第39話

「いいフレーズだが」

 代わってコーヒー、とだけ乙部は告げた。ガロの向かいへ腰を落とす。

「あんたから聞くモンじゃないな」

 これもまた豪快に笑い飛ばすガロは、ことのほか上機嫌だ。

「選ぶな。贅沢には天罰が下る。何年ぶりだ?」

 身を乗り出した。

「気にするのか、あんた」

「社交辞令だろうが。少しは付き合うのが礼儀だ」

「ガラだったとはね。老けた気分になるだけだよ、数えない」

「それこそ気にし過ぎだ。よけいに老けるぞ」

 間違っているか、と言わんばかりに眉間を広げた。

 などと冗談へは言ってやってもいいはずだろう。

「あんたこそ、まだ飛んでるんだって」

「ほほう、羨ましいのか。後悔するのが遅すぎるな」

「まさか。そういう仕事は早く若いヤツに譲ってやるべきだってことだよ。昔のよしみで教えておいてやる。あんた、嫌われているハズだ」

 だとしてガロの様子にこそ変わらず、その通りとずいぶん芝居がかった仕草で首を振り返してみせる。

「仕事は奪い取れ。教えを請うなら誠意を見せろ。惰性でやるヤツは目的を見失いやすい。おっと、全て俺の名言だ」

 などと全てはこれを言わんがための前置きだったらしい。

「そうだ、だから見失ったお前はとっとと足を洗った」

 一本取ったと、ここでも白い歯を披露した。いかほど経とうと師が師であることに変わりはない、と見せつける。

「引き際を見誤るとあとが悲惨だ。そういう哲学もあるんだよ」

 負け惜しみと返す乙部へ面白い、うなずき返し乗り出していた体を引き戻していった。場を仕切り直すように一呼吸入れてのち、ポン、とヒザを打ちつける。

「さて。戻って来る気で打診してきたのかと思っていたが、違う様子だ」

 期待されることは有難いが、どう転んでももう可能性はない。ウエイターも乙部の前へコーヒーを置き去ってゆく。

「ならどうした?」

 聞きながら乙部は一口、すすった。

「仕事があるってことは、この辺りはまだ相変わらずなのか?」

 もちろんそれが漠然とした問いであることは承知している。だがもう全てを明かせるような関係でこそなく、ゆえにガロも戸惑ったような顔をしてみせる。さてどう話すか。思案するまま椅子の背もたれへと体を倒してゆき、やがて沈み切ったそこから選ぶように低く言葉を紡ぎ始めた。

「独裁と独立と、抵抗と仲裁と。無政府状態に民族間紛争と飢餓。そこにたかる偽善と商売と。物資を届け、人を運び、メディアへ道案内するかたわら実戦の援護。行く先は棍棒を振りかざして襲いかかってくるところもあれば、実弾撃ち込む物騒なところもふんだんにある。お前が知る頃と大して変わらない。いや、何も変わっていないだろうよ」

 傾き始めた日のせいでガロの上下はいつしかセピア色に変わっていた。変化を眺めつつ乙部は、それは何より、とくどいほどうなずいて返す。

「つまり、途切れさせずに火を配り歩く輩も昔とおり、ってことだ」

 小首をかしげた。

「ナイロン・デッカードか」

「確か、あんたより年上だったろう」

「そうだな」

「変らないならあんたに負けず劣らずの頑張りだ」

 たたみかけてガロの目をのぞき込む。見合えば途切れた会話を取り戻すように、ガロはおもむろと両手を広げていた。

「つまりオツはその話のためにここへ来た」

 その通りだ、とは言ってしまえない。代わりと乙部はもう一口、コーヒーをすする。

「そのためにわざわざか。まぁ、つくづくお前もここを離れて長くなったってことだな」

 じゅうぶんに伝わったなら頭を掻いて吐いたガロは、投げやりだった仕草も姿勢も改めた。

「ヤツのことは俺たちの間じゃ、もうよく知られた話になっている」

 語られ始めた話には出し惜しみがない。だからこそ信用できる全てへ乙部は耳を傾けていった。


「送信者はエリク・ユハナだ」

 アパートの一室はいくぶん残念な構図をかたどっていた。エリクがおさまっていた椅子は倒れ、転げ落ちた当人は床へ這いつくばると、何とも情けない顔つきでそこからハートを見上げている。

 どうせ日本語は聞き取れない。横目にとらえてハートはさらにオフィスへ続けた。

「こいつはとんだバカ野郎だ。自慢らしいぞ。自分がやったと早々に自白した。しかもフィンランドでの自供を忘れて、自分のことをロンだと名乗って笑うようなイカレた野郎だ。おかげでストラヴィンスキーが一発、殴ったぞ」

「す、すみません。あまりにも冗談がつまらなかったもので、つい」

 などと通信へ割り込むストラヴィンスキーは、ここでも間違いなく確信犯だ。

「射殺していないなら、かまわん」

 気づかぬはずもなく百合草もまた少々疑問が残る引き合いと共に切り捨てる。

「おかげで自白はすんなり取れたがな。実際はロンから部屋とパソコンをあてがわれ、指示されたとおりデータを改ざん。犯行予告を送信しただけらしい。バカはロンの居所どころか、文言以上、テロの詳細は知らんとぬかしやがる」

 聞かされ珍しくも百合草が、通信の向こうで舌打っていた。

 聞きながらハートは裏返した目でエリクを睨みつける。浴びてたじろぎ椅子へしがみつくエリクの顔は、まだ鼻血も涙も乾かず哀れが服を着ているようだ。見ているだけでこちらの気持ちも萎えてならない。

「ロンとのやりとりはネットのみ。実際に部屋から何から世話をしたのは代理人だと言って現れた心底、気に食わん男だ、ジェット・ブラック。アパートへの出入りが確認されていたそれが理由おいうわけだ。確かにヤツは支援者への足がかりかもしれん。だがブライトシートでもそうだ。ロンまであと一息と言うところで絡んで全部持って行きやがる。どうにも邪魔でならんぞ」

「だがここで方向転換している時間はない」

 言い切る百合草のそれは正論だった。

「ウィルスはコートジボワールが追跡中。オスローは引き続きその線から支援者ロンの特定、回避すべくテロの詳細把握につとめろ。そのためならあと二発は黙認する。ジェットが邪魔なら即刻外へつまみ出せ」

 そのとおりと残り時間はもう十時間を切っている。ああだのこうだの試している暇はない。

 ハートとストラヴィンスキーは了解と締めくくる。切られた通信に、それぞれの耳からイヤホンを払い落した。そうして何を言う前だ。互いに互いの顔を見合わせた。

「ま、手はあるわけですが」

 切り出すストラヴィンスキーはなぜかしら、握った拳を撫でまわしている。

「そうだ。ロンと直接やりとりしたパソコンを洗うしかない。ただし分析にかけている時間はないぞ」

 ハートもぬらり、白目を光らせた。

「いえいえ、ここに有能な専門家が転がっているわけですから」

 などと話が弾めば結論は、すでに出たも同然となる。

「あとはそいつ次第と言うわけだ」

 二人はエリクへ振り返った。

 ままに浮かべる笑みは至極優しいもののはずだったが、むしろその優しさが逆効果となる。掴んですがった椅子を盾に、エリクは部屋の隅へと後じさっていた。


 比べて遮蔽物は何もない。

 互いの間にはただ距離があるだけだった。

 だが滑走路を挟んだ向こうというそれは、隔てているだけで案外、障害物にも匹敵する効果があるらしい。加えて格納庫らしき平屋へ沿わせ車を停めたミッキーは、自らもその影へ紛れたい様子だ。車から降りるや否や保冷庫を抱えた顔を上げることなく返すきびすで奥へと足早に立ち去っていた。

「一人かッ?」

 確かめレフが声を上げる。

「一人だったよ。けっこう急いでた。全然こっちに気づいてない。建物の向こうへ走ってったよ」

 エンジンが次第にトーンダウンしていた。果てに滑走路の脇でブレーキは踏まれる。

「徒歩に切り替える。俺との回線は常時、開いておけ」

 指示を飛ばすレフがサイドブレーキを引き上げた。

「りょ、かい」

 あわせて百々も引っかけていただけのイヤホンを耳へ押し込む。言われたとおりに端末を設定しなおした。

「緊急連絡」

 傍らでレフがオフィスを呼び出している。イヤホンの向こうで声は交錯し、だがジープを飛び降りたレフに待つ、という気遣いはないらしい。

「ブーンディアリ空港到着。WHOの車と女を発見した。空港に発着便はない。女は一人。徒歩での移動に切り替えた。こちらも徒歩で女を追う」

「ウィルス所持の確認は?」

 だとして百合草が聞き逃すはずもない。

「入れてあるって聞いた保冷庫、提げてるのを見ましたっ!」

 セカンドバックを握りしめ、百々もジープから飛び降りた。

「中の確認は取れていない」

 レフが付け足す。

「今しがたオスローで送信者が確保された」

 切り出す百合草に瞬間、百々とレフはジープの両側で目を合わせていた。

「送信者はエリク・ユハナ。支援者ロンから指示のみを受け、一連のハッキングを決行。以外は知らされていないとのことだ。ロンとの面識もなく、間を取り持ち機材等を用意したのはジェット・ブラック。引き続きオスローはそこから支援者ロンの特定と散布場所の解明に当たっている」

 ここでこつ然と消えていた彼が姿を現すなど、驚きすらすんなり馴染むのだからおかしなものである。

「お前たちはそのままミッキー・ラドクリフの行動を監視。報告を上げろ。ウィルスを所持している限りロンは必ず接触してくるぞ。バックアップがいないことを忘れるな。確保は体制が整うまでこちらの指示を待て」

「……やってみる」

 レフの返事は微妙だが、百合草もこだわったところでどうにもならない無駄を省きたいらしい。

「オスロー側から何か出るかもしれん。それ次第だ」

「了解」

 返すレフに百々も小さくうなずいき返した。

「百々は聞いているのか?」

 おかげで注意されるなどと、こういう時は頭数に入っているのだからかなわない。

「はい、はいっ。聞いてます」

「はいは一度でいい」

 それは小学生へ言う言葉である。

「いいか。失態は自分ではなくレフ・アーベンの身にかかわることを忘れるな」

「それバービーさんに一生、恨まれるし」

「返事はっ?」

 ぼやいて急かされ、背筋を百々は伸び上げた。

「りょぉっ、解しましたっ!」

 無駄な時間を過ごしたと言わんばかり、それきり通信は切られる。

 見計らい、行くぞとレフがアゴを振っていた。返すきびすで駆け出せばオレンジ色は枯れた大地にちょうどと紛れる。追いかけ百々も身を弾ませた。広がる荒野へと飛び込む。


 整備された広場の片隅。

 話すガロの口調は実に淡々としたものだった。

「ナイロン・デッカードは、もうお前の知るナイロンじゃない」

 乙部はどういうことだと眉を寄せる。

「ナイロンの潤沢な資金がヘロインやマリファナに支えられていることは、お前も知ってた話だろう。三年ほど前か」

 自らへ確かめるようにガロは広場へ視線を投げた。引き戻して身を揺すり、今一度座りなおし口を開く。

「買い付けに北から生っちろい若造がやって来た。ナイロン・デッカードの名で今、商売をしているのはその若造だ」

「二代目、か?」

 問えばガロは苦々しく笑っていた。

「そいつは聞こえがいいな。確かにナイロンは表向き譲って引退したということになっているが、闇へ葬り去られたというのが言わずもがなの真相だ。右へ左へ、何しろナイロンはいい顔で嘘をつき儲けてきた。そうやって踊らされてきた商売相手の中にはいいカモにされていると気づき、奴をどうにかしたいと考えているやつも少なくない。そこへ現れた若造はちょいと様子が違ったというわけだ」

 どう? と乙部は首を傾げる。

「買い付けに来るうちナイロンの便宜を図って商売を手伝い始めたらしいが、そのついでに若造は、顧客の不満をうまい具合に吸い上げてやったというわけだ」

 教えたガロは何をや深くうなずいた。

「聞くところだと若造は正直者らしい。商売ではなく、自分たちの勝利のために力を貸してくれるということだ。同じ黒人のナイロンより信用できると、これがたいした人気者になっている。おそらくナイロンを始末したのは取引相手だな。その後押しで若造は成り上がった」

 直後、もれた笑いは皮肉の塊でしかない。

「どうだか怪しいもんだ。思うだろ? 仕事を取っても命まで取って平然としている野郎が真っ当であるわけがない。そういうヤツこそ俺なら関わらない類だな」

 口にするガロに嫌悪の表情は浮かぶ。

 ならこのことを確かめずにはおれないだろう。

「その北から来た若造、って言うのはどこの誰だ?」

 向ける眼差しは強くならざるを得ない。

「さぁ、首を突っ込みたくはないんで詳しくは知らない」

 だがガロの返事は冴えず、

「ただ」

 付け加えて一呼吸おいた。

「若造は界隈じゃこう呼ばれている。ジェット・ ブラック。北欧から来た白い兄弟、ってな」

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