第31話
名画でも鑑賞するよう具合だ。見るもの全てが吹き飛ばされた室内をじわり、見回していった。感性が足りないのか何一つ目にとまらないなら、行き場を失った視線を隣室へと投げる。
左手奥、裏口向かいの部屋は爆心へ背を向けるようにドアが設置されており、被害が少ない。回り込めば寝泊り用にか、ベッド台らしき骨組みだけの台が見えた。吹き込んだ爆風に飛ばされたのか、部屋のど真ん中にCDラジカセも転がっている。左右に丸いスピーカーが組み込まれたボダンだらけのゴツさは間違いなく年代物だ。見回し拾い上げ、重みに電池が入っているのではと電源をいじっていた。電波を拾ったラジオがすぐにも歌声を流し始めたなら、切って邪魔にならない所へ置いておこうとしたところでスピーカーの間、放り込まれたままのコンパクトディスクに気づき、イジェクトボタンもまた押してみる。だがそれこそ爆風のせいなのか、フタは開かず再生ボタンを押していた。ラジオとはケタ違いの爆音だ。とたんスピーカーからつんざくようなギターの音色と小気味よいベースラインは吹き出す。切れのいいリズムセクションには手練れて逆にいい癖があり、一瞬にして乙部の心を掴む。やがてしゃがれて野太く、しかしながら高音をキープする歌声は鈍っていた乙部の鼓膜を叩き始めた。
英語だ。
と辺りで数名、音に鑑識職員たちが振り返る。
確かに場違いにも程があった。
切らねば、と思う。
が乙部の指はそこで止まっていた。
なぜなら曲には聞き覚えがある。それは自分が好きで聞いていた曲だから、というようなものではなかった。資料だ。仕事の一環として耳へ入れたメロディーラインだと、耳にしたさいの環境は蘇ってくる。連なり、詳細は思い出せそうで思い出せず、もどかしさに乙部は曲をまだらと口ずさむ。ならCDのしゃがれた声は教えて、サビをこう歌い出していた。
ゲット・バック・ザ・デイ ゲット・バック
まったく、と思う。まだ一週間も経っていないならすぐにも思い出せなかったことは、吹き飛ばされた後遺症だとしか思えない。 乙部は通りがかりの鑑識職員を捕まえる。「スカンジナビア・イーグルス」が歌うこの曲を知っているかと問いかけた。だがその場にいた彼らは互いに顔を見合わせる。冴えない面持ちで肩をすくめて返しただけだった。
搭乗チェックインを前に百々はレフを待たせてまで、ストレートのブルージーンズに白のTシャツ、つま先が光るスニーカーをチョイスしている。有名安価な総合衣料メーカーは空港隣接のショッピングモールにもあると、四日ぶりにしてようやくクリームイエローのワンピースとさようならしていた。
経て辿り着いたのはオランダ、アムステルダム国際空港だ。
さらにそこでのトランジットを終えた五時間後、深夜二時にコートジボワールのアビジャン国際空港へ到着していた。
その北部は砂漠に隣接した僻地と認識されているが、象牙海岸の呼び名で有名な海側、ここアビジャンはいわゆるビジネス都市と広がっている。ゆえに空港からしてハイテクかつ近代的雰囲気で、これぞアフリカのような土臭い風景こそありはしなかった。
抜けない時差ボケに眠気はまるでわいてこない。だが移動の疲れは確実にたまると今日はこのままアビジャンで一泊する予定になっている。レフともども乗ったタクシーはだからして今、曽我が押さえてくれたホテルへ向かい走っていた。
ハンドルを握る必要がないレフはその後部座席でひたすら端末を睨んでいる。いや移動中、世間話で盛り上がるハズもない互いはずっとこんな具合ではなかったか。辛うじて会話が成立したのはアビジャンに降り立ってすぐ、仕事あがりに送られてきたバービーからの着信を確かめた時くらいだ。様子に変わったところはない、というのが会話の全貌だった。
そんなバービーへは二人が向かっていることを知らせていない。行って驚かせるなどとドラマチックな展開目当て以上、万が一を考え相手にこちらの動きを気取られないようにするためだ。
その旅程も明日、セスナで小一時間。降り立った空港から車で一時間が残されている。辿り着けたところでいまだ地元警察の協力は得られていない。日本を離れれば離れるほどバックアップがないことは百々を不安にさせた。
同様にバックアップがなかった乙部は先ほど無事だと知らされている。ほっとする半面、早々に捜査へ戻ったことも知らされていたなら無理はしていないだろうか、乙部を心配しもした。
つまり先ほどから端末にかじりついているレフは、そんな乙部からの報告を読んでいるためか。向こうと時差もほぼなければ、百々は眺めていた外の景色から振り返った。
「何かあっ……?」
否や向けられた視線を避けて百々へ背を向け座りなおすレフは、明らかに挙動が怪しかった。目にした百々がいぶかしく思わぬわけがない。ビンゴ、とレフが握る端末のカタチに気づかされていた。
「ああっ、メッセージでやりとりっ!」
さきほどからレフが手にしていたのはどうやら、バービーとのホットラインだ。握り絞めて扱いにくそうにこまごまと、レフは小さなテンキーなんぞを打ち込んでいる。だから食堂で勝手に見ようとしたら鬼の形相で取り上げられたのか。と言うことはそこにはとんでもなく恥ずかしい文面が並んでいるのか。妄想は妄想を呼び、持て余していた退屈に空想は爆走を極め、眠気の欠片もない百々の瞳に真昼のごとく光は明々宿る。
「なになに。なんて打ってるの」
ここぞとばかり食らいついていた。レフがよじる肩で払いのけたなら、なおさら迫って身を乗り出す。
「いい加減ちょっとだけ。いいじゃん、さぁ」
だいたい人のデートをつけ回しておいて自分だけは秘密などと、どう考えても納得できないのだ。だが無言を貫くレフに譲歩するような気配はない。その深刻すぎる顔は生来のものと承知していた。そしてこの緩んだアホ面もまた生来のものと承知されている。恐れるものなどもう何もない。いや、というかすでに慣れだ。だが沈黙は続き、嫌というほど聞かされ百々は、浮き上がっていた尻を渋々シートへ戻していった。
「こっちはバレバレでさ。自分だけ不公平だよ」
こぼせば送信し終えた携帯電話を内ポケットへ落とすレフがようやく口を開く。
「定時のコールは電源を切っていた。返事を返さないと心配される」
「あ、はぐらかした」
つっこめば舌打ちなんぞを食らわされる。
だとして負けてなんぞやらないのだ。
「いっこでいいからさぁ。デートとか、話、聞かせてよ。ね、ね」
せがめばその顔へとレフが、頸椎あたりから軋む音が聞こえてきそうな具合に振り返る。一瞥くれて、何事もなかったかのように再び外へと向きなおった。
つまり、だ。
無視する気なら、だろう。
「照れてやんの」
後頭部へ百々は投げる。ついではやし立てるなら、やーい、やーい、が相当だった。だがそれこそ負けず嫌いのせいだろう。
「するか。出かけたのは一度だけだ」
レフが先にこぼす。
うそうそ。
連呼したい気持ちを抑え込むのは至難の技というヤツだ。
「へ、へぇ。どちらまで?」
「テルミン」
教えられてこの距離で聞き返す。
「はひ?」
「楽器だ」
言うレフは至極面倒くさげで、おかげで百々が思い出せたのはロシアの物理学者が発明した磁気だか何だかを操り演奏する楽器だった。
「へ、へえぇ、コンサート」
と普通は思うだろう。
「違う」
訂正されていた。
「何?」
眉を寄せればレフは言う。
「講習会だ」
「えんっ、演奏する方ぉ?」
だから、いまだ相方の興味と趣味のベクトルが掴みきれない。
「前から気になっていた」
おかげで消し去りたいのに想像してしまったのは、魔法使いがごとき怪しげな手つきで真剣に興ずるレフの姿だ。 それだけで楽しいはずのデートがどんどん楽しくなくなってゆくのはなぜなのか。
「ていうかバービーさん、それに付き合ってくれたのぉ?」
もう百々の方が申し訳なさにまみれてみる。外を眺めたままでレフはひとつ、うなずき返し、様子に百々はなぜだか悲しみに襲われていた。
「あのさぁ、レフ」
たまらず訴える。
「あたしが色々教えたげるよ?」
無論、真剣だ。
だからして心外だ、レフが心の内で吐こうともその声こそ届くことはない。デートプランはああだのこうだの、それはそれで的外れな説教は直後より白熱する。乗せたタクシーが走り抜けるアビジャンの夜はどこまで行っても明るかった。
だが指先は眠らず、キーボードの上を走り続ける。最後の一文字を弾き、そこでようやく沈黙した。
新しい世界の始まり。向かって明日、船は未知なる海原へ漕ぎ出すことを彼は知っている。それはこの指先ひとつをきっかけにして、と言うこともまただ。武者震いさえ覚えてエリク・ユハナは椅子の中、身を強張らせる。
同時に思い出すのは一国家の出入国管理局、そのデータベースへ潜り込み指紋データを改ざんした、あれもまた痛快だった全ての始まりだろう。それは彼らを知らなければ味わうこともなかった最初のスリルと達成感で間違いなかった。
あの時、エリクはむしろ自らの手腕を誇示するためにも当局に逮捕されることを望んでいる。だが彼らは義理がたく、いや、こうして再び利用したかっただけかもしれないが、いずれにせよ驚くような大胆さで護送車からエリクを連れ出し、スリルと果たせば得られる大きな達成感を再びこの身へ与えてくれていた。
ロンには感謝しても感謝しきれない。エリクはそう感じている。
さて問題は、と伸ばした背でデスクチェアを軋ませた。しかしながらこのチャンスを作り与えたロンは事態に対しなんら指示をよこしてこない。ハボローネの中継基地が使えなくなったことは一種、迷彩を剥がれたようなもので、木端微塵に吹き飛ぶことで計画を前にここを守ったとしても、
思いつめて渇いたのどを潤すため、大好きなソーダー水が入った紙コップを掴み上げた。ストローを吸い上げチラリ、傍らに貼った「バスボム」のポスターへ視線を投げる。艶めかしい裸体を晒すナタリー・ポリトゥワは映画の中、最後まで己の主張を貫き通した主人公よろしく、装うことをやめてそこから堂々、エリクを睨み返していた。
いい女だ。自分なんかには指一本触れさせないだろう。
尽きたソーダー水を最後、ズズズとすすり上げ、次いであと一日で完璧だったのにと思い返す。少しばかりの腹立たしさと共に空気しか上がってこなくなったソーダー水の容器をポスター真下、ゴミ箱になっているフランケンシュタインの口めがけ放り投げた。
うまいもんだ。
ホールインワンに笑いももれる。
見届けナタリーもあなたなら出来るわよ、と囁いていているかのようでならない。
そう、最初はそれでいいと思っていた。貫き通すことこそ悪くない。
エリクはタオルで拭き取る代わり、容器のかいていた汗で濡れた両手を擦り合わせる。その手で顔をなでつけ再び前屈みの姿勢をとった。
指先が少しばかり震えている。しかしながら明日に備えあつらえた文言は、このパソコンのハードへ保存しておこうと思っていた。これは自分がやった事だ。証拠はできたと、ほくそ笑む。
予定までまだ半日。エリクは軋む椅子の中で疲れた目を閉じていった。
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