第25話
そもそも声の主、彼、レフ・アーベンは最初からあまり平穏な生活を送っている様子がなかった。出会いがしらからして、二枚も胸に鉄板を仕込んでいる意味がバービーには全く理解できていない。それはまるで撃たれることが前提であり、現実、弾は見事、心臓の上、第二、第三胸骨を砕いていたのだから、当時は自分から当りに行ったのかしらんと正気を疑ったほどだった。
直後カルテから彼が警察関係者であることを読み取っている。だがその警察が誰もよく知る警察かと問えば明らかにバービーの中に疑問は残った。何者かと怪しみ観察したのは、看護時の接し方や同室の患者へ配慮するための業務上のものだ。けれどそれ以外、ごく単純な個人的興味も混じっていたことを今なら明かしてもいいと思う。
人に説明できる彼についての最初は、とんでもない注射嫌いだという点だろう。いい大人があれほど拒むのを見たのは久しぶりで、その抵抗はとにかくすさまじかった。無理にでも打てば次の日、憤慨して帰ると言い出し、その時ばかりはあきれてこちらも彼以上、憤慨して引き止めている。どうにか入院することを承知したのはドクターに死ぬかもしれませんよ、と脅されたからで、それでも納得ゆかずむすっ、とした面持ちの彼はただの困った人でしかなかった。
それは、その次の日だったろうか。
夜、検温に向かった先でバービーは、何をや映画を見て号泣する彼の姿に遭遇している。あからさまにうろたえ取り繕ったのはそれしか知らないしかめっ面だったが、一部始終は不憫に見えるほどサマになっていなかった。見ていた物を隠す動きも怪我のせいで滑稽なほど間に合っておらず、おかげで垣間見ることのできたポータブルプレイヤーの画面に舞い飛ぶ綿毛と戯れる小熊が映っていることを、傍らに置かれたケースに「小熊のチェブ」と言うタイトルが書き込まれていることを、バービーはしっかり見て取っている。
映画を観て泣くような人なのだと知ったことも意外だったが、正体不明の気難しげな男をそうまで泣かせているのが小熊だったと知った時は、一体どんな内容の映画かしらんと心底、不思議に思ったものだ。
その日は夜更かしはほどほどに、と言っただけで病室を後にしている。あとで取りに来るからと知らぬ顔で預けた体温計も、他の看護師に取りに行ってもらっていた。
夜勤明けの翌日は昼間の勤務が入らないルールだ。昨日の夜の様子をナースステーションで語ればそうでなくとも噂の人物である。話は電光石火で広がるはずだった。だがバービーは一件を胸の内におさめ、ただ帰り道、真相を確かめるべくレンタルショップへ寄ると店員の手をわずらわせてまで探し、彼が見ていたのと同じ「小熊のチェブ」をレンタルしている。
帰ってすぐ、二、三時間の睡眠を取った。
目が覚めたなら、チップス片手にそこまで言わしめる映画と対峙する。
九十分後にはチップスではなく、ティシュの箱を抱きかかえていた。
それは透明が過ぎて、何もない物語だった。だがその淡々とした美しさに惹かれ、癒されもする。癒されて、そこにある無の世界と住まう者へ思いを馳せると、とてつもない悲しみと切なさに襲われた。
看護師なら人の最期を看取ることもある。バービーはその透明が過ぎる無の世界に、そのとき感じる死を連想し、誰かへの哀悼の意が込められているのかと想像した。すぐにも視点はもっと身近だと思いなおし、スタンリー・ブラックが自身を葬っているのかとも深読みしている。
しかしこの監督を知ったのはこれが初めてだった。詳しいことは分からない。そうしてもしかすると彼なら何か知っているのかもしれないと思い当たり、知らなくとも彼がどういう思いでこの作品を見ていたのか確かめてみたいと思うようになった。
仕事と注射嫌いを除けば彼はごく普通の男性だ。ただチャイニーズフードがやたらに好きで、少しばかり羞恥心が強いだけに過ぎない。おかげで人前では感情をあらわにしたがらず、無愛想に見えるのはそのせいだともわかった。よくよく話を聞けば黙っている分、いろいろ考えているらしいことも見えてくる。そこには独特の繊細さもうかがえた。会話の訛を問うと彼は出身をロシアだと言い、熊はロシアの森で畏怖の対象だったことを、信仰と崇拝の対象であったことを教えてくれている。
口調は始終、穏やかだった。大きな体に加えて胸のコルセットのせいもあったかもしれない。彼の方こそ熊のように見えていた。
気づけば寄り道ばかりだったが結局、彼も作品の前後について知らないらしい。ただ作品に関しての意見だけは一致していることを確認して話を終える。
「小熊のチェブ」の話はそこで途切れたが、次の日から他の話が代わりに続いた。
おかげで幾度か垣間見ることとなったのは、彼の持ち合わせる無頓着な一面だろう。周りがどんな目で見るやら。退院の準備を問うた時など、彼は穴の開いたタキシードで帰る気でいたのだから驚きだった。驚き、あきれて、あきれついでに問えば、荷物はホテルにあるが同僚の手を煩わせてまで持って来てもらうことを遠慮しているらしいと理解する。
バービー自身が見繕ってくると提案したのは身寄りのない患者との間にままにあることだったからで、さほど特別なことでもない。だが彼はがんとして断わり、むすっとしたきり提案に取り合わなくなった。もちろんそれもまた怒っているのではなく、遠慮しているだけだと察するにもう時間はかからない。ゆえに無理矢理でもメモを毟り取り、幾ばくかの現金を預かって仕事帰りに店へ向かっている。
そのメモを開いたのは店に入ってからが初めてだ。サイズと必要なものが殴り書きされたリストの最後、付け加えられた項目はそれでも律儀な彼からの礼に違いない。「ミスウィンストンの部屋に飾る花」という項目は、通院に切り変わった後も個人的に彼と会い、話すきっかけを作り続けることとなった。
しかしながら日本へ帰る間際、彼がとりわけ会うことを嫌ったことや、連絡先を告げることなくアメリカを発とうとしていたことについての釈明は、何とも歯切れの悪い話を聞いてどうにか察したような具合だった。それは彼の仕事に由来していて、何か危なげだということをバービーは結構な時間をかけて飲み込んでいる。会わず、告げずに立ち去ろうとしていたことも、巻き込みたくないと言う彼の配慮だとも理解した。
そもそも彼、レフ・アーベンは、最初からあまり平穏な生活を送っている様子にない人物だ。そんな彼が言う「危なげな事」とは、自分もいつか胸に鉄板を二枚仕込むことになるような事なのではないか、とバービーは予想している。そして彼が危惧していることの一つは間違いなくそうだと確信していた。
けれど始まったばかりの付き合いに比べてその危なげな事は曖昧で、闇雲に恐れようにも彼の心配にこそ実感はわいてこない。だからしてバービーは悩んで選び抜いた言葉をこう彼の前に並べている。
仕事の邪魔はしない。
彼は提案を断らなかった。それを条件に、連絡先としてただこの携帯電話を渡してくれている。
ままに日本へ帰ったなら、これだけがその日から互いをつなぐ唯一の窓口となった。話すのはいつもバービーだけだ。あらかじめ聞かされていたとおり彼が喋ることはほとんどない。ただその罪滅ぼしのように彼は時折、メールを送ってくる。内容はよく晴れて暑いだとか、一級試験に合格しただとか、仕事仲間が帰ってきて面倒だとか、他愛もないものばかりで日記に近い。この間はクリーニングを取りに行く暇がないとあったので、足しになればと取り急ぎ買い揃えた服を日本へ置いてきた。
やりとりは人から見ればすれ違いの連続に違いなく、友人とも言い難い、遠い異国の文通相手と失笑されそうだった。だがすれ違う気配で感じ取る存在は、時に饒舌な会話より思うところを深めるらしい。
ひと月が経ち、もうひと月やり取りの更新は伝えられ、さらにもうひと月、延びた。
コートジボワールの件は、こんなことになるとは思ってもいなかった頃、申し出ていたものだ。そんな彼に愛想をつかしたからではない。
思えばいつからか、すれ違うことで互いは無事でやっていることに安堵していたように思える。いつか近い未来、なに気兼ねなく会うための、それは続くべき平穏にもなっていた。
「さっき画像を見た」
破り、レフは言う。
「よく撮れている。不便そうだが空気はうまそうだ」
「待って、それだけ? それだけのことで、こんなに驚かせるの? あなたから電話なんて何かあったと思っているのに」
案の定、電話口の声は動揺していた。
「何もない」
予期していたからこそ言葉には準備がある。とは言え相手も子供ではない。
「いつもならメールよ」
当然を問うてくる。
英語が聞き取れないせいで百々は食い入るようにこちらを見つめ、やりにくいと思うが割り切るしかなく、レフは疑うバービーを納得させにかった。
「日本で何も言っていなかったことを思い出しただけだ。それでかけた」
「今? 何?」
とんでもないことを告げられるのではないかとバービーの声は強張っている。罪悪感を覚えるとすれば、こんな時ぐらいだろう。
「行きに寄ったんだ、帰りも必ず寄って帰れよ」
罪など見ないフリで言ってやる。なら安堵したように電話口の声も笑いに揺れた。
「そんなこと? もう、怒ったくせに。押しかけたのはわたしのルール違反よ。がっかりなんてしてないわ。気を遣わなくてもけっこう。ただあの話はじかに言っておきたかったし……」
そこで言葉は切れ、バービーは話を元へと戻す。
「そうね、スクリーニングをパスしたら必ず寄るつもりよ。その頃はきっと冬ね。年越しに間に合えば素敵だけど」
思いを馳せるような間はあいて、レフは無言でうなずいた自分にこそばゆくなっていた。ついで、それまでに百々が英会話を習得する、などと言い出したなら全力で回避しなければと本気で考える。などと、これ以上の無駄話に耐えかねて問いかけても唐突でなくなった本題を持ち出した。
「最後の三枚に知らない人物が写っていたが、あれは誰だ?」
「写ってた?」
我に返ったようにバービーの声は跳ね上がっていた。
「ああ、ミッキー・ラドクリフね。赤毛の女性でしょ? 撮った時、彼女しかいなかったからきっと彼女だわ」
「何者だ?」
「私と同じ看護師。さっきも一緒にいたわよ。どうして?」
あっけらかんとバービーは明かして返す。だがその人物が通訳でないなら、質問は矢継ぎ早とならざるを得なかった。
「アメリカでも一緒だったのか?」
「いいえ、集合場所だったアビジャン空港で一緒になったばかりだわ」
「通訳はしないのか?」
とたんバービーは笑い出す。
「尋問なの? おまわりさん」
咎められて逸らした目が百々と合っていた。
「いや、違う。誰といるのか気になっただけだ」
「やっぱり変よ。帰りも寄っていけ、なんて」
「相方が約束しておけとうるさい」
「気が利くのね」
「自分のことにはあまり回っていない、トンチンカンがウリだ」
その視線を正面へ戻した。
「安心して」
言うバービーを誤魔化すなど、最初から無理だったのだろう。
「ここはフランス語が公用語だけれど、通訳は現地語も含めて先発隊が駐屯している時からずっと専属の人がついているわ。誰でも出来ないのよ。専門用語が多いから。ミッキーはこの間まで南アフリカで同じようなODA活動に三年も参加していた私の先輩。いろいろ頼りにしている人なの」
響きは自慢げでもあった。
「そうか」
「考え過ぎるのは悪い癖よ。ここは誰でも来れるような場所じゃないわ」
「だな」
「もう驚かせるのはよしてね」
「ん」
気を付けて。
言えばあなたも、と付け加えられて口ごもった。
通話を切る。
赤毛の女も到着したところなら態勢は整っていないハズだった。まだコチラを振り回す声明文が出されていない理由にもなる。だとして三年は言い過ぎだと心の内で吐き捨てていた。
ただちに他の情報と擦り合わせるべく資料室でファイルをめくる。ファイルに貼られた彼女の写真は髪の長さからして、送られてきた画像と変わらなかった。しかし名前はミッキーではなくキャメロン。姉妹、兄弟は存在せず、彼女はその時、自分のことを半年前から監督事務所で雇われた専属通訳だと話していた。裏付けるべく過去、ハリウッドの通訳派遣事務所に登録していたこともまた確認されている。だがODAどころか、そこに看護師経験は一切、記録されていない。
SO WHAT との関係を疑われたさい、来日についてを彼女は監督の個人的な旅行だったため何も知らない、と証言している。しかし実際を明かすことなく監督はああなり、付け込んで彼女がシラをつきとおしているとしたなら、彼女の言葉には何の信憑性もなかった。嘘の経歴を並べ立てあの地に立つ今となっては、偽りの経歴など
調書を作成したのはやはり地元警察だ。面と向かっていなければ、どうしても詳細まで記憶に残りづらい。つまり一人で写真を見ていたなら映り込んでいたことに気づかなかったかもしれず、相変わらず妙な所で鼻の利く相方だと感心した。
ファイルを閉じる。
バービーの言った通り、アウトブレイクを監視する保健所は誰でも入り込める場所ではない。なら果たして現在の経歴は個人で偽り、WHO等、審査に通るものなのだろうかとうがった。背後に見合う組織が潜んでいるのではないか、と考える。
そうして装ったのは手に覚えのない技術職なら、嘘はすぐにもばれることが予想された。つまりコトが起こるなら暴露するまでの間で、今日か、明日か、あさってか。ともかく時間はそうない。そうして引き起こされるのがさらなる時間稼ぎの陽動作戦なら、バービーの身が心配だった。現地へ呼びつけられることも考える。逆に、でないならと想像し、潜り込んだ彼女の意図をはかりかねた。事態はそちらの方が厄介で、自然、眉間へ力は入る。
そこでようやく百々が何を話したのか説明しろ、と騒いでいることに気付いた。だが二度も三度も、同じ内容を繰り返すなど手間だ。引き連れ、百合草の部屋へときびすを返す。
なら当の百合草は外出していたらしい。ドア前に立ったところでその背を、靴音に呼び止められていた。振り返れば歩み来る百合草の姿はあった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます