第26話

 部屋へ入って初めてレフから、百々はせがみ続けたバービーとのやり取りを聞かされていた。

「コートジボワールへ飛びたい」

 時間がないとはいえ、挙句、迷わず口にするレフは確信犯だ。

 その時、隣室のドアは開いて耳にするため入って来たかのような曽我もまた、部屋へ姿を現していた。その実、百合草がオフィスへ戻ったことで、頃合いを見計らい報告に訪れたらしい。その手にはしっかと紙束が握られていた。

 だがデスクの一点を睨みつけた百合草はそんな曽我へ振り返りもしなければ、訴えるレフの言葉を聞いたところで前屈みのまま動こうとしない。アゴの下で組んだ手を堅く握り合わせると、ただ一点を睨み続けていた。

 動き出すのを待てば息は詰まる。

 と、ついにその視線は持ち上がり、レフをとらえて、いわばそれだけで確信犯の首根っこを押さえつけてみせた。

「外田を向かわせる。お前は予定通りノルウェーへ飛べ」

 言葉に百々はすぐさま反論が飛ぶかと首をすくめてレフを見上げる。だがレフの口は動かない。ただわずか目元へ力がこもっただけで、むしろ不気味なほどやがて静かにこう言っていた。

「いや、俺が行く。陽動作戦なら写真の人物を連れてこいと要求が出される可能性がある。間に合わないような時間を指定して、だ」

「だとして現状、我々の最優先事項はジェット・ブラックだ。お前が向かうならそこから一人割くことになる。今ここに無駄にできる人員は一人もいない」

「誰も無駄を要求してはいない。一人で十分だ」

 言うレフはバービーの事を終始、知り合いと言う表現を使って話していた。だが相互監視のため行動は筒抜けだとストラヴィンスキーが言っていたように、二人の仲が百合草の耳に入っていないハズはない。

「言う、自分の判断力を疑え」

 使えない。

 それこそ私情の極みと、百合草の下した判断は百々にも正しいと理解できた。

 レフもピタリ、口を閉ざす。

 やがてほどかれた百合草の指が弾くデスクの音だけが部屋に、神経質と響いた。

「まったく。お前はウチの人材が無尽蔵だとでも思っているのか」

 放たれた言葉はどこまでも辛辣だろう。

「よって判断力に疑問の残るお前に単独行動の許可は出せない。本線のジェット・ブラックへ当れ。ミッキー・ラドクリフについては外田が担当する」

 それでもまだかいくぐるスキはないかと、レフが考えを巡らせていることは無表情であればこそ、あまりにも明らかだった。仕方ないよ、これもチームだから。目にあまって言うべきかと、百々は喉元にまで言葉を押し上げる。だが口に出せるだけの図太さこそ持てず飲み込んだ。何しろバービーに携帯電を持たせたのは、こうした事態を危惧したからだ。目の当りにしたとたん見なかったことにしろ、と言うのはあまりにも酷だった。

 そうしてこのままノルウェーへ向かったなら、と想像する。百々は昨日のことを思い出し、バービーが西アフリカへ飛ぶことを聞かされた直後よろしくこの人は違う意味で使い物にならなくなるんじゃないかと心配した。いやそれとも、ともう一つの可能性は百々の脳裏を席巻してゆく。

 なぜなら目的を果たそうとする時レフはいつも驚くほど貪欲だった。正攻法もその逆も織り交ぜ行使することを見てきている。だからして脳内に広がった光景は被害者となったストラヴィンスキーが空港のトイレで血を流し、奪ったチケットを手にレフがコートジボワールへ飛ぶと言う度の過ぎた劇画だった。だがそれは実にリアルで、百々は一人、セクションCTの危機だとさえ震撼する。

 瞬間、この問答の底は抜けた。

「が、言ったところでお前は承知しない」

 百合草だ。

「さすがにわたしも学習する」

 詰めた息を吐き出し、椅子の背もたれへどうっと身を投げ出した。そうして初めて傍らに立つ曽我へ頭をひねる。

「今から求人をかけるか」

 投げた笑いに覇気はなく、受けた曽我もまた困ったように肩をすくめていた。

「まったく、陽動作戦を報告して帰ればこれか」

 吐いた胸へ手を乗せる。それきりだ。ひと寝入りするかのように百合草はまぶたを閉じた。おかげでふい、と宙に浮いたのはこの話だろう。様子に一体、どういうことだ、と百々は思う。そう、結局のところ百合草もレフのコートジボワール行きには半ば折れているのだ。ただ組織の責任者として報告してまかりとおる建前、というものが必要な様子だった。

 ならかつては勝手ながらも「誰も怪我せず皆が納得する方法」担当を名乗っていた百々である。目にしてどうにか、なんとか切り抜けたい、と思うのはごく自然な成り行きとなる。

 ままに最後の一滴まで絞る無い知恵。

 果てに、あ、とその口を開いていた。

「えと……」

 切り出し挙げる手は、おずおずとだ。

「あたしなら余ってます、けど……」

 何しろ肩書きだけとはいえ、立場すらもう臨時ではない。

「えへ」

 とにもかくにも次いで笑った。

 顔へレフが振り返る。

 ああ、と納得したように曽我がうなずいていた。

 百合草だけがなおさらきつく両目を閉じる。

「その……、最初に画像に写っていることに気が付いたのはあたしで」

 前において百々は言葉を並べていった。

「誰も、あの女の人には会っていないみたいですけど、わたしは舞台挨拶で彼女に会っていて」

 それは何とも頼りない話し始めだ。だが続けるうちにも確信は、百々の中で強くなっていった。

「あたし、あの人と話もしたんです。後ろ姿でも見分けられます。会った時は映画館の人だったから、もしあたしを見て挙動がおかしくなったら確実に怪しいって、判断基準にもなれます。あたしがノルウェー行きを却下されたのは足手まといだからというのが理由ですよね。だったら唯一の接触者であるあたし抜きで、コートジボワール行きってないんじゃないかと思うんです」

 最後はそのとおりだ、とさえ思い言い切る。その満足感と共に百合草の反応を待った。

 だがまぶたは開かない。

 何か間違ったことを言ったろうか。確かめてレフを見上げた。そこからレフは何度も強くうなずき返してくれる。その目を百合草へと向けなおした。

「公私混同だと言うなら否定はしない。なら百々は俺のストッパーだ。同行させる。適任だと判断したのはチーフ、あんたが最初だ」

 それは実に懐かしい響きだろう。突きつけるレフの口調に揺らぎはなく、百合草のまぶたもそこでついに持ち上がる。

「言っていることを、二人とも理解しているんだろうな」

 その目で二人を見比べた。

 念を押されて振り返り、むしろ抜けていることだらけのような気がして、引けず百々は力で押し切る。

「た、たぶん分かってます」

 何も答えないレフはただ決め込む仁王立ちで意志を表明していた。

 前で埋まっていた椅子から百合草が背を起こしてゆく。

「滞在期間は不定。現地はアウトブレイクに隣接。環境は劣悪であることが予想される。加えて何ら確証を得てのコートジボワール行きではない。手続きは急ぐがWHOを含め、思ったように現地警察からも協力を仰げるかどうか到着直後の保証はない。それでも素人を引き連れて、お前はやれると言うのか?」

 再び前かがみの姿勢へおさまると、ひときわ低い声でレフへ確かめた。

「こいつは案外、頼りになる」

「は?」

 それがコートジボワール行きを確定させるためだからか、答えるレフは考えるような間をあけていない。

「な、なんか、そんなの急に言われると不気味なんですけど」

 百々こそ頬を歪めていた。

「俺たちの死角については、だ。他はアテにしていない」

「そ、それ微妙っ」

「微妙でもなんでもいい。人の言ったことは素直に聞け」

「そっちが聞けないような言い方してるんだってば」

「うるさい」

「ウルサかないよっ」

「うるさい」

「他はアテにならないってっ……」

 繰り返せば、一本、二本と追加されて行ったのは百合草の眉間のシワだ。それこそ聞くにあたいしないなら、切り上げさせるべく決断を下す。

「陽動作戦であった場合の爆発物は」

 何の話かと百々はレフもろとも百合草へ振り返っていた。

「不発である可能性が高い。だがあくまで可能性だ。行動は慎重に行え」

 めがけ百合草は言い放つ。

「レフ、百々は明日、コートジボワールへ急行。ミッキー・ラドクリフの調査に当たれ。片付き次第レフはノルウェーへ合流。百々は即時帰国。指示を以上に変更する」

 不意を突かれてポカンと眺めていた。

 言い放った百合草は、それきり椅子ごとクルリ背を向けている。入れ替わる格好で、間へ曽我は立ち塞がっていた。

「聞いたわね。もたもたしている場合じゃないわよ。ホント、乙部さんの応援で急な派遣があること考慮しておいて大正解。大きい方のバイアルだから、あと二、三人は行けるはず。アフリカ渡航は二人とも初めてで間違いは?」

 とたんレフの顔が引きつったのは、錯覚でもなんでもないだろう。百々がないです、と答えたなら案の定と指示は出されていた。

「十日後からじゃないと意味はないけど、滞在期間もはっきりしないから実施します。こちらから連絡を入れておくわ。今すぐ上の受付に寄って、黄熱病の予防接種を受けてきてちょうだい」

 とたん明らかにレフの影が薄くなっていた。なるほど。このくだりは計算に入っていなかったのだろうな、と百々はレフを盗み見る。

 さかいに、再びフル回転を始めたオペレーションルームの活気に殺気は、昼間かそれ以上と化していた。レフが先に行け、というので百々はとっとと予防注射をすませ、待合で遂次、端末へ送られてくる情報へ目を通す。

 それによるとスケジュールは翌朝六時にオフィス集合。出立は十一時となっていた。時刻までは待機と言う名の自由行動になるのだが、あえて家に帰り、早朝、出かけることこそ現実的とは思えないだろう。どれほど無理があろうが一人暮らしの友人が部屋に幽霊が出ると怖がり、しばらく一緒にいてくれと頼まれている、と言って全てが終わるまで家へは帰らないことを決めた。

 交代で診察室へ入ったレフが、ぎゃーだか、うーだか、叫び声を上げた気配はない。ただ何やら物音がしたことだけは確かで、中にテロリストでもいたのか、やがて神妙な面持ちで出てきたレフはその肩を揺らしていた。

 おかげでドクターの安否が気になり、百々は他にもっと気がかりなことがあったのではなかったろうかと我に返る。そう、活動的だった日中は怒涛のうちに終わりを告げ、病院の窓からいつしか光は、黄昏も絶好調と侘しさにまみれ差し込んでいた。そのシチュエーションが待ちぼうけているだろう人を思い起こさせる。

 思わず頭を跳ね上げていた。

 院内の丸い時計を見上げる。

 時刻はとうに六時を過ぎていた。むしろ七時が近い。

 逆立つ全身の毛をとめおく術などあろうものか。ならこれはきっと体裁保ち、叫びたくとも叫べなかったレフの代わりだ。百々はこの絶望的状況にムンクよりもムンクを極めて顔を伸ばす。

「ぎゃーっ! タドコロ、タドコロだよぉっ! タドコロを忘れてたよぉっ!」

 叫び、脱兎のごとく病院の廊下を駆け抜けた。

 果たして間に合うのか、ではなくもう間に合っていないのだからそこに田所は待っているのか。とにかく予防接種のショック抜けきらぬレフを病院に置き去りにすると警察病院を飛び出す。

 さなか、二つ目のバス停で先を走っていたバスに追いついたことはラッキーだろう。ゼイゼイ喉を鳴らして飛び乗り、車内、一刻も早く田所へ遅れることを、いや、今そちらへ向かっていることを告げるべく携帯電話を取り出して。再びムンクと胸の内で叫び声を上げた。なぜならこの三日間、まるきり充電していなかった携帯電話のバッテリーは切れている。

 涙目になりながら、いや実際、泣いていたかもしれないが、ようやく到着したバス停でステップから飛び降りた。国道を脇道へ回り込み「20世紀CINEMA」の入るテナントビルを目指して最後の角を横滑りと折れる。もうすっかり暗くなった通用口の前だ。カワサキのバイクを停めた田所の姿はあった。パンプスのせいで駆け寄る足音は耳障りなほど辺りに響き、気づいた田所もおっつけ振り返る。

「ご、ごめんっ、タドコロっ! すごく遅れたぁっ!」

 うふふ。あはは。おほほ。えへえへ。あらゆるパターンで百々は笑った。だがどれを当てはめたところでしっくりくるものなどない。当然だ。これこそが笑えない状況、なのである。

 案の定、無表情と田所は、三日間、着通したよれよれのワンピース姿を上から下まで眺め回した。やおらバイクのハンドルに引っかけていたヘルメットを百々へと投げる。

「乗れよ」

 押し付けられたように受け取って百々は、身を縮めていた。笑みはもう何の役にも立たず消えて、すでに叱られた後のようにうなずき返す。

 目もくれずヘルメットへ頭を押し込んだ田所はバイクへまたがり、スタンドを跳ね上げていた。キーをひねればエンジン音は乱暴な音で百々を急かし、我に返って百々もスカートがめくれないよう、巻き込みながら田所の後ろにまたがる。そうしていつも通りその背にしがみつきかけて戸惑った。今日はひどく触りづらい。まごつけば、それすら咎められているような気がしてえい、と両手を絡ませる。

 合図に田所の足は地面から浮き上がった。

 バイクは走り出し、迷わず切るハンドルで国道へと合流する。

 どこへ行くのか聞きたかったが、田所の背中には聞かせない頑なさがあった。早く説明しなければと気は焦ったが、ヘルメットと風は繊細な話を拒んで止まない。

 ただ黙ってバイクを走らせる田所にしがみつく。百々にはもう、そうするだけが精一杯となっていた。

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