第37話
欠けていた三番の地図はコートジボワール北西部、隣接するギニア共和国とマリ共和国の国境付近だった。
「なんだ。内陸へ向かっているのか?」
言うレフの、影が落ちるほど窪んだ両眼を百々は見上げる。
「それじゃアビジャンから離れてく。別のおっきな空港って、隣の国へ出るのかな」
「……、……、……?」
巡らせる思考のままロシア語を呟くレフが、やおら端末を胸から引き抜いた。耳へあてがう片手間、早口と答えて返す。
「車にはWHOのロゴがある。手配がかかれば国境越えはかえって目立つ。いったん移動し飛行機に乗り変えてアビジャンへ飛ぶ。国内線に用意があるのかもしれない」
その指がオフィスを呼び出すべく端末の画面に触れた時だった。見えていたかのように呼び出し音は鳴りだす。
ワンコール待たずにつなげるレフの動きは早い。聞き逃せはしないと百々も抜き出した端末のイヤホンを絡まったままでも耳へ押し込んでいた。
「ウィルス搬送に同行していた職員が発見された」
曽我だ。声へ集中すれば自然、視線もヒザへ落ちる。
「コロゴと逆、保健所を北西へおよそ二十キロの地点。ボノングドゥーの町から本人が連絡を入れてきたわ。手前で降ろされて歩いて町へ辿り着いたらしい。容疑者はそのまま西へ逃走。持たされていた携帯電話はそのさい破壊。預かった番号のひとつはこれで消えた」
「ああ、今、女が寝泊りしていた場所にきている。もう一つの携帯電話はここに使えない状態で捨てられていた。この件は忘れてくれ」
「だと思った」
「あと、ラドクリフ荷物から地図が出てきた。だがコートジボワール北西を記した部分だけが持ち去られている」
言いつつレフは振るアゴで、紛失部分と接する他の地図を広げるよう百々へ合図した。
「職員が発見された位置とも合うわね」
「だが向かうならアビジャンだ。どこまで行こうと無人の場所で散布はない」
「分かってる。手っ取り早くアビジャンとの距離を詰めるなら空港?」
うちにも百々は地図を広げ、そこへレフは視線を落とした。端に明記された地名を拾い上げると紛失部分の範囲を知らせる。
「範囲内の国内線、位置を頼む」
「追いつける?」
聞き及んだオペレーターが自発的に動いているのだろう。あえて曽我が指示を出す気配はない。
「彼女が保健所を出てもう四時間近く経つ。乗り捨てられた車を見つけたいわけじゃないわ」
「だが俺たちだけでアビジャンをカバーすることはできない」
「範囲内に空港はボノングドゥーから二十キロ、ブーンディアリ。ブーンディアリから百二十キロ、オディエンネ。この二か所のみ」
答えない曽我は、ただ検索結果を読み上げていた。
「覚えたか」
思い出したようにレフが百々へ視線を投げる。
「で、え? あ、ぼ、ぼんじゅーるの、ぶーん、ぶーん? あはは……だめら曽我さん、ちゃんと資料、送ってくらさい」
「もちろん」
「ブーンディアリから当る」
レフが通信を切ろうとしていた。
「あと一件」
付け加えられて手を止める。
「オスローが犯行予告送信者の確保に動きだした。遅くともあと二時間ほどで結果を伝えられるハズよ。送信者の所在地はオスロー郊外。オフィスで最初に渡したわね、ジェット・ブラックの背景に写っていたアパート。彼が出入りしていたそこらしいわ」
と百々の手元へ早くもファイルは送り届けられ、もはやナビゲーションが担当だ、急ぎ百々は繰る。
「そこがロンのアジトか」
確かめるレフの声は低い。
「案外これでケリがつくかもしれないわ」
「ブーンディアリで連絡を入れる」
「了解」
「西へ行くって、道はあれしかないよ」
切れた通信に代わり、端末を睨んだままの百々がレフへと手を振り上げる。
「とにかく保健所のまだ向こう。ここからずーっと、まっすぐだよ。だいたい百キロっ!」
片付ける義理などない。広げた荷物をまたぐレフの体が外を目指す。
「一時間で到着する」
「え。それ計算、間違ってない?」
立ち上がった百々も後を追いかけていた。
「ない」
そう、合うようにあの悪路を走破するのだ。
思ったよりも近いのか遠いのか、差し迫った状況に感覚は狂いがちだった。オスロー郊外、現場まで道のりは一時間半余り。到着の見込みは午後四時すぎだ。
つまり犯行予告が送り付けられてからすでに五時間後余りが過ぎ、たとえ送信者を確保したところでテロ実行まで残り半日というタイミングだった。
間に合うのか。
きわどければきわどいほど、パトカーの助手席でハートは何とも言えない気持ちにさいなまれる。そこにはいわずもがな万が一にもウィルスが散布された場合の憂慮が潜み、晒されるだろう人々への危惧が色濃くにじんでいた。
帰れば犬ころのように群がってくる三人のチビどもと、まだ立ち上がりもできない四人目の乳臭い匂いが蘇ってくる。事態は万が一だろうと許してはならない。思いは痛烈と渦巻いていた。
隣でハンドルを握るトーマスの動きは相変わらず遊びが多い。しかしながら面持ちだけはひどく真剣とパトカーを走らせている。走り抜けるオスローの街並みはハートの杞憂などどこ吹く風とゆったり緑を揺らし、気付けば片側にリアス式の海岸線を長く伸ばしていた。
眺めてふと、同じか、と気づいたのは理解できない、と思えたレフの白い面だ。いけ好かない面持ちはどうやらそこから一歩、胸の内へ踏み込んできた様子だった。
だからして帰ったならチビどもをどこへ連れて行ってやろうか、思い浮かぶままに考える。ずいぶん疲れているだろうからこそ、そんな休日を想像した。想像して何度も何度も手繰り寄せればあの言葉から自然、違和感もまた消えてゆく。
逃がすつもりはない。
言葉は確かとハートの中にも息づいていた。
一時間。
本気で到着させるつもりらしい。
きっとその頃、ジープは粉々だ。
思えるほど乗り心地は凄まじかった。だが切る風にも跳ねる車体にも、もう慣れて候。むしろなければテンションは上がらず、不安が顔をのぞかせそうで心もとない。
味方につけて百々は空港までの道のりを把握しなおす。豪快に椰子の実ジュースも飲み干し、バービーから預かった紙袋をあさると、分からないなりにも預かった資料へ目を通していった。
過程で保健所の車はトヨタ車らしいことを、そのナンバーを覚え、取り返すのだからこれまた重要なはずだ。運搬用の保冷ケース取扱説明書もレフの手を借り理解してゆく。
そんな保冷庫の外見は魚釣りのクーラーボックスとさして変わらなかった。ただ中には魚でなく、ウィルスと液体窒素をおさめたスピッツの入る冷却ケースが入っているという簡素さで、説明書にはむしろ感染と汚染を防ぐための取り扱いばかりが連ねられていた。
「ばら撒く人も、きっと感染しちゃうね」
言わずにおれないだろう。
「一種の自爆テロだ」
「誰も得しないよ」
レフの返事はそこで途切れる。
走るジープはとうのむかしに保健所の傍らを通り過ぎると、連絡してきた保健所職員がいるだろうボノングドゥーの町もまた駆け抜けていった。詰まるところ残り二十キロと知れたところで案の定、空港が近いことを知らせて伸びていたわだちは二股に分かれる。
「そこ、左っ! 乗ったらほぼ道なりっ!」
指さす百々に答えてジープのハンドルは切られる。砂埃を巻き上げ脇道へと逸れていった。
しかしながらウィルスとミッキー・ラドクリフの失踪を聞かされて一時間余り、代わらずハボローネの町は愛想が悪かった。馴染んでいるのは手前ばかりで、むしろその馴れ馴れしさに拒まれているのではないかと思えるほど収穫は得られない。
午後五時。
旧友、ガロ・アンガソとの約束が近づいていた。
情報の代わりに足で稼いだ疲れを背負い、乙部は聞き込みを切り上げ押収品の分析状況を把握しておきたく鑑識セレツェ・モハエの元へ向かう。
造りの重厚さが警察署より図書館を思わせる石造りの階段を上り、出た廊下で窓の向こうにその姿を見つけ手を挙げた。だが当のドアを開けたとたんだ。むしろモハエは顔を逸らす。途中だったらしい仕事へ戻る仕草はむしろ話しかけられること拒んでいるフシがあった。
「爆発物は手榴弾以外にもC4が連動。起爆装置の欠片が発見されました。パソコンが唯一の手がかりだったが、中に今すぐ引き出せるデータは残っていないのが全てです」
つまりがっかりする顔を向けられ、嫌な思いをするのは自分だというワケらしい。理由を明かして報告は前置きもなくすまされ、確かに多少なりとも期待していた乙部の足は向けて繰り出す先を失い止まっていた。
「復元は試みますが、ここで結果を?」
浴びる負のエネルギーを嫌うモハエが再び先手を打つ。
「どれほどかかる?」
気がかりはその点のみだろう。
「さしあたってだけでも、三、四日」
そこでようやくモハエと目は合っていた。だがそれでは意味がない、とは言えまい。
「分かった」
うながし乙部は断りを入れる。
「ただ今日、明日、ここを去ることになりそうでね。結果の転送先を後で連絡させる。そっちへ頼むよ」
「もう?」
帰るのか、などと言葉は端折られていたが、十分に読み取れるそれは表情だ。
「俺が来たいとムリを言ったこともある。色々状況も変わってね」
詮索することなく小刻みにうなずき返しきモハエはやおら、別の話を切り出しもした。どうやらそれがここで得た唯一、愛想のいい情報らしい。ヘディラ警部補の意識が戻ったことを知らされる。
ヘディラ警部補へよろしく。
引き続き分析を託し握手を交わした。
直後、入った送信元特定の通信へ耳を傾けつつ、乙部は足をメインモールへ向ける。時間が近づいていた。ガロが待ち合わせ場所に指定したカフェ「チェキ」へ思考を切り替える。
もちろん「チェキ」は知らない店だ。ただ前もってホテルのフロントで聞くところによると、百貨店前に広場を併設したハボローネ最大のショッピングエリア、メインモールでオープンカフェをとして営業している「チェキ」は、いやでも目につく店だということだった。
気付けば通り雨が作った水溜りのような影が足元から長く伸びている。見つめた視線を持ち上げ乙部は乾き切った黄色い町を見回した。車道を行くトラックや乗用車に紛れ、同じ場所へと歩くガロに出くわすのではないかと姿を探し、可能性を吟味して腕時計の時刻もまた読む。
テロ予告時間まで残り二十時間。
待ち合わせまではまだ三十分以上が残っていた。
やはり少々、早い。
やがて行き交う人に車を飲み込むように、べらぼうと広い敷地は乙部の前に見え始める。サッカー場ほどもある奥には平屋造りの百貨店が悠然と建ち、取りまきのように露天商のパラソルやベンチが実にゆったりした間合いで散らばっていた。空の高さも手伝ってか、賑わっているが混んでいる雰囲気はまるでない。中へと乙部も身を紛らわせる。中ほどまで進んだところで首を回しても補いきれない敷地の中を探し、身をひるがえした。
と、それは百貨店ビルの傍らだ。パラソルとテーブルがひしめく場所はあった。あれが「チェキ」じゃないのか。うがるまま靴先を繰り出せばその中に、白い上下を着こんだ人物はやたらと目立ち浮きあがってくる。目を凝らしたディティールのくたびれ加減は麻だろうか。新聞を読む姿にまったくもってキザが変わらないな、と思う。いや、思うほどにそうだ、としか言えなくなるのだから妙なものだった。
やがてその人物はテーブルにあったカップへと手を伸ばす。つまみ上げたところで見つめ続けた新聞からふい、と視線を上げた。赤茶けた肌の、少しばかり目と目の間隔がひらいた顔は近づく乙部をとらえる。
ガロだ。
確信した乙部の視界でガロはゆったり、カップをすすってみせた。戻して新聞をたたむとテーブルの隅へと押しやる。組んだ足ごとだ。乙部へと体を向けなおした。
シワは増えても衰えた印象はまるでない。見せつけてガロは、並びのいい歯を白く乙部へ剥き出していった。
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