第32話

 何くわぬ顔で日は今日も地平線からハローと爽やかに顔をのぞかせる。

 オスロー、午前八時半。

 ゆえに恩恵授かる、早起きは三文の得らしい。だが今ではもう皮肉でしかなかった。

「空港のIRカメラに、ジェット・ブラックだとっ?」

 そのお粗末加減に訪れたオスロー署内、ハートの口調はいつも以上と荒くなる。

「ええ、昨日の深夜。国際線の搭乗ゲート付近でカメラが姿をとらえていたとのことです」

 挨拶は握手と同時に名乗り合っただけで終えており、ハート、ストラヴィンスキー、ハナの三人は担当者、トーマス・ハルキモによって署内をガレージへと案内されていた。

「入れ違い?」

 ハナが口走る。

「出国したかどうかの確認はもうとれているんですか?」

 言葉を質問へと整えなおしたストラヴィンスキーがトーマスへ投げた。

「空港警察側で確認した限りでは間違いないって話ですよ。合流したCT職員も同じ結論です」

 上がったばかりの階段を駆け下り、何度か折れた通路の突き当りに表へ通じるドアが立ち塞がる。開けばそこにガレージは広がり、睨んでトーマスは持っていたキーホルダーに山とぶら下がるキーからお目当ての一本を毟り取った。ストラヴィンスキーへと投げる。

「こいつのキーです!」

 駆け寄った、白を基調としたトリコロールカラーがお菓子の包みを彷彿とさせるパトカーのボンネットを叩いた。

「探す前から姿を現すとは気の利いたヤツだ」

 どうやらオスロー警察はボルボ車を採用しているらしい。角ばった車体へストラヴィンスキーはキーを差し込み、並ぶもう一台のドアをトーマスは引き開ける。その助手席のドアへ手を伸ばしたハートが吐いた。別れてストラヴィンスキー車へ乗り込んだハナがイヤホンを耳へ押し込む。

「緊急連絡」


「IRカメラのことは今、こちらへも連絡が入ったところだ」

 十七時。おりしもハボローネの爆発で騒然としていたオフィスが落ち着きを取り戻し始めた頃のことだった。柿渋デスクを前に百合草は答えて返す。

「他の動きは?」

 ハナの口調は早い。答えるべく百合草はこの二十四時間を振り返るが、およそ十時間前に現場から手掛かりを得られなかったことで設置されたパソコン周辺の捜査へ切り替える、と乙部がよこした以外、何も進展していないのが現実だ。

 夕方には何かいいハナシが送れるかもしれない。

 そのさい付け足された口調にはどこかアテがあるようで、またつまらないことだと断ったうえで家屋に残されていた「スカンジナビア・イーグルス」のCDについてもまた話している。確かに無関係とは言えないものの、それが何を意味しているのかまでは見えてこない。些細なことでも報告する乙部に比べてただ、出立間際、自分はジェット・ブラックを知っているなどと言い出すレフ・アーベンを思い出していた。

 含むコートジボワールの二人はあと四時間もすれば現地へ到着する予定だ。早ければ今日中にもミッキー・ラドクリフの件は明らかになることが予想され、それら全てはすでにデータ化、各自へ送信済となっていたなら「動きはない」の一言をハナへと返す。


「活動拠点がここですからね。ジェットは必ずノルウェーへ帰って来るんですよ」

 などと話すトーマスのハンドルさばきには遊びが多い。じれったく横目にとらえながらハートは自分が運転すればよかった、と後悔してみる。

「出国は陸路でがこれまでのやり方でした。そこから先は船か列車か、使って移動しているんでしょう。足取りはこれが全く分からない。パリ、ベルギー、ギリシャ、ポルトガル。ただ出先で姿が確認されて知ることになる。もしかすると確認されていないだけでヤツは案外、欧州圏外へも赴いているんじゃないかというのが正直な所です」

 そんなパトカーの左から路面電車、トラムがゆったり交差点へと侵入していた。朝日にさらされた光景の全ては爽やかを極め、しかしながら街並みをハートは苦々しい面持ちで眺める。組んだ腕をさらに深く絡めていった。

「その辺りは先に受け取った書類で読んだ」

 片耳へ押し込んだイヤホンからは、あいだもハナと百合草のやり取りが流れている。


「空路での出国には前例がない。特異な行動パターンは事態が彼にとっても特別だと推測できる。ハボローネの爆発があった後だ。非常事態にジェットはロンへ接触するつもりなのかもしれん」

「ええ、それを一番考えてる」

 だからして百合草は釘を刺す。

「あくまでも行動は……」

「慎重に、ね。チーフ」

 先をさらうハナはどこか得意げだ。様子に百合草こそ声を落とす。

「最後まで話へ耳を傾けない。これも周りが見えていない者の共通点だ。覚えておけ」


 経て駆けつけた空港警備保安室は一気に手狭となっていた。そこで初めて欧州エリアのCT職員とも顔を合わせることとなる。そのさいイタリア人らしい黒い髪の男はジェラルドと名乗り、フランス語訛のはげしい英語を臆面もなく話す女はアニエス、と名乗った。

 さて残念ながら同じ組織に属しているとはいえ誰もが初対面だ。慣れるまでなんらかの齟齬は生ずるかと思われたが、とある人物の活躍は皮肉にもここで五人の連帯感を強めることとなる。厄介者がこうじてあちこち流されたレフ・アーベンはどこへいっても噂の人物だ。だからといって和むまでには、もちろんゆかなかった。

「ここと、ここと、これ」

 失笑したその後、アニエスはIRカメラのビデオを止め、映る人物を示してみせる。

「ロビーが零時七分。こちらが二十九分。最後の手洗い前が三十五分。以降は確認されていない。映像の人物がジェット・ブラックだと判別されてすぐに警備とあたし、ジェラルドで空港内の捜索もしたけれど発見には至らず。オスローを離れていると考えていい」

 ビデオの中で黒っぽい上着を着込んだ小柄な人物はロビーの片隅を歩き、搭乗ゲートをくぐって吊り下げられたフライト時刻表の真下を行くと、軽い足取りで真っ直ぐ搭乗口へ向かっている。解像度が低かろうと映し出されたその面持ちは日本で見た写真と似通っており、映像解析を通さずとも本人だと思えるほどだった。

「この時間帯、乗れる機は?」

 情報を求めたハナへ、飾り気のないキナリのコットンシャツの袖をまくり上げたジェラルドが指を立ててゆく。

「ひとつがパリ経由、中央アフリカ、パンギ行き。もうひとつもパリ経由、コートジボワール、アビジャン行き。いずれも昨日の最終便。次まで六時間、便はない」

「コートジボワール?」

 すかさず繰り返したのはハナで、ハートとストラヴィンスキーも視線を絡ませる。つまり何かある、と察したところで切り上げないジェラルドは最後までを言い切っていた。

「ジェット・ブラックという名前を搭乗名簿で確認したが、当然ながらどこにもない。その他の名前も、だ」

「ええ、そんなこんなで彼が使用したと確認されている名前は十を超えるって、資料で読みました。今回はつまり十数個目ってことですね」

 眼鏡のブリッジをストラヴィンスキーが押し上げる。

「嘘つきジェット。そのようね」

 アニエスも唇を曲げ、ジェラルドもオーバーなほど肩をすくめて返した。

「両機は残念ながら、こちらが動き出した地点でもうパリを出ていた。降りたかどうか、パリ空港内の監視カメラ映像も分析に掛けたが形跡はない。飛行中の同機とも、残りのフライト時間はおよそ十時間。今はちょうどアフリカ上空だ。もちろん機内で確かめさせる手はあるが、密室だからね。乗務員にはどうかな。とにかく着陸先へは手を回しておいた」

 そのエールフランス機は間違いなくジェット機だったがジェラルドは、飛行中のプロペラ機を模すと唇を震わせ、アフリカまで飛ばしていた。

「で、アビジャンに何か?」

 到着したところで先程の三人の反応を確かめる。

「あ、実はミスターアーベンが訳あってそちらへ向かってまして」

 答えるストラヴィンスキーはなぜかしら、はにかみ顔だ。

「わお。さすが」

 驚くジェラルドのそれはホンモノらしい。

「どちらだろうと空港で確保される。俺たちは身柄を引き取りに行くだけだ」

 気に掛けず、ハートがふん、と鼻を鳴らした。なら物憂げとアニエスがかぶせる。

「そう、残念ね」

 言葉の意図を測りかねたハートの白目が、やおら彼女へ裏返されていた。

「どういうことだ?」

「ここまで来たようだけれど、今回は諦めた方がいいかもしれない」

「ここはそんなに諦めがいいのか?」

「ノノ、ノ」

 細かい舌打ちを繰り出したアニエスの言い分はこうだ。

「海を越えればルールが変わる。私たちの正義はわたしたちだけのものだってことを思い知らされる場合があるわ。大陸がクリーンであることを祈るしかないの」

 汚職だ。

 とたん誰もの脳裏に閃いていた。だがそれこそ一捜査員にはどうにもできない状況である。ただ絞られた行き先をハナは日本へ伝えていた。


「うぇっく、じゅっ!」

 そして噂は伝播する。たとえ北半球から南半球までだろうと、だ。だからしてレフは豪快なまでに心地よく、くしゃみをぶちまける。

 国際線とは打って変わって国内線の空港は、強いて言うなら竹竿に旗がなびいているだけのような実に簡素な造りをしていた。駅舎にも似た木造の待合に、出たすぐそこに伸びる滑走路など、先ほどから乗るだろうセスナをスクーターかなにかと勘違いさせそうな力がある。漠然と眺めながら出立時刻を待つと、セスナの機長から声がかかるのを百々はひたすらレフと、これまた駅にあるようなベンチに腰掛け待っていた。

「ぅばぁっく、しゃぁっ!」

 またレフがくしゃみを飛ばす。疲れが引き込んだひと眠りでずいぶん時差ボケも解消されたなら、さすがの百々にもそんなレフを心配する余裕くらいはできていた。

「サボったんだ。乾布摩擦」

 言ってやる。

「違う。誰かが噂しているだけだ」

 やたら大きな咳払いでくしゃみを締めくくったレフは、今日もオレンジ色のTシャツを着込んでいた。

「わ。まだ続けてるってことだよ、つまり」

「怠ると調子が出ない」

 その手がバービーとのホットラインを抜き出す。見下ろす表情に変わりはなかったが、先ほどからマナーモードでもないのにチェックする頻度がいただけない。確かに時差もないこの場所で今朝、仕事前に入るはずの一報はまだ届いていなかった。

「お昼から仕事かもしれないよ」

 慰めてどうにかなるものでもないが、察して百々は言ってみる。

 否定せず聞き入れ、

「昨日、聞き損ねた」

 失敗したと息をもらすレフはらしくない。

「メールは?」

 見せてもらえないので、これまた聞いてみる。

「送った時間が遅かった。まだ見ていないのかもしれない。返って来ていない」

「うーん……」

 理由を探して百々は妄想を膨らませた。やにわにその場で跳ね上がる。

「……もっ、もしかしてレフっ!」

 音量に百々へ振り返ったレフの顔はすでに、その半分以上が面倒くさげだ。

「ついにバービーさんを怒らせたんだよ」

 違いない。深くうなずきそんなレフへ、百々は熱いまなざしを送る。ままに譲らずしばし互いに見合えば、延々と続きそうな沈黙をレフはこう絶ち切っていた。

「怒らない」

 視線を正面へ戻してゆく。

「会いたくなった。明日の昼、時間を作っておいてくれと打診しておいた」

 なるほど。間際で訪問を伝えていたのか。納得するしかなく百々もまた前へ向きなおる。

 そこでカーキーの制服を着た精悍な人物は、重たげとセスナの腹を開いていた。手際を観察しつつ思い出したように百々は、肩でレフを突っついてやる。だがなおさら心配が増したことに違いはなく、冷やかしはそうも続かなかった。

「かけてみたら?」

 されるがままのレフを見やる。

 聞き入れたレフが決断するまで一呼吸ほどか。携帯電話へ指は伸ばされていた。そのとき声が二人を呼び止める。やはりそうだ。セスナの腹を開いていたその人物こそ機長だったらしい。搭乗の準備が整ったことを知らせて満面の笑みで近づいてきていた。

 乗れば一時間余り。さらにもう一時間も行けばバービーはそこにいる。

 顔を見合わせると同時だ。二人はベンチから立ち上がっていた。


 今や外は明るく、閉めきった部屋だけが暗い。その暗がりの中、保存していた文言はすでに転送フォームへ貼り付けられると、モニター画面で浅くやわらかな点滅を繰り返していた。

 溢れんばかりと響き渡っているのは「バスボム」のサウンドトラックだ。 エリクはこの哀愁がかったバイオリンの音色が好きでならなかった。ファンファーレにかえて指で指揮を取れば、いつも以上に気持ちも高ぶる。あと、ワンクリック。メロディーが終われば置いたタクトで送り込む。スリルと興奮は引き裂かれんばかり、鳴り響く音色に絶好調と高まっていった。

 ままに最後のビブラートを切なげと揺らしてバイオリンの音色は部屋の四方へ吸い込まれてゆく。途切れて静けさに耳を澄ましエリクは思った。

 ボンボヤージ。

 良い一日をお過ごし下さい。

 人差し指で握ったマウスをひとつ弾く。そのわずかな動きでかつて手を加えたそこへ再び文言を送り込んだ。終えて両手を振り上げる。これでもかと椅子の上で大きく伸びあがれば、笑いはどこからともなくこみ上げていた。放ち椅子を軋ませ、心行くまで笑い転げる。

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