第33話

 その身はひとたび空を行く。

 裂く翼は貧相だったが、風をとらえる様はしなやかで力強かった。ままにムラある大気の層を突き破ること数度。一時間余りの飛行を経て再び大地へ降り立てば、コロゴの大地は百々の前へついに地平を横たえ広がる。

 遠い。まったくもって遠い場所だと思えていた。たどり着けたことで目的の半分以上を達成した気になるのだから、費やしたエネルギーは尋常でない。だがこれからが本番に違いなく、セスナを後にした耳へと端末のイヤホンを押し込む。ホロさえ張られていないジープへ乗り込むと、レフの運転でわだちがそうだと告げる一本道をひた走った。

 手元に余計な荷物はひとつもない。スーツケースにボストンバックは、レフが握らせたいくばくかの紙幣と共に、コロゴの町からこのジープを届けてくれた何某の手によって宿へと送り届けられている。だからして今、百々が握っているのは必要最低限を詰め込んだセカンドバックがひとつだけ。サングラスをかけ、脱いだジャケットをジープの後ろへ投げ込んだレフなど所持品をポケットやホルターの予備マガジンに振り分けるという、遠方から来たばかりとは、むしろ旅行者とは思えないいでたちになってもいた。

 十五分余りで乾燥しきった土壁が印象的なコロゴの町を背へと回す。

「……シ、シマウマもいないよ」

 その向こうには全くもって何もない。澄み渡る青い空。すっぱり視界を二分して広がる大地は枯れたような下草に覆われると、ジャングルなのか森なのか遥か彼方に幻のごとく緑の塊を点と置いていた。

「バービーさん、ほんとにこんなところにいるのっ?」

 信じられず、悪路で跳ね踊るジープの上で百々は声を張り上げる。返すレフもかき消されまいと大声だ。

「あいつは、やる時はやる女だッ」

「あと、どれくらいっ?」

「あの木は越えるッ」

 と、端末は鳴りだす。

「あたし出ます、出るっ!」

 わめいて尻ポケットから引き抜くと、制御できぬ声のまま百々は端末へと返した。

「はぁいっ、百々ですっ! レフは運転中。今、保健所へ向かってます。もう道、めちゃくちゃヒドイですっ!」


 離れること数千キロ。日本時間、二十一時半。

 そのおよそ十分ほど前か。オスローよりオフィスへジェット・ブラックを見失った、という連絡は入っていた。コートジボワール、中央アフリカの両空港警察から到着機にジェットは乗っていなかった、との報告があったのだ。同時に舞い込んできたのは欧州側のCTオフィスからで、WHOから送られてきたという詳細はただちに転送されている。それらへ百合草が目を通したのはジェット・ブラックの件に対応しながらという慌ただしさだ。だがそのマルチタスクが現地へ飛びたい、と申し出るオスローを待機させ、百々のみならず残る全職員をこうして呼び出すことになっている。最後、乙部がそろったところでヘッドセットのマイクを今一度、調節しなおしていた。

「全職員へ緊急連絡」

 あたかも全員がこの場にいるかのごとく、丸テーブルを見回してゆく。


「およそ三十分前。SO WHAT から新たな犯行予告が入った」

 開いていた口をつぐむ。懸念してここへ来たのではなかったのか。百々はすかさずレフへと振り返っていた。その顔がいつもとおりのポーカーフェイスに見えるのは、単にサングラスのせいか。陰るレンズの奥で確かとそのときレフの目もとに力は込められる。


 そういうことなら保留にされて当然だろう。空港内の警備保安室でハートにハナ、そしてストラヴィンスキーは互いに視線を絡め合う。

 また、この一報は欧州側の二人にも入っているらしい。間髪入れず鳴った端末、そのイヤホン越しにアニエスとジェラルドも表情を変えていた。


 ただ乙部だけがハボローネの外れで砂埃に巻かれ、一人、事態と対峙する。聞き込みに付き添ってくれていた通訳へ一言入れると、通りを横切り手近な木陰へ向かってゆく。


「内容は二点」

 その誰もへ向け百合草は声を張っていた。

「二十四時間以内のスタンリー・ブラック解放。またその事実が確認されなかった場合、報復措置として行われる空港内でのウィルス散布についてだ」


「わお。バイオテロ……、ですか」

 吐いたストラヴィンスキーに言葉以上の他意はない。

「これは氏が解放されるまで断続的に続けられるものだと宣言。ご丁寧にも目印はキャメルのボストンだと指定されている」

「二十四時間だと?」

 ハートの声色はいつもにもまして重い。

「奴らはまた俺たちを振り回すつもりか。なら何をばら撒く気か知らんが、そのウィルスを所持しているという証拠も明らかにしているのか」


 確かに脅されるままハナシを鵜呑みにするバカではこの仕事も立場も務まらないだろう。転送去れてきた予告文を丸テーブルへ押し戻し、百合草は大きく息を吸いむ。止めていっとき、空を睨んだ。

「ない」

「なら話にならん!」

 ハートの一言は痛烈だ。

「そいつは脅しだ。むしろ無駄足で俺たちの手を煩わせるだけの陽動作戦だろうが。もうその手は食わん。こっちはこのままジェットを追うぞ。アフリカ渡航の許可をくれ」


「許可? なんだそれは」

 などと話は唐突でしかない。レフが割って入っていた。向けて百合草はオスローの状況を手短に伝える。

「いずれかの虚偽報告を確認するため、直接向かいたいと申し出があったところだ」

 だが実際はこうだ、と続く話こそまだ誰も知らないものだった。


「犯行予告の第一発見者は、我々の依頼に基づきミッキー・ラドクリフの人事データをチェックしていたWHO人事、情報管理技術担当者と地元警察の両名。両名はODA参加志願時、提出が義務付けられているミッキー・ラドクリフのペーパー書類が存在しないことから、元に作成されるはずの人事データがハッキングによって書き加えられたものではないかと調査を開始。そのさなか犯行予告は発見された。ミッキー・ラドクリフの人事データに追加する形でだ。このことから隔離地区へミッキー・ラドクリフを送り込むべくデータ改ざんを行った人物と、この予告文を送りつけた人物が同一ではないかというのが結論だ。すなわちミッキー・ラドクリフは現地点でバイオテロの一員である疑いが生じた」

「……欧州側、パンギで了解です」

 曽我がやおら、百合草の傍らから知らせて吹き込む。

「……ミッキー・ラドクリフがバイオテロ? バーバラに張り付いているんじゃないのか」

 こぼすレフも声を揺らしていた。

「さては肝心のウィルスを確保にきました、ってアピールも兼ねての予告かな?」

 だとして乙部はあくまでもマイペースを崩さない。

 声へ百合草も一人、うなずく。

「それが今回も陽動作戦だと言い切れない根拠だ」


 瞬間ピタリ、と風景はレフの視界で動きを止めていた。現在、保健所へ確認中だと百合草は話すが、もうどれも耳へ入ってこない。ただ、だから今朝に限って電話はかかってこなかったのか、と、なぜなら場合ではない事態に陥っているからだと頭の中で言葉は回り続ける。

「今朝だ……」

 呟いていた。

「今朝がそうだ」

 耳から入った己の声がよりいっそう確信を強くする。

「今朝?」

 百合草に問い返されたレフの周りで動き始めた風景は以前にもまして鮮やかだ。

「三カ月だ。三カ月間、欠かさず入っていた知り合いからの連絡が今朝に限ってまだ入らない。これはもう可能性の話じゃない。保健所で今朝、間違いなく女は動いた。ミッキー・ラドクリフは今朝、ウィルスを入手している。だから連絡はなかった。確かめるまでもない証拠だ」

 とたん全ては一つ歯車をかみ合わせて回り出す。合わせてレフもまたジープのギアをトップへ押し上げた。抜けるほどとアクセルを踏み込む。

「コロゴの保健所、どうなっている。まだかっ」

 通信の向こうで百合草がオペレーターへ声を張っていた。

 悪路に跳ね踊る車体は土を散らし、乱暴な加速に百々もとなりでのけぞり喚くが、そんなもの喚くだけ喚かせておけばいい。ホルスターに挿していた携帯電話をつまみ出す。

「今すぐその知り合いへ連絡を取れ」

 おっつけ百合草の指示も飛び、続けさま各自の行動を以下に振り分ける、と湯r草は全員へと呼びかけもした。


「レフ、百々は当初の予定通り現地でミッキー・ラドクリフの動向を調査。ウィルスが本当に持ち出されたのかどうかを特定しろ。持ち出されていた場合、その足取りを追え。ただしハボローネの件がある。ウィルスを所持しているなら必ずロンと接触するぞ。お前たちだけでそれ以上は近づくな。追跡、監視に徹底しろ。いいな」

 誰に話しているのかを分かっているからこそ、念を押す百合草の口調には並々ならぬ力がこめられている。

「了解」

 返してレフは、どうにか取り出せた携帯電話へ目を落とした。だがいつもなら手探りで操作できる短縮番号も揺れのせいでままならず、それどころか悪路にハンドルをとられ大きくジープを蛇行させる。

「クソッ」

「首がもげる。もげるってば」

 うめく百々へ振り向いた。

「お前がかけろ」

 携帯電話を投げつける。


「オスローの三人は二手に分かれてもらう」

 北の地へ百合草は呼びかけていた。

「パンギとアビジャンか?」

 待ち侘びていたハートが例の二語を弾いて返す。


「ええっ、あたしがぁっ?」

 バカ揺れする車上でどうにか携帯電話を受け止めた百々の声はここでも大きい。

「シャープで一番だ」

 メールでさえのぞかれることを嫌っていたくせに、と言いたいところだが、言い合っているヒマがない。もうなんだかよく分からないままだ。握らされたそれへ視線を落とした。

「って、あたし、何て挨拶すればいいんですかぁっ?」

 とにもかくにも見つけたシャープをえいや、で押し込む。

「しなくていい。出たら代われ」

 聞きながら覚悟を決めて一番のボタンを押した。登録番号をなぞるダイヤル音は百々の杞憂など知らぬ存ぜぬと小気味がいい。

「困るよぉ。ハイ、ベイビーとか言われたらショックだよぉ」

「言わないッ」


「いや、パンギは欧州側でチェックする」

 知らされハートは同じくオフィスからの通信に耳を傾けるアニエスとジェラルドへ振り返った。なるほど間違いないらしい。目が合うなりジェラルドが立てた親指はハートへ向けられている。


「機はこちらで手配する。ハナのみ、ただちにアビジャンへ向かえ」

 などと聞こえたのだから任せなさい、で己が仕事を詰めに向かったのは曽我だ。

 視界の隅にとらえて百合草もまた、残りの指示を連ねていった。

「アビジャン空港でジェット・ブラックの入国を再確認。場合によってはレフと百々の応援へ向かってもらう」

「ええ、喜んで」

 むしろそれが目的でパンギを欧州側に取らせている。ハナの返答には理解しているフシがあった。

「ハートと外田は犯行予告の送信元を特定。および送信者確保に全力を挙げろ。そこからロンを割り出せ」

 了解、と返される声が重なる。

「で、こっちはどうなる予定かな?」

 最後となった乙部が問いかけていた。

 そんな乙部から事前に聞かされていた話は、百合草にとっても思うところが大きい。

「変更はない。『夕方の一報』に期待している。もっともこちらは深夜だ。目の覚める報告にしてくれ。事態の進行状態いかんではハボローネから離れてもらう可能性がある。その予定で動け」

 あいた、ほくそ笑むような間合いは乙部独特のものだろう。

「了解」

 そうして百合草の目は再度、丸テーブル見回していった。

「歓迎されることではないが彼らの思惑が我々の読み通りであった場合、このテロの阻止はすなわち SO WHAT 支援者、テロリストを生み出し続けてきたロンの確保につながる。おそらく実行力を伴う最後の案件だ。そしてこれを最後にできなければ違う意味で世界は最後を迎えることになるだろう。二十四時間後以降、そこに我々の出番はない。それだけは避けろ。全職員、自身の安全を確保しつつテロの阻止に全力を注げ。以上だ」


 切れた通信を百々が耳にすることはなかった。

 代わりに途切れた呼び出し音に続いて、もれ出す女性の声を聞く。その声はハイ、ベイビーと語りかけるどころか通話状態に切り変わった瞬間から怒涛のごとく英語をまくし立てていた。

「じゃす、じゃすた、もーめん、ぷりーっ!」

 片言で遮り急ぎレフへ電話を突き出す。

「で、出たっ! 出たよレフ。なんか、なんかすごい勢いで喋ってますぅっ!」

 その様子をわずか盗み見たレフが、アゴを振って促した。どうやらそのまま耳へあてがえということらしい。

「はいはい、はいっ!」

 嫌だも何もありはしない。ジープに揺すられながら百々は身を乗り出す。レフの耳へ携帯電話を押しつけた。

 そうしてレフが聞いたバービーの第一声はこうだ。

「レフ、来るってあなた、今一体どこなの? このことで電話を? とにかく今すぐ来て。ミッキーが、サンプルウィルスと一緒にいなくなったのよ!」

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