早くしろ、と急かされているようにしか聞こえない。

「取る」

 投げ出した足で低く座りなおし、断言し返す。狙い定めて、えいや、だ。百々は手を突っ込んだ。探してまさぐり覚えた生暖かさに、おや、とたちまち口をすぼませる。

「……それはポケットじゃない。俺の尻だ」

 ワケを明かすレフの声は低く、なるほど、突っ込むところを間違えた。

「ぎゃー、セクハラっ!」

 手足に自由がなかろうと跳ね上がって手を引っ込める。

「それはこっちのセリフだッ」

「なっ、今までダサいスラックス履いてたのにっ。急に格好つけてローライズなんか履くからだよっ!」

「バーバラに言えッ」

「ひゃああっ、レフの方が着せ替え人形だぁっ!」

「うるッ、さいッ」

 投げ合いつつも探りなおすしかないポケット。それこそ尻の下敷きになっていたなら、気乗りはしないが突っ込んだ指先に先のとがった匙は触れていた。

「あった」

 つまんで力任せと引っ張り出す。宙を泳がせ感覚のみで、レフの手へリレーした。粘るケミカル素材を引っ掻く感触は、すぐさま百々へと伝わってくる。ならば嫌でも意識はそこへ集中し、自然、口数は減っていた。沈黙に寒さが身へしみたなら、泣き言を警戒したレフはやおら話し始める。

「帰ったら、またブライトシートへ行くのか」

 あいだも突かれて切り込みが入ってゆくテープは、思っていたより脆い。きっと解ける。予感に百々は帰る、その思いを確かな像へと結びなおしていった。

「いかない。もう背伸びはしない。20世紀の休みの日にバイクで水族館に連れてってもらう。海浜水族館。あそこのイルカショーが好きだから。一番前で見て濡れて、乾かすのに砂浜へ出てお昼、食べる」

 動き出した像を追いかけるまま、語るそれはしかしながら何の根拠もないただのイメージだ。

「遊泳禁止だから貸し切り。眺めながらさ、出店の焼きそば美味しいんだ、あとトウモロコシと広島焼きって知ってる? 食べる」

「そうか」

 だが、その根拠なきイメージだけが人を動かす。

 と、ついにブツリ、テープの切れる感触は伝わっていた。端をつまんだレフが引っ張り、ひねる体でめくり始める。

「で、あとは、ぼーっとするだけ」

 百々も手伝い体を傾けた。邪魔だと思えた腕が次第に軽さを増してゆく。ゴールは近いと百々へ囁きかけた。

「タドコロとならさ、黙ってても困らないもん。日に焼けても、今日も終わりだなぁって太陽が沈むのを見たら帰るよ。やっぱり後が恥ずかしいから、返事もキスもサヨナラの時でいい」

「なら、トウモロコシは歯に挟まる。焼きそばはノリがつくからやめておけ」

 などと至って真面目と受けるアドバイス。

「き、気を付けますです。はい」

 刹那、両腕に自由は戻った。取れた。言うより先だ。百々は足の拘束を毟るように解きにかかる。果てに完了する、イモムシから蝶への華麗な脱皮。嘘のように軽くなった体で急ぎレフの拘束を解きにかかった。

「じゃ、レフは帰ったらどうするの?」

「バーブシカの墓参りへ行く」

 いや、そっちか。つっこみかける。

「バーバラとだ」

 子供じゃないならその意味くらい理解できた。巻き取ったビニールテープは百々の手の中、早くも毛糸玉よろしく膨れ上がっている。握りなおして百々は向けられた背へ小さく笑んだ。ならもう話すことはなにもなく、むしろ作業へ拍車はかかる。あと少しの所でレフも力任せとテープを引きちぎった。

「オフィスヘ報告ッ。すませてから身の安全を確保する。俺の所持品は全てない。お前はどうなっている」

 猛然と足のテープが巻き取られてゆく。

 探して百々はポケットへ手をあてがい、素っ頓狂な声を上げていた。

「ない。ないよ。ぎゃー、カバンごとないよぉっ!」


「GPS発信元に到着。空港内の格納庫。二人の端末とレフのベレッタが残されてる。これ、百々さんのカバンかしら。ただし、誰もいないわ」

 拾い上げ、ハナは開いたままのスライドを元の位置へ押し戻す。無残に崩れた木箱の山と、所々に残る弾痕、そして薄く砂の積もった床を見回していった。

「ほんとに派手にやったみたいね。靴跡がかなりの数、残ってる。にしては血痕が少ないようよ」

 そうして聞こえた人の気配に、ずいぶん離れた入口へ視線を投げた。ようやく駆けつけてくれたらしい。 大手を成して現れたコートジボワール当局をそこに見つける。


「時間は?」

 聞かれてのぞいた腕時計の文字盤には、ビニールテープの粘着剤がこびりついていた。指でこすり取り百々は、あ、と喚いたばかりの口を開く。

「まだ六時半だよっ。あれから一時間半くらいしか経ってない」

 外の赤い色はつまり夕焼けだ。

「コクピットの無線を使う」

 ついに解けたテープを投げ捨てたレフが立ち上がる。

「りょ、かいっ!」

 駆け出す百々の体にもう迷いはなかった。


 そしてエリク・ユハナは自分の行為を棚に上げ、そっと二人へ進言する。

「こ、こんなの、電話局に聞いた方がいいですよ」

 そんな彼の前、先ほどから延々スクロールを続けているのは電話局のサーバーに溜め込まれた通話記録だ。

「正規ルートは手続きが手間だ。民間の動きは遅くて有事に間に合わん。だが犯罪にはそれがないからな。心おきなくやれ」

 励まし、ゆさぶり、共にモニター画面をのぞき込んで、ハートはエリクの背を叩きつけた。嘘かまことか眼鏡のブリッジを押し上げたすストラヴィンスキーも、殴っておいて温和と微笑みかける。

「そういうことです。案外、捜査協力は後の司法取引で有利に立てるかもしれませんよ。頑張ってください」

 だからいったい、この人たちは何者なんだ。思わずにはおれず、こちらへ加担した方がさらにスリリングだったのかもしれない。本気でエリクは考え始める。


 コクピットのドアは半開きと揺れていた。掴んでレフは剥がさんばかりと引き開け中へ飛び込む。目の当たりとしたのはフロントガラスの向こうに広がる空より、無人のそこで頼りなく空を切る操縦桿だった。

「透明人間しかいなぁいっ!」

 いや、そんなモノこそいないぞ、百々。

 ともあれ叫んで、無数と並ぶ計器盤を前にさっぱり分からずなおさら目を泳がせる。身を乗り出したレフがすかさず座席に置かれていたインカムを手に取った。まさか生きているうちに生で聞くとは思っていなかったメーデーを、ここぞで一生分、繰り返す。

 と視界の隅に映り込むものはあった。二つ並ぶ操縦席も百々側の足元だ。思わず二度見し、百々はレフの裾をこれでもかと引っ張る。

「レぇフっ! ばい菌、ばい菌がおいてあるよぉっ!」

 ミッキー・ラドクリフが提げていたあの保冷庫で間違いない。

「中を確認しろ」

「それ無茶ブリだってばぁっ!」

 未知の細菌が保管されているというのに指示はひたすら淡泊でいただけない。

「処分されているから、ここにあるッ」

「ひー」

 叫んでともかく息を止めた。百々は魚釣り用の保冷ボックスさながらの、銀色の留め具を親指の先で跳ね上げる。なるべく遠くからだ。伸ばした足先でフタもまた蹴り開けた。おっかなびっくりのぞき込んだ中に納められていたのは資料で確認していた冷却容器のみ。そのフタはすでに開くと浮き上がっており、しかしながら中から冷気がもれ出している様子こそない。もう恐る恐るの極みだ。百々は伸ばした指先で、そのフタもまた弾いて開ける。ススにまみれたスピッツが六本、中に差されているのを見た。

「……燃え、ちゃってる」

 つながらない通信を諦めたレフは、次に探し出した無線機を弄っている。その口から放たれたのはロシア語で、向かって百々は振った首で目にしたままを伝える。それでも不気味な保冷庫のフタを、えいや、で閉じた。

「遅くとも二時間、事態は必ずオフィスへ伝わる」

 通信を終えたレフのそれは日本語だ。なおさら耳へ明瞭と理解した百々は目を見開く。たった一人だろうと拍手喝采、もろ手をあげる。

「やったぁ、すごいっ! これでもう大丈夫なんだよねっ!」

「テロの公表が回避されれば問題ない」

「って、誰と話してたの?」

「クソ、代わりにゲイシャが見たいと要求された」

 それはもしやのパターンである。

「あれ? 空軍のお友達、とか」

「ヤツは状況が分かっていない」

 らしい。

「あは、会ってみたいな。レフのお友達」

 笑うが、そうも長続きはしなかった。

「って、あたしたちは、あたしたちはどうなるんですかぁっ!」

 舌打ったレフの目はだからして、もう並ぶ計器類を睨みつけている。険しい横顔に過る光景があるとすれば、お約束が恒例のゴールデンパターンだろう。

「そうだよっ!」

 立てた指で百々はレフへと詰め寄った。

「レフが操縦して、降ろしてくれるんだよね、ね」

 だが今さらどの面さげてかわいい子ぶろうと役には立たない。

「無茶を言うな。出来るわけがない」

 今までさんざん人に無茶ブリしておいてそれはない。

 ポカスカ殴りたい気持ちを百々はぐっと押さえ込む。さらにレフへ詰め寄るった

「じゃ、じゃっ、管制塔からの指示で不時着っ!」

「お前がやれ」

 のけぞるほかなく、負けじと再度、踏み込んだ。

「偶然にも乗客にパイロットっ!」

「他に誰もいないだろうが」

「特殊能力、覚醒っ!」

「あるなら使え」

「あたしだって、ただの人間ですぅっ!」 

 ついに噛みつく。

「クソ、落ちるぞ」

 無視したレフのセリフは今さらだった。

「寝ぼけてますかっ!」

 ならレフの爪は「FUEL」と文字を刻んだゲージをいまいましげと弾いてみせる。

「燃料が入っていない」

 すでにフリーフォール。百々は毛を逆立てた。放って前屈みと、レフは他の計器へも視線を這わせてゆく。持ち上げて濃紺を滲ませ始めた空を睨んだ。顔へと投げた百々の問いは、とにもかくにも的外れとしか言いようがない。

「落ちたって、……う、浮くよね? これ」

「浮くも沈むも、グライダーの格納も可能な大型輸送機だ。推力を失った地点で墜落する。着水の衝撃におそらく機体はもたない」

 だから最終回なのだ。

 と、レフが振り返った。

「いや、降りるぞッ」

 ままにコクピットの外へ向かい身をひるがえす。

「パラがあるのを見たッ」

 言われたところで百々にはそれこそ意味不明だ。

「な、なんて? パラ、パラってっ?」

 まさにレフの残像を追いかける。伸びる狭い通路を手繰り、拘束されていた格納庫にまで戻った。ハッチも開け放たれたままのそこは、吹き荒れる風も変わらない。足を踏み入れて百々は早々、壁へしがみつき、真逆とレフは開いたきりのハッチ近くまで進み出てゆく。機体、壁際に吊られていた袋を掴むと、さらに選んで毟り取った塊を戻ってくるなり百々へと投げつけた。

「わっ」

「タンデムで降りる。装着しろッ」

 百々は受け止め百をのけぞらせ、おっつけ押し付けられたそれを確かめる。

 なるほど、ハーネスだ。

 そうかそうか。うんうん。

 ようやく合点がいって、まずは笑った。

 冗談じゃない、で次に唾を飛ばす。

「パラって、パラシュート降下するってことですかぁっ!」

 そのための台だったのか。置いた袋を、いやパラシュートを確かめるレフは振り返りもしない。

「心配するな。軍にいた頃やっている」

 背負い続けたホルターを脱ぎ捨てたレフは、ハーネスへ足を通している。パラシュートの袋、キャノピーを早くも背負い上げた。身に合わせて各所を締め上げてゆく手つきはもう手際が良すぎて機械的でしかない。

「むぁ、ムリムリっ!」

 向かって千切れるほどに百々は首を振り返す。

 いや、もちろんレフが消防士だったことは知っている。しかもただの消防士ではなく、燃え始めれば数か月は続くという大規模火災を相手にパラシュートで焦土へ降下。空輸を受けながら現場でキャンプを張りつつ火を追いかけるトンデモ消防士だということもだ。だが当の百々はてんで違った。軍人でもなければ消防士でもなく、辛うじて対テロ組織の一員らしいが、それも危うい貧相極まる一般市民である。そしてそんな一般市民は開いたハッチから放り出されるのが怖くてたまらず、今もなおこうして壁にしがみついているところなのだ。

 だがレフは、あちこちを握っては離し、こっちを握っては離し、降下時のリハーサルか装備の位置を確めている。

「友人にはおおよその位置も託した。最悪一晩だ。浮いている限り必ず迎えは来る」

 いや、その事実はむしろ問題を深刻にしていないか。

「し、沈んじゃったら? 誰も来なかったら、どうするんですかぁっ?」

 ならついに準備万端、整ったレフの目は百々をとらえる。

「何もお前ひとりでやれと言ってるんじゃない。いいか、まだ機が飛ぶとして日が暮れてから墜落に巻き込まれる方が危ない。明るいうちに自力で着水する。安全で確実なそれが手段だ」

 真っ当だった。その理屈は至極、真っ当なものだった。だからこそ百々の口はそれでも探す理由にもごもご動く。

「うだうだ言わず、さっさと着ろッ」

 気づかぬはずもないレフがたたみかけていた。

「タドコロに会えなくてもいいのかッ」

 いや確かにその一心でここまで切り抜けきたようなものだ。だがさすがにその賞味期限も切れかける。

「そんなのっ」

 百々に迷いはなかった。

「キスするだけじゃ、引き合わないってばぁっ!」

 吠えればレフもみあう大声を張り上げ返す。

「男がそれだけで納得するかァッ」

「へっ、へぇ……?」

 力説されて、こんな時に何を言っているのかと思う。

 豪語して、こんな時に何を言ってしまったのかと慌てふためいた。

 というかそんな話だったのか、これは。

 おかげで双方、ほどよく冷める。

「わっ、分かったよ。わかりましたぁっ。きっ、着たらいいんでしょうがっ」

 もう、どうでもいいや。

 百々が思ったかどうかは定かでない。ただ受けたショックは予想外で、少なくともそんな気分に浸ってみる。エンジンも不安定と途切れて空回りを始めていた。調子っぱずれな音を聞きながら、百々はいそいそハーネスへ足を通していった。

「飛んで、泳げばいいんでしょうがぁっ。ほんと知らなかったよ、ムッツリすけべだったなんて」

 こぼせば聞こえたらしい、繰り出されたレフの咳払いはデカい。おかげで作業も粛々と進み、問題ありだろうとなしだろうと結果が全てとなる。レフの腹側につながれると、なぜ嫌がる自分が先頭なのか。開いたままのハッチの前に百々は立った。風とは思えぬ分厚いナニカが体を叩く。バリバリと耳を千切りそうに音は鳴り、混じって途切れがちなエンジン音と、ときおり風切る翼が高音が辺りを包み込んだ。

 ハッチをスロープにかえ、向かって踏み出すレフに押される。百々は機体の外へと足を繰り出していった。左右、遮るものが失せて開けた視界に、ちりめん模様と波の影を張り付け海は広がる。それはもう高い低いを越えた、ただ遠いだけの光景だ。だというのに互いの間をつないで渡すものは何もなく、そんな場所へ身を投じる心もとなさが夢の中、落ちゆくあの感覚をすでに百々の中へ蘇らせる。

「ほん、ほんっとにパラシュート、開くんだよねっ! 大丈夫なんだよねっ!」

 だとしてレフは歩みを止めない。確かめれば肩をつつかれ、咄嗟に百々は教えられたジャンプ時のポーズを取るとハーネスを握りしめた。

「ねっ?」

「開くッ」

 そのつま先で、ついにハッチはついえる。

 延々何もない空だけが「おいでませ」と広がった。

「ただし」

 ならこの土壇場で付け加えて言うレフの言葉はあんまりだろう。

「俺も海へ降りるのは初めてだッ」

 そらそうだ。山火事を消すのだから海なんてありえない。

 思うと同時だった。

 百々はどん、と背を突き飛ばされる。

 宙へ体を投げ出していた。

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