第41話
引き戻されたレフの面持ちに、目にしたものが何だったのかを百々もまた理解する。案の定レフの口は「ジェット」と動き、「戻れ」と百々を促した。などと指示されなくともそれが最善だとしか思えない。何しろミッキー・ラドクリフはウィルスを始末したと言ったのだ。そのための寄り道であれば辻褄は合い、そんな彼らは初めからウィルスをバラまく気などありはしなかった。世間を混乱させるだけの事実をでっち上げる。それがテロの目的だと言うのである。
ずるい。
百々はへの字と曲げた口を結んだ。
ひどい。
植えつけられる恐怖の大きさを推し量り、両の拳を握りしめる。
だがこれで未曽有の混乱も終息のメドがついたも同然だった。しょせん嘘なのだ。放っておけばいいだけである。ここで無茶をしてまで確保する必要はなく、大人しく撤収。テロがハリボテであることを報告するだけで企みの効力は一切を失い、事態の公表は回避され、世の中は何も変わらぬ明日を迎えるはずだった。
返事ができないせいで先ほどからしつこいほど百合草の呼びかけは続いている。心おきなく伝えて返すためにも百八十度、百々はその場で方向転換する。狭い通路で先頭を預かると、おっかなびっくり暗い回廊をあと戻りしていった。
さて、このシチュエーションにおけるゴールデンパターンがあるとすれば、わざとらしいほど置かれた小枝をパキャと踏み折り、そのかすかな物音で悪漢どもに気付かれるあの構図だろう。冗談ではなかった。悪いイメージを振り払う。足元へ視線を巡らせ鼻で笑った。やはりそれは映画の中だけの話だ。屋内のここに小枝は一本たりとも落ちておらず、あるのは長らく放置されて朽ちた木箱の残骸だけだった。
が瞬間、その残骸を踏み損ねる黄金法則。
ただし、折らなかったなら音も立たなかった。
傾ぐ体に、おおう、と心の中で声が上がった、ただそれだけで、支えて百々は木箱へ手を突く。
はずが正拳突き、とはどういう事か。
朽ちていたのか。
いたんだろう。
腕は木箱を突き抜ける。
バキ、と大きな音は鳴り、メキメキ、めりめり。傾ぐままに木箱の中へ体を沈めていった。
「……バッ、カヤロウッ」
背後でレフが絞り出す。
何だ、どうした。ジェットらがたちまち色めきだっていった。
「すっ、びばぁせんぅっ」
涙浮かべて詫びるがどういうわけだが、ミチミチ、やがてはバキバキと、頭上から音は聞こえ始める。
「ふぁ?」
見上げた百々の目に、覆いかぶさるようにたわむ木箱は映り込んだ。
「ぎゃ……」
瞬間、体は掴まれる。
木箱の中から引き抜かれていた。
「うわはっ」
「走れッ」
「はいぃっ」
怒号は飛び、もう小枝ごときを何本踏んでも追いつくまい。つんのめりながらも駆け出した百々の背後を、怒涛と崩れゆく木箱が埋め尽くしてゆく。叫んで頭を抱えれば、もうと舞い上がった砂埃が四方を覆い尽くした。そのカビ臭さもまたアフリカ独特。払い、蹴散らし、抜け出して百々はえづく。
「ひど。けほ。何これ。うぉホっ」
開けてゆく視界にようやく光は差し込み始めていた。
だとして助かった、と思えるはずこそない。
ジェット・ブラックとミッキー・ラドクリフは、いや、いかつい銃器を提げたその取り巻きが、砂ぼこりの中から現れた百々をひたすら見つめている。果たしてその目と目が合ったとして、いつもの愛想笑いが出せる道理はない。むしろ悲鳴を上げかけて、真横で爆ぜった銃声に身を跳ね上げた。
「止まるな、走れッ」
レフだ。
吐きつけ引き金を絞る。弾き出されて薬莢が空を舞い、白と黒の人垣は一気に左右へ散っていった。同時に飛び交うのは理解不能な言語で、やにわに黒い顔は振り返る。闇雲と引かれた引き金は木箱をさらに木っ端微塵にした。
「聞こえたのかッ。走れと言ったら今すぐ走れッ」
制するレフの体が切り返される。向けなした銃口で引き金を絞った。弾き出された薬莢は再び百々の視界をかすめ、光景に百々はようやく目を覚ます。止まっていた息を吐き出した。
「はっ、はぁいっ!」
だが動転するあまり踏み出す足が選び切れない。あいだにもレフは右へ左へ小気味よく弾を放って後じさり、その尻で百々の体を押し出した。きっかけに百々はようやく走り出す。だが目指す出口こそ一息の距離にはおさまらない。おっつけレフもきびすを返せば物影から、退避していた黒人たちも追いかけ飛び出してくる。
「ひゃあぁっ」
たちまち飛び来る弾は節分の豆か。
百々は頭を抱えかける。
体を宙に吹き飛ばされていた。
足に代わって背が地をとらえる。
押し倒したレフが真上でロシア語をまくし立てている。悪態に違いない。気合に変えて身を起こし銃口を振りかざす。
だからして入れ替わりと、寝返った百々の目に飛び込んできたのは壁へ鼻先をつけて停め置かれた一台の車両だ。神様、仏様、遮蔽物サマの勢いで匍匐前進。援護するレフもろとも回り込んだなら半死半生、車体へ背をはりつける。集中砲火は、そうして幾回りも大きくなった的へと息継ぐヒマなく浴びせられた。
「ふひゃあっ!」
衝撃はすでに銃弾を浴びたがごとし。今にも撃ち抜かれそうに背で跳ね踊る車体が究極、心もとない。
「いい加減に、しなさいってばぁっ!」
たまらず吠えて十倍返し。飛び来る弾の密度こそ増して百々は詫びる。
「うそっ、うそでぇすっ!」
「オフィスへ報告ッ!」
屈みこみ、傍らで残弾を確かめるレフが声を張り上げていた。かと思えば尻を跳ね上げ車体を回り込むや否や、引き金を絞る。その肩が放たれた二発に跳ね上がり、百々がイヤホンを手繰るうちにもさらに二発、浴びせて元の位置へと背を押し付ける。
「これが最後だぞッ」
グリップから落とされたマガジンが乾いた音を立て、予備を押し込んだレフはチェンバーへ弾を送り込む。声に百々も顔を上げていた。だが答えて返すなどもう二の次となっていた。
「レフっ!」
逸れた視線にレフも身をひるがえす。
男が車体を回り込んできていた。
発砲音はレフの手元からで、身を引いた男のみならず後続の影も車両の脇でちらつく。
目にしたレフが両手でグリップを握りなおした。添わせていた背を車体から剥がし、そんな影をも追い払って弾を撃ち込んでゆく。
「どっ、百々ですっ!」
前にして冷静に話せたならもう転職すべきだろう。
「……じょっ、じぃっ! ジェットきてます。ロンにっ、見つかっちゃいましたぁっ!」
どうにか吐き出す、なんちゃって報告。
「ばんばん撃たれて、撃ち返して。そのっ、あ、え、へっ?」
いや、実況中継している場合ではないと我に返る。
「そ、てっ、テロが分かりましたぁっ!」
伝えなければならないのは、その一点だけだ。
「ウィっ! ウィルスはおねーさんがっ、しょ……」
と、レフが振り返る。連射に煙をくゆらせた銃口で百々を指した。
「ぶんぅ、ぁぎぁゃっ!」
絞られた引き金に百々はのけ反り、日本語は崩壊して、軋んだ車体から撃ち落された男は百々の足元へ降ってくる。
「ぎゃわぁっ!」
のみならず新たな影は真上を過った。
まさにレフの肩先に着地したなら、互いが振り返ったタイミングこそ同時だろう。近さにかけたレフの足払いが男を跳ね上げる。虚を突かれて仰向けと転んだ喉へヒザ頭を叩き込み、押さえてレフは車体を回り込んで来た新たな顔へと銃口を突き付けなおす。
だが一人、二人と車両の屋根から、こぼれるように男たちは降っていた。
目にして「後ろ」と知らせる百々の声はもう悲鳴に近い。
応えて振り返ったレフの銃口が二人目を弾き飛ばし、三人目をとらえてみせた。
が、そこで弾切れとスライドは開き切る。
だからこそ決断の早さは電光石火と、突き付けられた銃口を一歩、踏み込むと同時に手で払った。逸れた銃弾は車体へ一列に穴を空け、のけぞった相手の横面めがけレフは拳を叩きつける。殴り飛ばされた男の体は地面へ投げ出され、入れ替わりと四人目の気配は過る。向かって踏み込み、前屈みとなった位置から視線を上げたその時だった。ヒヤリ、鉛の塊はレフの額へ押し当てられる。
感触に止まったのは動きだけではないだろう。
息もまた、だ。
背へ、にわかに追い払ったはずの足音が近づいてきていた。
やがて熱の残る銃口が後頭部もまた突いてみせる。
すでに伸されたような百々に声を出せる余裕などない。
埋めてゲームオーバーと、乾いた拍手も緩慢と鳴った。
「やあ、公安のトム」
いつからか息はあがっていた。
「相変わらず勇敢で感動したね」
視界の端から歩み寄る足は現れ、レフの前で立ち止まる。
上下する肩のままだった。突き付けられた銃口を押しやり顔を上げたそこに、ジェット・ブラックの、いやあの眼鏡男のか、見下ろす姿をとらえる。ならば言ってやるほかないだろう。
「最終回だ。知らせに来てやった」
「ああ、その話か」
覚えていたらしい。逸らした視線でジェットは参ったよう頭を振ってみせる。肩をすくめたその後で、青い瞳だけをレフへと裏返していった。
「仲良く喧嘩しな。だったっけね」
だがそれが合図だったようだ。
「けれどその前にトムには聞いておきたいことがあるんだ」
何を、と問う間もない。
後頭部めがけ銃は振り下ろされる。
それきり崩れ落ちたレフに起き上がる様子はなかった。
目の当たりにした百々は血の気が引いてゆくのを感じ取る。
ならやがて、白と黒の顔に顔はオマケのように取り残された百々へも振り返っていた。だがそこまでだ。多分にもれず百々へも銃器は降りおろされる。百々の意識もまた、それを最後に途切れていた。
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