第34話
行く手にあった緑の塊は右へ移動してゆくと、進むほどにぽつねんと建つコンクリート造りの建物から遠ざかってゆく。建物の前、緑に代わって風になびくのはWHOの旗か。判別できる距離はもうそう離れてはいなかった。
「あと、十分もあれば到着する。詳しい話はそれからだ」
「十分?」
繰り返すバービーは明らかに時計を確認している。
「その件で向かっていることを責任者へ話せるか?」
「ええ」
「所属はセクションカウンターテロリズム。言えば通じるハズだ」
所属先を口にしたのはこれが初めてになるだろう。
「って……。あなたそんなところで働いていたの? わたしはてっきり……」
間違いなしと裏付けてバービーもそれまであった会話の間合いを崩している。だが説明など始めてしまえばジープは保健所へ着きそうだ。
「隠していたわけじゃない。言えないことが多い」
挙句、バービーが放ったオーマイガーには、そんな組織がこの件に絡んでいる意味を多少なりともくみ取っているフシがあった。だからこそ声に芯もまた戻る。
「大丈夫、話してくるわ」
否や通話は切られ、察して百々も携帯電話を下げる。おずおずレフへ視線を上げていった。
「なん、て?」
事実は事実だ。
「女がウィルスと共に消えた」
レフは教える。
百々の反応はない。
いや、単に相応のそれが返せなかっただけだった。証拠にやがてのみこむと、顔面を引きつらせてゆく。
「そんなの困る。困りますぅっ! あたしタドコロと約束したんだよ。ブライトシートの続き、やり直すんだよっ。なのにさ、バイキンなんて全然見えないじゃん。色も臭いもないんじゃんっ! お薬もないのに撒かれたら、それどころじゃなくなっちゃうじゃんっ。人が、人もいっぱい死んじゃうし。もう出かけられない……。ていうか空港、空港はどうなるの。もしかして帰れ、ない……?」
のんだ息と共に目を瞬かせる。
「……う、そ」
次の瞬間、風に散っていた髪を目いっぱい逆立てた。
「ぎゃぁ。そんなの困る。めっちゃくっちゃ困りますぅっ!」
ままに残る思いを涙目に託して振り返ったレフと見つめ合う。だがそこに流れる雰囲気はおおよそ迷惑気でしかなく、極まったところでレフも百々へと吐いていた。
「困るのは……、お前だけじゃないッ」
保健所がまた近づいたせいだ。行き交う車両が多いせいで伸びる
わだちは深くなり、ハンドルを取られたジープが尻を振る。押さえこむレフの手元は目を覚ましたかのようで、ゆすられ百々もドアを掴むと身を縮めた。
「約束は俺にもある。誰にでもだッ」
まき散らされた小石が車体を叩いていた。
「いいか。現実を混同するな」
パリパリと鳴る音は言うレフの声をより低く響かせる。
「動かしようのない事実は女とウィルスが消えたという点だけだ。撒かれると決まったわけでも撒かれたわけでもない。今はその狭間にある。つまりまだ俺たちにはまだ介入できる余地がある。なら必ず介入してテロは阻止する。そのためにもお前にはここから先、必ず俺の動きについてきてもらうぞ」
グレーのシルエットを剥いだ建物が、間違いなく保健所として目前にはあった。
「そんなの……」
無理だ。
百々の喉元にまで言葉はこみあげてくる。
だがレフは、それを言わせようとしなかった。
「今の俺たちに泣き言をいって枕を投げている時間はない。そして立場でもだ。お前の都合は何の利益ももたらさない。できないと言うなら俺は放ってでも行く」
投げるいつもの睨みでとどめを刺す。
「わかったか」
だとして百々に「はい」と言える無責任さも、度胸もありはしなかった。
「そ、そんなの無理だよっ。自分だって階段室で追いかけまわして言ったじゃんっ」
同じに動けないなら諦めろ。
「状況が変わった」
それが飲み込めないのだ。
だが今こそ手段を選んでいられあいなら、飲み込ませるべくレフは続ける。
「無理だと思うな。イメージしろ」
「なっ、何よそれ?」
「二十四時間後も今も何も変わらない。変えないことが俺たちの目的だ。頭に入れば体は自ずとそう動く。ダメだと思えばそうなる」
「そ、そんなノー天気なこと、真顔でいわないで下さいっ!」
だがレフは聞いちゃいなかった。
「便宜上の見張り役は忘れろ」
百々へと一言、呼びかける。
「……相棒」
「は?」
聞き返して当然だろう。
「今、なんて」
だとしてレフは二度も言う気がないらしい。
「そのつもりでついて来いということだッ」
瞬間、窪地へ沈み込んだかと思えばジープは宙へと跳ね上がる。
「クソッ」
「ぎゃぁ!」
だとしてレフと同等にやれていたなら、百々はおそらく「20世紀CINEMA」でバイトなどしていなかった。
それでも「そのつもり」でついて来いと言うのなら。
言っていることを二人とも理解しているんだろうな。
お前は素人とやれるのか。
浮き上がったジープはいっとき重力から解き放たれ、シェイクされた百々の脳裏を次々言葉は過ってゆく。
出来やしないことだらけはハナから承知の遠征なのだ。
その中でただ一つ望まれているこがイメージすること、ただそれだけなら。
がってん、その気になるのは十八番で、相棒、呼ばわりの意味などそれくらいしか思いつかなかった。そう、泣き言を捨てただけで生きたままの二階級特進。辞退したとして待っているのは二十四時間後のウィルス散布と後こそないのだ。
「よっく……」
百々は腹の底から絞り出す。
「言うよぉっ!」
格別の着地がジープのサスペンションを弾けそうなほどに軋ませた。
「チーフの前では死角以外、アテにしてないって言ってたくせにっ」
振り落とされまいと掴んで吐いてやるのが相棒だろうと、大股で前へ前へ進むレフに歩調を合わせにかかる。
「二人しかいないなら死角だらけだ。お前でも十分役立つ」
「お前でも、って現実的すぎて傷ついた」
乗せてジープは保健所前へと滑り込んでゆく。観音開きの木戸が立てかけられたポーチを前にピシリ、小石を踏みつけホコリまみれのタイヤは止まった。セカンドバックを肩にそのドアへ百々が手をかけた時、やにわにレフの手は突き出される。
「返せ」
問い返すまでもないだろう。
「お邪魔しましたっ」
投げ返すのは携帯電話だ。
「うるさい、行くぞ」
キャッチしたレフがジープを降りる。エンジン音は保健所内へ筒抜けだったらしい。迎えて木戸もまた開け放たれていた。バービーだ。暗がりから白いワンピースは飛び出してくる。後ろで一つにまとめた髪がいくぶん雰囲気を変えているが、大きな瞳の童顔めいたブロンド美人に間違いはない。ジープのボンネットを回り込んで駆け寄るレフとぶつかるように顔を突き合わせた。無論、バービーがレフへ飛びつくようなことはない。言い及ぶまでもなくレフもまた抱き寄せることもなかった。ただ険しい顔つきでバービーは両手を握り合わせ、レフもまたサングラスを外しただけに過ぎない。
「所長にはあなたが来てること話しておいた」
「女とウィルスが消えただと?」
「何かの間違いじゃないかって、もう仕事になってない」
うろたえるバービーはたたみかけ、だからこそどうにか落ち着きを取り戻しもする。
「そう。彼女、昨日の午後、本部からODA参加時の履歴のことで連絡が入ってた」
言うまでもない、百々が写真にその顔を見つけたことで発覚したデータ改ざんの疑いだ。
「至急、アビジャンの支局まで顔を出すようにって。昨日が業務の引き継ぎ日で、今日がウィルス搬送の初日。なら支局に寄るのも都合がいいわねって話してたのに」
濃いアゴひげをたくわえた男性はそのとき保健所から駆け寄ってくる。所長かとレフが視線を向ければ案の定、輪に加わった男は所長のアザロ・バチスタだと名乗りレフへ手を差し出した。手早くレフも握り返す。
「ウィルスの搬送?」
sの脇にむき出しとぶら下がるホルスターに目をやるアザロへ口を開く。
「ああ、ワクチン開発用ですね。突然変異や亜種のチェックにも定期的に専門施設へ運ばれておるんですよ。実際はコロゴの空港からアビジャンへ。そこで先方の担当者に受け渡す。あとはスイスの本部までひとっ飛び。任せて彼女は支局へ顔を出す予定だったんですが、もう二時間ほど前になるか」
右腕のタグホイヤーへアザロが視線を落とした。
「受け取り側から予定の時間になっても保健所の担当者が現れないと連絡が入ったんです。驚いて携帯電話へ連絡したんですがね、これがつながらない」
そのまま頭を掻くように爪を立てると、髪をかき上げる。
「そこへ今の連絡です。聞きましたよ。バイオテロの犯行予告がサーバーに? ラドクリフが関係しているというのは本当なんですか?」
「本当なの? それ」
初めて聞くらしい。バービーが目を見開いてみせた。ならもう話したところで害はないだろう。
「女にはテログループの一員である容疑がかけられている。当初はお前をターゲットにした報復テロかと考えていたが目的は違っていたらしい。間違いない。ウィルス入手が目的だ」
「だから急に電話を? ミッキーの話なんて。らしくない約束だと思った」
バービーの口は塞がらない様子だ。と唐突に手を額へあてがいもする。
「じゃあ彼女、昨日から変だったのかもしれない」
「どういうことだ?」
レフは身を乗り出した。
「体調が悪いからって昨日、ミッキーは搬送のて引継ぎだけを済ませてあとはコロゴの専用宿泊所で休んでたのよ。食事はわたしも彼女も同じ。衛生面の管理はそれが私たちの専門だわ。ここへ来てそれはないと思ってた。何かやっていたのかもしれない」
だが理由はしれている。
「女は看護師じゃない。通訳が本業だ。履歴が露呈すると仮病を使った」
あっけにとられたバービーはもうしばらく話すことが出来なさそうだ。顔からレフは目を逸らす。
「運搬は一人で?」
アザロへ確かめた。
「いや事務職員と二人ですね。けれど彼もどこで何をしているのか。ともかく」
思案しかけたアザロはそこで声の調子を強くする。
「検体は保冷ケース内で凍結保存されてます。今のところ解放してもすぐにウィルスが大気中に浮遊する心配はない。ただ保冷剤が利いているのは密閉状態でも二十四時間が限度。ケースの口を開ければ融解はもっと早いでしょうな。そうなれば感染力は一般的な感冒ウィルスと違わなくなる。それをテロに使うというなら……」
「所長、電話です!」
言い淀んだところを振り向かせて保健所内から声はかけられる。アザロは口をじれったげとすぼめてみせた。
「ええい、ウィンストン君、ひとまず君に任せるよ。わたしはちょっと離れる」
言い残すが早いか、今すぐ行く、と上げた声で再び保健所へと戻っていった。
「昨日の女の行動を知っているヤツはいるのか?」
見送るまでもなくレフはバービーをのぞき込む。
「子供じゃないわよ。見張るなんて。けど」
こぼしたバービーは早くも手がかりになるナニカを思い出した様子だ。
「宿泊所の管理人なら出入りした人がいれば知っているかもしれない」
上出来だ。
レフもうなずき返す。
「空港までは何で?」
「保健所のロゴが入った白のバン。ナンバーなら事務室が把握してる。行方を追うのね」
「ほかには誰も……」
遮りバービーはもう背を向けていた。
「おい」
呼び止めたレフへ振り返ったその眼差しは「くどい」と言わんばかり鋭い。
「分かってる。そろえてくるまであなたはそこで待ってなさい」
「いや」
本当に分かっているのか。
確認しようものならいつぞやの笑みは、バービーの頬へ不敵と浮かび上がっていた。
「頼ん、だ」
不本意ながら託したのは、間違いなくあの日、敗北したせいだ。
「十分後に」
軽やかな足どりでバービーもまた保健所の中へと消えてゆく。
「レフさ」
と、傍らから日本語は放たれていた。
「今一瞬、尻に敷かれてなかった?」
百々だ。
無駄だ。思うしかない。その鋭さを他へ回せと言うかわりに、レフは端末を掴み上げる。
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