第38話
オペレーティングルームのガラス越し、影が動いたような気がして前のめりだったそこから振り返る。
「チーフ」
犯行予告が送り付けられて以降、通信を介し続けられていた会議がようやく終了したらしい。歩み寄ってくる姿に思わず曽我は声をもらしていた。
「今、何時だ?」
問われて互いに時計へ振り返れば、そこで針は深夜、零時四十五分を指している。
「もう日付が変わったか」
先に読んで百合草は吐き、ならって曽我もうなずき返した。続きのように百合草は、やおらこうも口を開く。
「全職員を呼び出せ」
長引いた会議の直後だ。その指示が意味するところは明らかだった。聞き逃すことなくオペレーターたちは動き出し、曽我もすぐさま百合草へヘッドセットを差し出す。
「ブーンディアリに入りましたっ!」
一番に返ってきたのは言う百々のバカでかい声だった。
「急に呼び出すな。突入態勢に入ったところだぞ」
そこにハートの声も交錯する。
「空輸って物資じゃなかったの? あたし兵隊さんの中に一人なんだけど」
どうやら乗った輸送機は、補給人員を乗せていたらしい。雑音の目立つハナの声もすかさず重なった。
「緊急ですか?」
眼鏡のブリッジを押し上げているに違いない間合いを醸し出すのはストラヴィンスキーで、ただ乙部だけがやけにゆったり先を促す。
「……どうぞ」
聞きながら手早くマイクを引き寄せ百合草は、しかしながら欠けている一名を呼びつけた。
「聞いているのか、レフ」
「応答は百々に任せてある」
ぞんざいな一言にはまったく、と眉間を詰めるほかない。だがすぐにも百合草は気持ちを切りかえていた。
「全職員へ緊急連絡」
放ち、アフリカの空の下で、向かって飛ぶその空の上で、夕闇近いマーケットの片隅で、息を詰めたアパートの一角で、そして日本にある小さなオフィスで、待機する誰もへ向かい告げる。
「上層部とWHOを交えた会議の結果、本バイオテロ対応の一環として一部、事実の公表が決定された」
言うまでもない。それはこれまで隠し通すことで得て来た利益が見込めなくなったという証だ。
「公表される内容は空港におけるバイオテロの可能性と、使用される恐れのあるウィルス名。公開範囲に制限はない。公開の条件はこれより十時間後、実行予告八時間前において、持ち出されたウィルスが回収されなかった場合のみとする」
頭へ刷り込め。
言わんばかりの間が全通信網を覆った。
経て静かに、言うまでもないことだが、と百合草は続ける。
「いったん事実を公表すればウィルスによる実害以前、人と物の流れの停滞。それらが招く混乱と経済的ダメージは必至かつ甚大となる。そして真に危惧されるのは、目に見えないがゆえに潜在的に続くだろう細菌への恐怖だ。すなわちたとえテロが未遂におわったとしても一度、事実を公表すれば事実上、成功したといわしめるだけの被害が生じることとなる」
それはまさに百々が帰れないと喚いたことであり、大手を振って表へ遊びにも出られないと言う光景そのものだった。危機は見えぬうちに拡散し、降り注いで汚染すると、いつの間にか人々を蝕んでゆく。取り除いて洗い流す術がまだないならなおさら疑心暗鬼と世間はうろたえ、起きる混乱は曲げようのない力を放つはずだった。一度その混乱に落ちてしまえば元へ戻すなどと軽々しく口にはできない。むしろ元へ戻らぬための新しいルールは必要となり、それは何かを我慢しどこかへ犠牲を払うことなのか、それとも漂う死臭と共に生活することなのか、全くもって見通しは立たなかった。ただどちらをとろうと同じ顔と出会う当然のように信じられていた
「実行の阻止はもちろんのこと、ゆえに何としても公表を避けたい」
百合草の語尾は希望とつづられていたが、口調は避けろと響いてやまなかった。
「よってウィルスの追跡と回収を最優先事項とし、並行して散布されている空港の特定とロン、ジェット・ブラックの確保に残り時間、全力を注ぐこととする。以上。何か質問は? あれば今、ここで受け付ける」
だとして切迫した事態に入れて意味のある横やりこそありはしなかった。そして目的をひとつとして各地で動くそれぞれに今さら確かめることもまた、だ。
「各自、身の安全と共に、十時間以内の成果を期待している」
いくばくかの沈黙を経て、百合草が通信を締めくくっていた。
「だって」
聞き終え百々はレフへ振り返る。
「分かっているな」
そろそろ意思疎通もスムーズになって当然だ。返され百々も眉を開く。
「あたしたちが一番、ウィルスに近い」
「最優先事項だ。他に誰もいない」
「だから、そんなつもりで来たんじゃないんだってばぁ」
嘆いた目へ飛び込んできたのは、火の見やぐらよろしく組み上げられた鉄塔だ。天辺で風力計が右へ左へ頭を振っている。
「あ。レフ、空港っ!」
声は上がりジープの上で、百々も指を突き付け立ち上がっていた。いくぶん高くなった視線のおかげでいつからか、草原を切り開いて開墾しましたと言わんばかり土くれも剥き出しの滑走路と併走していたことにも気づかされる。それもそのはずと私用地のような国内線の空港は、出入り自由とフェンスがなかった。
「ご、豪快」
むしろ本当に滑走路なのか。なぞって投げた視線の果てに、剥げたペンキが廃墟のような建物は揺らめく。
「何か見えるかッ?」
だがレフが問うているのはそんなものではないだろう。強い日差しを嫌って百々はひたすら目を細める。
「飛行機、ないよ。飛んでも……」
手をかざすと広すぎて一目では見渡しきれない空へ体をひねった。
「来てないし、人が見えない。だぁーれも、なぁーんにもないよっ!」
「離れるのはWHOの車両を確かめてからにするぞッ」
否やハンドルは切られる。
「ぎゃあ」
ジープは百々を振り落さんばかり、滑走路へと近づいていった。
到着した七階フロア、その吹き抜けからハートは頭をのぞかせる。眼下に待機するオスロー警察の制服を確認した。気取られるだけで交通規制など出来はしなかったが同様に、いざとなれば周囲を包囲できるだけの警官は辻々にも待機している。出番があるかどうかはこれからの展開にかかっており、対峙して吹き抜けを取り囲む四つのドア脇にはこうして突入に備えた署員たちもまた張り付いていた。
無論、空き家から人が出て来る道理はない。だが別の部屋ではつい先ほど、どこぞへ出掛けようと住人が姿を現していた。事前情報通りそれは屈強な男でもなければ正体不明のチンピラ風情でもない。子犬の散歩に身なりを整えた鼻歌交じりの老婆だ。鉢合わせた署員の対応は冷静かつ迅速で、知らぬ間に囲まれたこの状況に動転する彼女をとりなすと至って静かに部屋の中を改めている。シロと判明するにさほど時間はかからなかった。
それら成り行きに突入のタイミングを奪われているところへ入ったのが日本からの一報だ。予定時刻はさらに数分ずれ込むことになり、仕切り直してハートはひとつ息を吐く。吹き抜けを挟んだ向こう側、同じく署員らを従えるストラヴィンスキーへと視線を投げた。
突入する予定にある部屋の名義は双方ともがまるきり知らぬ名だ。しかしながらそれが何の証拠になるのか。嘘つきジェットが出入りしていたならなおさらだろう。
軽く唇を湿らせる。
指を呼び鈴へあてがった。
押し込み、現れるだろう何某を待ち受ける。
とはいえそもそもフェンスがないのだから、車両を探すといったところでガレージだとか、裏道だとか、皆目、見当がつかない。しかしここで機に乗り換えていたならそのどこかにWHOのマークが入ったトヨタ車は乗り捨てられているはずで、ひたすら百々は目ぼしい影を探して四方へ首を振り続けた。
乗せてジープは滑走路をなぞるように走り続ける。前方にあった風力計が背後へ吸い込まれて行き、入れ替わりで滑走路の費えた先に管制塔らしきレーダーを乗せた建物は現れていた。格納庫だろうか、脇には木造の平屋も数棟並んでいる。
だがそれだけだ。他に何もない。
「ごめんっ! あたし、車だけ見えなくなったのかもしれないっ!」
と、吐いたその時だ。視界の中で何かは動いた。
自分が移動しているせいかと百々はしばし目を瞬かせる。だが間違いない。管制塔と格納庫らしき平屋の間だった。まさに一台の車両は滑り込んでくると、百々たちへ鼻先を向けブレーキを踏む。立て続け中から人影さえもを吐き出してみせた。
もう車のロゴなど関係ない。
遠かろうとその立ち姿に覚えはある。
通訳の女だ。ダメ押して釣帰りか。彼女はクーラーボックスらしき箱さえ肩から提げていた。
追いついた。
言葉が中で点滅する。
反芻してのち口は開かれていた。
「い、いたっ! いたよレフっ! 通訳のお姉さん、あそこにいるっ!」
ジリリとベルが鳴り、ヒステリックに住人を呼びつけていた。無視できそうにないけたたましさは、やがてドアの向こうに人の気配を揺らす。
近づく足音にハートは耳をそばだてていた。
急かして傍らで郵便です、と署員も声を上げる。
疑うそぶりはない。だが性根は用心深いようだ。鍵が複数、解かれゆく音がドアを挟んでガチャガチャ鳴った。やがて前に立つハートを押しのけるようにして壁からドアは浮き上がってゆく。
一方で呼び鈴は、そんなハートの背でも鳴らされていた。押し込んだ手を引き戻してしばらく、うつむきストラヴィンスキーもまた反応を待つ。
出かけているのか。すでに逃げた後なのか。反応がないならもう一度だ。くどいほど長めに鳴らし耳を澄ませた。
背後からはハート側のドアで、施錠の解かれる音がしている。邪魔だと意識からより分けたなら、残ったそこで響きはかすかと尾を引いた。正面からだ。ドアで塞がれかなりくぐもっているが、何か、音楽は聞こえていた。
誰かいる。
だが出てこない。
音量のせいか。
と郵便を受け取りに、吹き抜け向こうでドアは開く。短パンにTシャツ姿の、寝ぼけ眼を絵に描いたような男は玄関口へ姿を現していた。情報通り見てくれは二十代が妥当な若者で、先だっての老婆よろしく囲まれた状況に目を覚ますと、ハートが突きつける令状へ唖然とし、突入してゆく署員たちへ押し入られるがまま道を空けている。
「あれ、つまりここがアタリってことですか?」
やり取りをうかがうストラヴィンスキーから言葉はもれた。
「じゃなきゃ、まずいってのもあるんですけど」
待つ理由はもうないだろう。疑いだけにしては少々手荒だとしても考慮している事態でこそない。
腰から銃を引き抜く。チェンバーへ弾を送って安全装置を解除し、背後の署員へ手を挙げた。
従い防護服を着込んだ署員が前へ出るとドア横へ張り付き、残る全員が壁ぎわへなお身を寄せる。完了したところで防護服が振り上げたハンマーでノブをひと思いと叩き落とした。食らった勢いにドアは跳ね上がり、やんわり空を切ると開く。
飛び込む前の一息は、ハボローネの二の舞を考慮してだ。だがそこから火は上がらず、聞こえていたメロディーの音量をわずかに上げただけだった。
この先、防護服は動きづらいだけで出番がない。立ち位置を交代してストラヴィンスキーが進み出る。銃口は床を指したまま。メロディーの出所を探るようにそっと中へと片目をのぞかせていった。
入ったすぐ左にリビングダイニング。その奥にベッドルーム。つなぐ廊下の途中にバスルーム。頭の中の見取り図と、実際、目にした立体を重ね合わせてゆく。同時に人影もそこに探すが、空間を満たしているのは滔々と流れる音楽のみで姿はおろか、揺れる影すら見当たらない。
踏み込む前、足元へ、左右へ、視線を這わせた。
息を整え、ワン、ツー、で身を翻す。
銃口を肩の高さに、玄関を塞いで立った。
ままに前進すれば銃をかまえた署員も後に連なる。うち三人を入ってすぐのリビングダイニングへ振り分けた。残りを従えさらに奥へ足を擦ってゆく。行く手に色があふれ始める。映画のポスターだ。どれほどうとかろうが忘れられる代物ではない。「バスボム」を始めスタンリー・ブラック作品のポスターは、あらゆる言語でバージョンで埋め尽くすほどに貼られていた。
「……ビンゴですね」
背へ、リビングダイニングを確認していた署員が合流する。目配せで異常がなかったことを受け取りストラヴィンスキーは、突き当りに現れたドアへ静かにその身を寄せていった。
この向こうだ。
かすかだったメロディーは、薄い板きれを挟んだ向こうから今やはっきりと聞こえてくる。だとして決断に勢いだけはいただけないだろう。あえて間をおき儀式のように、重い瓶底眼鏡のブリッジを中指で押し上げていった。
その手でゆっくりノブを握りしめてゆく。
見て取った署員が狭い廊下をフルに使い、援護の態勢に入った。
ポスターから投げかけられる視線は無数だ。見守られつつストラヴィンスキーはドアノブを、慎重にひねっていった。
感触に違和感はない。わずか、手前へと引く。
とたん隙間からバイオリンの音色は噴き出していた。
浴びながら部屋の中へ目をのぞかせる。
真正面だ。スチール製のパソコンラックの前に、背を向け置かれた椅子はあった。茶色い髪を乗せた頭はその背もたれから突き出ると、メロディーに合わせさも気持ちよさげと揺れている。
いつからか開いていた口から細く長く息を吐き出していた。合わせてストラヴィンスキーはドアノブの握り方を変える。開け放ち飛び込める角度を取ると、軽く沈み込ませた体でひとつ、ふたつ、突入のカウントを取った。
スリーと同時だ。
剥がすかのごとくドアを開け放つ。
洪水と廊下へバイオリンの音色は溢れ出し、蹴散らしとらえて離さぬ銃口で一気に椅子との距離を詰める。
「公安です!」
張り上げた声には鉛のような固さがあった。切れることなく署員たちもなだれ込むと突き付ける銃で椅子を取り囲んでゆく。
「WHOサーバーへのハッキングと、テロ行為の重要参考人として、ただちに同行願います!」
「重要参考人?」
聞き返されて眉間を詰めていた。
「思ったより遅いなぁ」
椅子はそこで回転する。
「眠い事いわないでよ。僕が犯行予告を送った。それで間違いないんだからさ」
言う顔を知っていた。だからこそ驚きのあまり凝視してしまう。かつて娯楽施設「ビッグアンプル」爆破の案件で入国管理局へハッキングをかけたハッカー。そして後の移送中、強襲で消えた犯罪者。エリク・ユハナはそこにいた。
「ようこそ。公安のみんな」
呼びかけに言い知れぬ嫌悪を覚える。
「僕がロンだ」
放つエリクはさも愉快と笑っていた。
ストラヴィンスキーの背へ、そのときハートは息せき切って駆けつける。
足取りは至って軽い。乙部はガロの座るテーブルへと駆け寄っていた。
「まったく、あんたの時間のルーズさには定評がある」
確かめ視線を腕時計へと落とす。そう、定刻を大幅に外していれば遅かろうと早かろうと大差はない。
「早く顔が見たかった。いいフレーズだろ」
笑ってはぐらかすガロはそつなく立てた指で、通りがかりの店員を呼び止める。
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