第42話

 回線から悲鳴と怒号はもれ出し、最後、ピタリと止んでオペレーティングルーム内に水を打ったような静寂は流れる。

 だからして急ぎ伝えたハズだった。

 思いは百合草の中で渦巻く。だが転んだ後から前を見ていなかったせいだ、と怒鳴ったところで無駄に時間を費やすだけと、その無駄を省き尽くせるだけの手を打ったところで最大のネックは食って止まないこの距離にあった。

 事態を認めるまでしばらく。百合草は止まってしまったような時を動かす意を固める。

「端末のGPSは生きているなッ?」

 移動することを願ったのは、最悪のケースとして「死亡」を想定したからだ。

「大丈夫です」

 声は返され、曽我へ振り返った。事態を前に固まる曽我はやはり事務職だからというべきか。

「NATO軍機同乗の件には上の名を通しているな」

 問えば、我を取り戻した目が泳いで記憶を辿り始める。

「はい。そのための許可をいただいています」

「ハナを乗せた機のフライト責任者と話をする。残り職員とインターポールもだ。つながった箇所から片づける。急ぎ手配しろ」

 落ち着け、と言い聞かせているその顔へ、むしろ与える仕事で後押しした。

 たちどころにオペレーティングルームに声は交錯する。先陣を切り職員との通信はつながっていた。向かって百合草は余計な憶測を切り捨て現状のみを伝える。インターポールが応じたところで一旦、切り上げた。

 そんなインターポールとはエリク・ユハナ確保の件以来か。ジェット・ブラックの緊急国際手配及び確保、実際には法的見地から地元警察が行うわけだが、手配を要請する。経て最後につながったのが、同乗を依頼したNATO軍機のフライト担当者だった。

 だいたい誰の名前を使おうと同乗させろ、と言った地点で無理を通していることは承知している。だが物理的に無茶を言っているわけではなかった。ジェット・ブラックのアビジャン通過が確かとなった今、当初予定していたアビジャン着を撤回する。北上すること四百キロ、通過地点でもあるブーンディアリへの着陸を願い出た。

 無論、伴い発生する手続きと詳細の擦り合せは曽我とオペレーターたちの仕事と降りかかり、時間に比例してその量は増すと最高潮に達するまで一時間足らず。費やした時間を惜しんで百合草は再度、職員らを呼び出させる。

「レフ、百々がブーンディアリ空港にてジェット・ブラックと接触。銃撃戦のち音信が途絶えた。以降、両名の安否、ウィルスの行方は不明のままだ」


 テーブルの向こうで立ち去りかけていたガロが、不可解な面持ちで振り返っていた。間一髪、引き止めたのが乙部なら、百合草の声へ耳を傾けつつ跳ね上げた眉でおどけて返す。

「ジェット・ブラックを国際手配。関連するすべての事象に対しボツワナ警察も動く。共同で乙部はジェット、いやナイロンでもいい、追跡。立ち寄り場所を洗え。今度こそ奴の先手を取るぞ。発見次第確保。テロの攻撃対象となっている空港の割り出しに全力を注げ」

「了解」

 なら辺り一帯、ナイロンがかかえる商売相手の数だけ情報も潤沢と、なまじ無謀な話でもないだろう。ガロへと乙部は立ち上がる。


「ハナはアビジャンを変更。ブーンディアリへ直接、降りる」

 続けさま振られてハナは空輸機のベンチシートで顔を上げた。

「到着はおよそ一時間半後。コートジボワール当局へはインターポールを通じ、再度、捜査協力を願い出ている。事実、事件は起きた。もう無視はできないはずだ。共同で現場に当たれ。レフ、百々両名のバックアップとウィルス確保に専念しろ」

 パンギではなくアビジャンを取った根拠はこの最悪の事態に備えてであり、ハナもうなずく。

「了解。降りる時は、チップをはずんでおくわ」

「なら領収書を忘れるな。公費はおりんぞ」

 返す百合草に一人、吹き出していた。


 同様に鼻で笑い飛ばしたハートもまた、端末へ口を開く。

「今、エリク・ユハナのパソコンからジェットの所在地を逆探知させている」

「させている?」

 引っかかる言い回しだ。百合草が声を裏返していた。

「本人の持ち物だ。解析の手間が省けてなかなか早い」

 おかげで納得するような間は空くと、滞った話のリズムもそこで取り戻されていた。

「場合によっては百々とレフはジェットと行動を共にしている可能性がある。だがそれがいつまでかは分からん。解析を急がせろ。そのためならあと三発は黙認する」

 どんどん増えるが、いいのかそれで。

「その代り、顔ではなく腹にしておけ」

 なるほど、この分だと要求すればするだけ許可は下りそうでならず、聞いたハートもストラヴィンスキーへ目配せを送る。

「了解」

 返してストラヴィンスキーもエリクへ微笑んだ。その分厚いレンズはモニターの光を反射してホラーと光り、持ち上げられた拳がそこへ重なったなら何を語らずとも意味はエリクへ伝わる。横目にとらえたエリクがキーボードを打ち込む速度を上げていた。

「こっ、こっちへアクセスしてるのが携帯電話、ってことまでわかったんです。あとは、その電波が今、今どこで拾われてるかって。それで、それで位置はつかめますからぁっ」

 待ってください。

 言葉は飛び散る冷汗に書き込まれている。

 待てません。

 返される言葉もそこに尽きるとひたすらエリクを追い立てた。


 そうして残る二人からの連絡を待ち、百合草は動かぬGPSの表示を睨み続ける。連絡は必ず入るハズだと自らへ言い聞かせた。なぜなら、何かにつけて百々が強運であることを知っている。そして目的のためなら時に手段を選ばぬしたたかさで食い下がるのがレフ・アーベンだった。その二人が揃ってなお、こうもあっけなく任務は放棄されるものなのか。疑わずにはおれず、そんなハズこそない。信じるからこそ入れば決定的となるだろう一報を、万全を期して待った。


 だが百々に、誰の思いを推し量ることもできていない。ただぼんやりと、こう考える。

 天国ならもっと素敵な場所のはずだ、と。

 かつて刷り込まれたイメージが営業用の嘘、誇張でない限り見解に間違いはなく、途切れた意識の続きなどそのあたりくらいしか思いつかなかった。

 だが比べて辺りはやたらと固く、体はずいぶん痛い。そのうえ揺れてひどくうるさくもあった。極めつけに臭いとくればもう浮かぶ場所はそこしかない、と思えてくる。

 地獄だ。

 いや、落ちる理由こそいくらでも挙げ連ねることはできた。

 お父さん、お母さん、娘は世のため人のためとはいえ、つまらぬ嘘をついて外泊を重ねました。田所へ、好きなのにちゃんと言えなくて苦しい思いをさせました。バービーさん、大事な彼氏をこんな目に合わせました。それから世界中のみなさん、どんくさくて迷惑をかけます。しかも大事なことを言いそびれたのだから、半日後のパニックはわたしのせいです。あと、たとえ木箱が砕けるなど想定外だと言い訳したところで、巻き添いにしたレフにこそ謝らなければ、と心からの黙祷を捧げる。

 あーめん。

 そのポーズはあまりにもサマになっていなかった。

 そう、自分はキリスト教徒だったろうか。

 そして何より本当にレフは死んだのか。叱られる前に疑った。それ以上、浮かび上がってきた基本的な疑問に、そもそも自分は今、死んでいるのか。過る違和感へ立ちかえってみる。

 経て、鮮明になっていったのは意識だ。

 百々は閉じていたまぶたを開いていった。

 なるほど、目にしたそこは天国でも地獄でもない。内装も塗装も施されていない、鉄骨が黒く交差する無骨な現実空間だった。つまり見上げる格好でどこぞに寝かされており、理解すれば急に距離を詰めて声もまた、百々を呼んでいることに気づかされる。

 レフだ。

「レフっ?」

 咄嗟にアゴを持ち上げる。たちまち首をすくめて縮こまっていた。また殴られたのかと思うほどだ。覚えた頭の痛みはひどい。かばって百々は手を持ち上げようとするが、今度はその手が動かないことに気づかされていた。

「へぇっ?」

 挙句、目にした光景こそ、あり得ぬものとなる。

「何ぃっ! これ縛られてる。ぎゃー、レフっ! あたし映画みたいに縛られてるよっ! 縛られてるってばぁっ!」

 足は束ねて、手は背中で、ビニールテープらしきもので何重にも固定されていた。それはもう、うら若き乙女がする格好ではない。おかげで揺すった体はイモムシさながら。この緊急事態に無様と無防備極まりない醜態を晒す。

「ぎゃぁ、助けてー。ちょっと、うわぁぁっ!」

 騒々しさに、起こして失敗だった。レフが後悔したことはいうまでもない。

「言われなくても分かっているッ」

「な、なんで、そんなにすんなり飲み込めるのよぉっ! しっ、縛られてるんだってばぁっ!」

「起きてすぐ、よくそれだけの声が出るな。少しは落ち着け」

「落ち着けませんぅー」

 揺すった体で百々はありったけ訴え、その目をはた、と瞬かせた。

「って、レフどこ。どこにいるの?」

 声はすれども先ほどから姿は見えない。

「も、もしかして、やっぱ天国とか……」

 恐る恐るだ。空へ視線を持ち上げた。

「勝手に殺すな」

 結局どやされる、これぞ鉄板。

「お前の頭側に拘束されているだけだ」

 言われて再び頭をひねろうとするが、なぜにや転げ落ちそうになるのだから百々はその場に張り付いた。

「う、動けないよぉ」

「仕方ない。お前が木箱を叩き割ったせいだ」

「ず、ずびばしぇん。バンバン撃ち合いにもなりました」

 まったくもって何をしに来たのかさっぱり分からない。

「で、でもさ、チーフは失敗したらレフだけが大変だって言ったけど、あたしもこんなになっちゃったからさ、お、おあいこでよかったね。あはあは、あは」

 どこがだ。

 笑ってみるがレフの声は聞こえず、むしろ聞きたくない心の声を聞かされる。おかげで無理のあった笑いもそこで枯れていた。疲れはどうっと押し寄せて、百々はただただ天井を睨む。

「ぶたれた頭、痛い……」

 もう声に力も入らなかった。

「俺もだ」

「あ、それ、メイヤードでも聞いた。でも今日は全然、笑えないんですけど」

 などとそれは数少ないレフのジョークのはずだったが、この状況ではホテルの修羅場など天と地ほども差がある。

「当たり前だ。笑うところじゃない」

 つまり、こう言うことらしかった。

「じゃ、や、やっぱりあたしたち、どこか人里離れたところで処刑されるんですかぁ?」

 もう痛みはどこぞへ吹き飛んで、睨んだ天井もたちまち滲じみ始める。

 というか、すでに人里離れたところで拉致されたのだからもうあれ以上、人里離れた場所はこの世に存在せず、処刑とは処罰であり、過程に法の裁きが介在するのだから誤用も甚だしいが、それら随所に引かれた赤線など知ったことかで絶望のどん底、百々はひたすらヒンヒン鼻を鳴らした。

「そんなのやだよぉ。こんなところでレフなんかと死にたくないよぉ。おぉおぉおぅ」

「泣くなッ。こっちからも願い下げだッ」

 一喝するレフの声は大きい。

「いいか、俺たちだけの問題じゃない。テロが公表されれば混乱は必至だ。それが奴らの狙いなら、させないためにも必ず脱出する。必ずオフィスへ連絡する。必ずだ」

「そんなカッコイイこと言い過ぎだよぉ。もういいじゃんさぁ。バービーさんがいるんだからさぁ」

「つけていない。仕事だ」

「嘘だぁ。嘘だぁ」

「つけるなら、もっと他を選ぶッ」

「じゃ、そっちにすればよかったのにぃ」

「お前に言われる筋合いはないッ」

 いつしか百々は泣いて他人の人生を悔やみ、悔やまれてレフもキレると声を荒立てた。おかげで脱出するその前に、なぜにや互いは息を切らす。

「クソ。とにかくグズっている暇はない」

 不毛だ。

 気づいたレフこそ賢明だろう。

「何とかこっちへこい。拘束を解く」

 百々を誘う。

「えぇっ。動けないって言ったじゃんさぁ」

「グダグダ言うなッ。支柱に腕がくぐらされている。俺の方こそ動けない」

 なら百々の頭側で、そんな支柱と格闘しているのだろう。鈍い音は連続した。

「ガンバレ、ガンバレ」

 他人事と送るエール。

 と、混じり鼻歌は近づいてくる。「ゲットバック ザデイ」、スカンジナビア・イーグルスの楽曲だと知れたそのときだ。口ずさむ人影は百々の頭側を横切ると、風をまとってこの場に現れていた。

「さすがトムだね。起こす手間まで省いてくれるなんて助かったよ」

 声に思わずアゴを持ち上げる。

「ならついでだ。手っ取り早く行こう」

 見えた黒い上着をなぞればそこに、楽し気なジェット・ブラックはいた。傍らには対照的なまでに黒い顔に白いシャツを着た不機嫌そうな男も立っている。

「僕は正義を行いたいだけなんだ。だから理由ははっきりさせておきたい」

 かと思えば端正な白い顔は、そんな百々へふいと振り返ってみせた。

「言っている言葉は聞き取れているだろ?」

 ニホンゴハ、ワカリマセン。

 百々こそ言えるような造作をしていない。

「そう、トムたちは一体あの場所でどこまでを聞いたのかってこと。そのことをぜひトムの口から聞いておきたいんだ。何しろ根拠もなくひどい仕打ちをするなんて、正義に反するからね」

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