第45話

「よくやった」

 その時、ハートのほめ言葉と共にエリクへ手錠はかけられる。

 おかげでジェットは彼がコートジボワールとリベリア共和国の国境付近へ降り立ったおよそ三時間後から、追跡を受けていた。だからしてグライダーを処分するため取り付けていたその場所で、待っているはずの馴染の顔が見知らぬ警察官にすり替わっていたとして、地上の連係プレーはそれほどまでに緻密かつ迅速だったということだ。

 確保時、抵抗らしい抵抗を見せなかったジェットは最後、こんな言葉を吐いたと言う。

 つまり彼らは無事だってことだ。そして次に脱出するのは、僕の番ってことになる。解放されるのは、ね。それがなされるき正義、あるべき世界の姿だ。

 居合わせていた者の証言では、やけに満足そうな口調だったと言う。


 その通り。

 だからして百々は正真正銘、落ちていた。

 速度は時速二百キロ。

 大気は口を開ければ押し込まれる勢いで襲いかかり、裂く体はひたすら地球へ一直線と吸い寄せられていた。状況に五感はかつてない刺激を吸い上げ、脳ミソだけが統括できず動転するままアドレナリンを噴出させる。

 きっと全ては辿り着いてから把握されるだろう。それが水上だろうと、あの世だろうと、だ。

 最中、再び肩を突かれ、握っていたハーネスから離した両手を左右へ広げた。

 たどり着くべきゴールは眼下でわずか黒く夜を忍ばせると、波の高さをちりめん模様ではないリアルなそれへ、瞬きのたびに変えている。

 一秒ごとに変わる気圧のせいだ。鼓膜はもう二度、勝手に空気を抜いていた。切るように冷たかった大気もまた、馴染む温度へ緩みゆくのを肌で感じ取る。それら経験はほんの数十秒でも後を予測し次を導き出す糧になるらしい。着水までの時間を百々は確信する。同時に太刀打ち不能の落下のエネルギーの凄まじさもまた実感すると、果てに迎える木端微塵に備え全身へ力を込めた。

 ハズが、落下にストップはかけられる。

 絡むハーネスへ、これでもかとGはかかっていた。

 とたん叩きつけていた風は失せ、息が自由と解放される。なにより目の前、景色が様子を変えていた。それは途切れそうな夕焼けの中だ。オレンジ色と染まるパラシュートに吊られて百々は、気付けば穏やかと浮いていた。

 思わず見上げてあんぐり口を開き、乾き切った目を何度だろうと瞬かせる。

 どこからが嘘で、どこからが現実か。

 どこからが冗談で、どこからが本気か。

 疑いたくなるような成り行きは疑いたくなるほど美しい景色に囲まれ、今現在を迎えていた。

 あとわずかで日没だ。

 彼方に一番星を見つけて珠のようなそれに目を奪われ、暗い水平線にまた異なる光を見つけて声を上げる。

「あっ! レフ、あれ。あれ街だよっ!」

 確かに、目を覚ましたのはブーンディアリ空港から一時間半余り後のことなら、とんでもない沖まで出ているハズこそない。

「覚えておけ。着水するぞッ」

 左右、スリングを引くレフが、風に流れるパラの姿勢を保ちつつ準備を促す。段取り通り、百々はハーネスの胸帯をゆるめ、手を体へ巻き付け足元へ目をやった。

 これが近づけば近づくほどふんわり軟着水とは程遠いのだから、とんでもない。容赦ないスピードで水面は近づき、そこにパラの影もまた走った。

 見定めレフがスリングを引きパラを旋回させる。あおられ潮の匂いが吹き上がり、覆いかぶされば窒息しかねない傘の下から体は放り出されていた。

 そのままの態勢だ。

 着水する。

 水圧に体の自由は奪われ、視界を泡は埋め尽くした。満ちる水音が鼓膜を覆い、体はしばしその全てをまとってなぶられるように沈み続ける。止めた息に違和感を覚えたところで、ようやく生じた浮力に今だ、と手足を広げた。

 落ち着こうとしても慌てふためいてしまうのだから仕方ない。百々は緩めたハーネスから体を抜き、最後まで引っかかっていた足を振って脱ぎ捨てる。その体をレフに掴まれ水を蹴りつけた。

 そうして見上げた水面はもう清々しい青でも、突き抜けるようなオレンジでもない。ひたすら暗い空めがけ水面を割る。風が、音が、唐突なまでに五感へ戻っていた。息継ぐレフの声が間近に聞こえ、百々もまた荒い呼吸を繰り返しアゴを持ち上げる。遠く彼方から何とも言えぬ鈍い音が聞こえてきたのはそのさなかで、不気味さのあまり泳ぐというより浮かんだままで振り返っていた。黒く低く、水平線にポウと煙は吹き上がっている。

 乗っていた機だ。

 目が離せなかった。

 しばし煙が風にかき消されるまでを、レフと黙ってただ見届ける。

 そんな百々の呼吸が落ち着き、話せるようになってから放った最初の一言といえば、こうだ。

「あのさ、早く助かったって言いたい」

 すでにパラも流され辺りになく、波もそれなりに高いなら、あの墜落に巻き込まれなかったのはよしとして、万事オーケーには程遠い四方はまだまだ難問だらけだ。

「陸はどっちだ」

 レフが鼻先から滴を飛ばし、探して頭を振った。

「あっち。ほら、それっ」

 アゴで示し百々は誘う。

 と遮り、それはゆるゆる流れついていた。

「あぁっ!」

 木箱だ。さすが南国、バナナのガラ入り。思いきりのクロールで百々はすがりつく。すかさずレフも飛びついたなら、その目が睨みつけるのは間違いない。遠くきらめく街の灯りだ。

「よし、帰るぞ」

 本気なのだから恐ろしい。

「帰るって、どうやって?」

「足がある」

「うえ、遠いんですけど」

 だが聞かず、バタ足は繰り出されていた。

「わっかりましたぁっ!」

 並んでヤケクソ。百々も左右の足で水面を叩きつける。

「おい、そっちへ曲がっているぞ。しっかり蹴れ」

「あ、あったりまえじゃん。レフと同じにやれるわけないじゃん。手加減してよっ!」

「お前に合わせると流される」

 だから無茶振りは、もうたいがいなのだ。

「着く前に足がつるってばぁ」

「つらないッ」

 言うレフを、振り返ってまで百々は睨む。

「あ、そういえば」

 こうなれば腹立ちまぎれだ。言ってやると意を固めていた。

「バービーさんがそろそろ電話、かけてくるかもしれないね。出ないと心配するよ、きっと」

「携帯がない」

 返事へ百々は口を開く。

「そういえば保健所の前で、レフさぁ」

 頭上はいつしか満天の星空に変わると、なおさら街の灯りをはっきり灯し、そこからぬるく南の風を吹かせていた。

 無論、その頃、芸者を夢見る友人は張り切り急いで段取りをつけていたが、あと一時間もすれば救助の手配がされることを二人はまだ知らない。そしてついにヘリへと引き上げられることとなった決め手が、ブイかと思った、と言うハナの一言により、レフのオレンジ色のTシャツであったという事実も、まただいぶ先に知る話だ。

 ただ今は何も知らず、百々はレフへの仕返しに精を出す。

「バービーさんと、ちゅーしてたでしょ」

 その無表情など、もう恐ろしくも何ともなかった。続けさま、からかい口さえ開きかけたなら、遮るレフのバタ足だけが勢いを増す。

「うあた、おわ。曲がる、曲がるってばぁっ!」

 かける軌道修正こそ必死の攻防戦だ。

「そら、しっかり蹴れ。街が遠ざかるってるぞッ」

 右へ左へよれながら、それでも二人は陸を目指す。

 二度と巡らず戻らない、それでも変わらぬ日常の、君が紡ぐ平凡な日々へ向かって。

 そう、どんなに右へ左へくねろうとも、

 どんなに地味なバタ足でもだ。

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