第27話

 三十分も走ったろうか。田所は奇遇にも、襲う緊張感で胃さえ痛かった海水浴場、その石垣の前でバイクを停めていた。

 花火大会の予定などもうない。辺りに人影はなく、二人の前には鉛に似た灰色の海だけがうねっていた。向かって歩き、田所は砂浜の中ごろに腰を下ろす。少し様子をうかがってから追いかけ百々も、そっと隣に並んで座った。会話を邪魔する風もヘルメットもなくなったが、先ほどから互いは一言もしゃべっていない。手で押さえたスカートで三角座り。ヒザを立てると居心地の悪さと静かに百々は闘う。

「す、涼しいね」

 言ってみたものの、どちらかと言えば潮風には絡みつく湿気があった。

「だれ、誰もいないね」

 見解に間違いはないものの、田所が答える気配こそない。返事がなければ聞いてもらえていないような気がして百々は、気を引き空へ指を向けた。

「月は東に、日は西に、だよ」

 が田所はその方向には目もくれず、きっかけにして振り返る。

「お前さ」

「ごめん」

 反射的に謝るこの情けなさ。

「もう会わないとか俺に言ったけど、昨日も今日もあいつといたんだよな」

 その語尾に尋ねるような抑揚はない。決めつけてただ重く下がる。

「だから電話にも出なかったし、20世紀、急に休むし、今日も遅れたんだよな。俺、なんか間違ってる?」

「え、えと」

 間違っている、と百々こそ言って返したかったが無茶が過ぎた。何しろ田所は放送されたあの瞬間を見ている。百々の口から言葉は遠のき、瞬きだけが増えていった。

「そ、の……」

「ブライトシートの時と同じ服ってのも、家へ帰ってないってことだろ」

 言われて見回し、おおっ、とのけ反る。急ぎ顔の前で手を振り返していた。

「ちっ、違うよっ!」

 だが軽く振り切る田所はもう、前へ向きなおってしまっている。

「テレビ局前の放送、俺、見たから」

 アヒルと尖った口が今日ばかりは凶器だった。

「昨日、ここで花火やってたの、お前、知ってるよな」

 話は唐突だったが、ここへ来たのは偶然ではなかったのだ。うなずき返すことすら恐ろしくなって百々は、ただ目を剥き田所を見ていた。

「そこでお前がデカい外国人に押し倒されるとこ見たって」

「うげっ!」

「花火、見に来てた20世紀のやつが言ってた」

 もう近所で騒ぎは起こさないで下さい。心の底から星に願えば、正面を向いていた田所の顔の中で目だけが百々へと裏返される。

「その外国人って、アイツだよな」

「ちっ、違うよっ」

 もう、あだの、うだの、片言だけでどもってばかりはいられやしない。

「家には帰ってないけど、あたしはレフの家になんか泊ってないし、押し倒されたのはあたしがぼーっとしてたからで、20世紀、休んだのも今日、遅れたのも」

 もう例のストーカーのせいなんだ、と口にしかけたところで田所に遮られていた。

「どうして俺に嘘つくわけ?」

 胸の奥がヒヤリ、凍りつく。

「俺、病院から帰った後、ネットの動画サイトで検索かけたわけ。テレビ局前のやつ一瞬だったからさ、見間違えってこともあるだろ」

 吐き捨てるように言った田所は再び水平線を睨む。

「観覧してたやつの携帯画像はさ、テレビのやつと角度が違っててお前らが格闘してるの映ってたよ。でも見たのは二度だけ。三度目には削除されてた。花火会場でお前を見た奴からはさ、そのあとものすごい勢いで車椅子の二人が警察に取り押さえられてたって聞いた。普通じゃなかったけど声かけようと思ったら近寄れなくて、なのにあいつ、あんなところで一体何してたんだろうって」

「な、なに……って」

 すでに何をどう取り繕うべきなのか、百々には分からなくなっている。

「お前はあいつとストーカーを追いかけてる、とか言ったけど、それよか何かもっと危ないことに首、突っ込んでんじゃね?」

 どうなの? と、投げよこされる視線が痛い。

「枕投げとかさ」

 叩きつけられてなおさら怯えた。

「お前が好きなら誰といてもかまわないよ。けど、ヤバそうなことにかかわってるなら俺はお前のこと、放っておけないから」

 などとそれはこれっぽちも想像していなかった言葉だ。弁解どころか返す言葉そのものが、とたん百々の中から失せてゆく。

「何してんだよ一体。だから前も20世紀休んだ後、様子がおかしかったんだろ? そんな目に合うくらいなら」

 田所は、ためらうようにそこで言葉をのんでいた。

「とっととやめちまえよ、そんなこと……」

 絞り出して砂の中へと視線を潜り込ませる。

 間違いない。

 会話は百々へバトンタッチされていた。

 そうするよ。

 だからして言えるものなら言って安心させたいと百々も思う。だが現実はかなわず明日、コートジボワールへ向かうことにさえなっていた。それは気まぐれで片づけられない決定事項で、誰に遠慮なく名乗り出てかまわないとさえ思っていた話だった。

 百々もまたうつむき返す。

 言うべき言葉を胸の内に探した。

 果てに考えたこともなかった万が一は過ってまさかと疑い、疑い切れずにうにうろたえる。誤解を解こうなどと、前向きにとらえる呑気さはもうなくなっていた。年貢の納め時だとさえ感じてついに、吐き出す言葉を胸の中から掴み上げる。

「悪いことはさ、犯罪者にならなくても出来るんだね」

「お前がそう。俺、被害者」

 言う田所は冗談のような、それでいてすねたような口ぶりだった。

「あたしさ」

 そんな田所へと顔を上げる。

「この間のアカデミー賞、実際に見てきたんだ」

 振り返った田所は何を言い出すんだ、と言わんばかりだ。その顔へと百々は、唇の端を広げ笑いかけていた。

「隠すの、やめるよ」

 でなければ、きっとずっと田所は憂鬱なままだ。そして今まで考えたことがなかっただけで、今日と同じ明日が来るとは限らなかった。この一件へ首を突っ込むことになったように日々は破壊され、創造され続けるものに他ならない。戻れないなら出来る限り誠実でいたいと思う。うわべだけの大切をつなげるのではなくて、本物の「大切」を残しておきたいと思った。

「そうしたのはさ、言えないことも多かったせいもあるけど、その方が田所にはいいと思ってた。思ってきっとあたしが自分を誤魔化してたよ」

 けれど伝えて、それもまた心配させるだけだったなら、それでも田所は笑い飛ばしてくれるだろうかと不安は過る。過ってきっと大丈夫だと百々は信じることにした。信じる勇気は、誠実でありたいと思う気持ちとつながっていた。

「だからタドコロが気にしてるところから話す」

 かかってこいと言わんばかり、うなずく田所の動きはぎこちない。

「昨日も今日もさっきまでレフと一緒だったし、前に20世紀を休んでる間、ラスベガスのホテルでも同じ部屋に泊ったよ」

 最初から選んだ話題がそれでよかったと思う。ショックが強すぎたのか、むしろ田所は最後まで大人しく話を聞いてくれていた。それでもなるべく短くすませたく、百々はかいつまんで説明しようと試みている。だが溜め込み過ぎたせいで話は思うように進まず、時間だけを食いに食った。しかも至る所が伏字ときていて、これがラジオドラマならピーの入り通しで放送事故だ。けれどアカデミー賞に辿り着くまでの話を、そこから始まった新たな話を、レフも自分もそこに帰属しているだけなのだということを、百々は懸命に説明していった。ただし「ブライト シート」でのくだりと報復対象になっていることは伏せて。

 話が終わったあとの田所はどこかぼうっとした具合で、的を射なかった。ただ茶化すような返事だけは返さず、つまり内容は正しく伝わったのだと百々は察する。だから最後にコートジボワールへ明日、飛ぶこともまた告げていた。

「ごめんね。またレフと一緒だし心配かけて」

 謝る。

「てか、お前、俺に謝ってる場合じゃないんじゃないの? 自分の事、心配しろよ」

 けっこう現実的なことへ気を回してくれることが有難い。

「あは、かも」

 百々も冗談はやめて話を元へと戻す。

「とりあえず20世紀、シフト出してないから来月はこのまま休むね」

「そんなの、他のヤツがいるから。それよか帰って準備とかするんだろ?」

「うううん。ややこしくなるから帰らない。友達の部屋にオバケ出るから、一緒に寝てくれって頼まれてることにした」

 ペロリ、舌を出し返す。立ち上がったなら、田所もろともとんでもない言い訳だと笑い合った。

「帰らないなら、う……」

 などとそうして田所が飲み込んだのは、ウチへ泊っていけよ、というものだ。

「う? 何、ウナギ?」

 だがそれこそ女の子に気安く言う言葉であるはずもなく、ワンピースから砂を払う百々も繰り返して勝手に空を仰いでいたりする。

「明日からアフリカだもんね。精つけとくのもいいかな」

 横顔は、もう十分、先送ったんだからいいだろう、と田所に思い巡らせ、すぐにもシベリアンハスキーは無関係なのだから焦るな、と思いとどらせた。それでいて部屋は汚いが片付けは間に合うかと焦る一方で、間に合わせろ、と奮い立たせもする。

「あは、タドコロ、おごってくれるの?」

 はずが、のぞき込まれて吹き飛ばされていた。そこには続く妄想とは程遠い百々の笑みがある。

「ね、ね」

 おかげで覚えた後ろめたさに、瞬時で田所の決意は負かされていた。

「おま……、調子いいよな」

「えへ、えへ。だってまたしばらく会えなくなるもん」

 自分よりさらりと言ってくれるところが憎らしい。ならせめてもの意思表示だろう。田所は切り変えた気持ちのままに誘うことにする。

「じゃ飯、食ったら五十芸さんとこ行かね?」

 とたん、どうして、と間延びしたのは百々の顔だ。

「帰んないなら今、オールナイトで特集上映やってるらしいから」

 明かしても今から映画? などといぶかしがられたならそれまでだろう。だが百々はむしろその言葉を待っていたかのようだった。うん、とうなずき返してくれる。

 もうしばらく一緒にいたいから。

 感じ取るに十分な、それはうなずきだった。

 夏の鰻は定番である。駅前の繁華街にある老舗の鰻屋でひつまぶしをたいらげ、肝吸いだって堪能した。オールナイトなのだから焦ることは何もない。店先にバイクを残し、裏手の少し離れた位置にひっそりたたずむ「20世紀CINEMA」同様、小劇場の「五十芸術劇場」までブラリ徒歩で向かう。

 着いて初めて知ったのは、組まれた特集が夏のホラー・スプラッター名作選だという事実だ。二人して呆然と見上げ、さすがにどうするかと田所は百々をうかがい、せっかく来たんだからと百々に腕を引かれて中へと入った。

 そんな五十芸スタッフとは互いに前売り券を預け合う仲だ。マニアだねと冷やかされつつシアターの分厚い防音扉を押し開け、内容が内容なら選び放題の座席も後ろを選んで陣取った。

 客も少ないシアター内の冷房は絶好調である。長丁場を考慮して百々がカウンターで借りたひざ掛けはそこで大いに役立つと、広げて夏の軽装を補った。その下でそっと手をつないだのはどちらから、というわけでもない。むしろ示し合わせていたかのように自然だった。ままに毛布とは別の温もりに身を添わせつつ、ただ黙って凄惨極まるスクリーンを見つめる。途中から見始めた最初の一本はそのうちにもエンドロールが上がってゆき、休憩もないまま二本目は始まっていた。

 二時間もすればそれも終わるとプログラムは三本目へ突入し、気がつけば三時間か、さすがに腰も痛くなってきたところで田所は座席を抜け出そうと百々へ振り返る。触れているだけだと思っていた百々の頭は、とたんカクンと肩から滑り落ちていた。様子はどこかスクリーンのゾンビに似ており、慌てて支えなおしてやる。いつからか、百々はすっかり眠り込んでいた。

 その丸い頬がスクリーンの光を蒼白く反射させている。相変わらずしているのかどうか分からないほど化粧っ気はなく、しかしながらそんなことなど気にしていない、といわんばかりに子憎たらし気と、ツンと小さな鼻を尖らせていた。

 さっき聞いた話はきっと嘘だ。思わずにおれなくなる。いや、そうとしか思えないほどそこにあるのはごく普通の女の子の寝顔で、その力の抜けた柔らかな存在はただそれだけで田所にとてつもない幸せを分け与えてくれていた。

 握られていた指の間から手を抜くのに、どれほど神経を使ったことか分からない。そうしてその幸せが逃げてしまわないよう、初めて肩を抱き寄せた。たいして力もなさそうな薄い肩は手に余って、こんなヤツに無茶やらせるなよ、と不意に苛立つ。なら明日、どうにか行かせない方法はないかを考え、それは百々を困らせるだけだと飲み込んだ。あのソリ引き犬に百々のことを頼むから、と一言いっておきたい衝動に駆られ、言って頭を下げる自分を想像してずいぶん負けたような気にもなってみる。

 スクリーンでは相変わらず手が飛び、首が落ち、悲鳴が上がって地面から人が這い出し続けていた。

 だが、かまいはしない。

 ただ迷わず帰ってきてほしいと思っていた。

 そのために自分のものだと印をつけておきたくて、田所は顔を寄せる。眠っている間になど卑怯かとも思ったが、その罪こそ後から自分が償えばいいはずだった。穏やかな寝息を立てる唇を探り、そっと自分の唇を押し当てる。

 眠る百々に返事はない。

 つけた印の痕だけが田所の記憶へ深く残った。

「……ロコロ、うなき、でてふよ。でへるぅ……」

 やおら喋り出した百々のそれは寝言らしい。阿呆のようにその後も口だけは動いて何事かを言い続ける。あっけにとられて田所は眺め、こみあげる笑いを鼻から抜いた。

「なに、おま、まだ鰻、食ってんの?」

 ずりおちた毛布を引き上げる。

 夜は更けた先から明けていた。

 あと数時間で、本当は行かせたくない場所へ百々は旅立つ。止められないのは今の自分にそれだけの力がないせいだろう。このままではいけないと田所は思っていた。本当に守ってやれるのは、やりたいのは、自分なんだとその手へ力を込める。

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