第24話

 都市ハボローネは南アフリカ内、ボツワナ共和国の首都である。国土の八割はカラハリ砂漠に覆われ、自然の宝庫だ。だがハボローネには野生動物もいなければ湿地帯もありはしない。古くはダイヤモンドの輸出により発展を遂げてきた街は、代わりにスタジアムや病院が、大学に公園が、ショッピングセンターに銀行が、茂る緑の中に点在するごく一般的な近代都市だった。果たして街並がどこか閑散として見えたとしても、それは土地が有り余っているせいで決して田舎だからではない。

 しこうしてサファリを求める観光客の大半は南アフリカ共和国ヨハネスブルグより国立公園にほどなく近いマウン国際空港へ飛び、そうでない乙部は航路を分ける。日本を発ってからおよそ三十時間。ここハボローネの外れにある国際空港、セレツェ・カーマへ降り立っていた。

 現地時刻、午前六時四十二分。

 吸い込んだだけで空気の乾燥具合が分かる。そして刺すような冷たさもまた、だ。吐き出す息は白く目の前に広がり、機内からフライトジャケットを着ておいて正解だったと教える。おかげか空も呆れかえるほどに澄み渡ると、これから始まろうとする一日、その荘厳な儀式に代えて隅から隅までを心地よいほどの朝焼けに燃え上らせていた。

 だが長旅のせいで同乗していた客の中からはやれやれ、という声が聞こえてこなくもない。確かにアフリカは遠い。だがそれも通過儀礼ととうの昔に終えていたなら、乙部はただ帰ってきたらしいことだけを実感した。

 そんなこの地で航路は、乙部が仕事にあぶれなかったように日本のバスや電車と変わらない感覚で使われている。だからして飛行場の傍らには所狭しとセスナやヘリが並べ置かれ、眺めながら大ぶりの荷物を手に空港施設までを自らの足で移動した。

 前を行く観光客にならい、機から運び出されてきたトランクを拾い上げて入国手続きを済ませる。

 確かめた時刻は七時半を指していた。予定では午後、地元警察へ顔を出すことになっている。一息入れる時間は十分にあり、ホテルへ向かうべくシンプルが功を奏して迷いようのない空港を抜け出した。

 暗いうちは昼以上に治安の保証がないのがこの辺りだ。もう少し早ければ捕まえることが難しかったやも知れないタクシーをロータリーに探す。その窓ガラスをノックして、ウェルカム、トゥ、ボツワナ、と迎え入れられ乗り込んだ。

 だがそれ以上、望めそうにないと思うのは発音のせいだろう。植民地時代の名残として英語が公用語採用されていようとも、母語がセツワナ語であるこの地で話せる者はいまだ半分に満たないという。そして乙部にセツワナ語を話せというのもまた無理なハナシだった。ただ微笑み返してホテルの名を告げる。

 見上げればいつしか空は焼き尽くされた後と、そこに鎮静の色を広げていた。気まぐれとしか思えない間合いで雲は浮かび、都心部と空港をつなぐ唯一の国道、エアポートロードをタクシーは街へ向かう。

 豪快に飛ばすドライバーの運転は危なげだったが、もともとこの辺りには信号がない。おかげでタクシーは五分と経たないうちに増えた建物の中へ潜り込んでいった。あっという間に街の中ごろ、カジュアルさが近代的なホテル「モアパーレ」の前でブレーキを踏む。

 当然ながら辺りは黒人ばかりだ。自分も有色人種だというのにここでは異質だと感じざるを得ない。

 メーターの金額へチップを上乗せしタクシーを降りた。

 安直なもので表の気温はもうフライトジャケットが必要ないほどと温んでいる。脱げば荷物になると羽織ったままで、外装からしてビジネスホテルで間違いのないそのドアをくぐり抜けた。

 頭上で緩やかにファンを回すフロントはこじんまりとしたものだ。濃いグリーンの制服を着たホテルマンを相手にチェックインをすませ、駆動音がリズムを刻むエレベータで四階の部屋へ向かう。

 部屋は手狭なシングルルームだったが、小ぎれいに整えられているせいか実際より広く見えていた。アースカラーのベッドにはいかにもアフリカを演出して、植物で編んだレイが飾られている。臭いはこもっていない。むしろ部屋にはどこか懐かしい土の匂いがしていた。

 エアコンはフライトジャケットさえ脱げばちょうどで必要ないと思える。ソファへ投げ出し、さして量のない荷物を解いて変圧機を端末へつないだ。

 ボツワナ共和国と日本の時差はプラス七時間だ。日本は今頃、昼食に膨れた腹のせいで眠くなっている頃だろう。到着を知らせて一報、入れるに遠慮もなさそうで、ひとまず移動中にも送られていたファイルへ目を通すと、ノルウェー行きが決定されたことや、共に決行した第三者が存在することもまた送られてきた写真と共に確認した。

 思わず乙部は失笑する。

 何しろ見てきたとおりボツワナ共和国はいくつかの部族からなる黒人社会だ。混じればアルビノよろしく際立つ写真の男は、隠れて活動するに不向きとしか言いようのない白さだった。その人物がここでロンと共謀し、何かしらか動き回っていたとしてずいぶんな秘密工作だと考える。いや、だとすれば仕事はずいぶん早く終わるかもしれない。思いながらオフィスへ通話をつなげる。

「到着した。資料へ目を通したところだ。忙しそうでなによりだね」

 シャープがモダンな官公庁の建築物群はグレーの外壁に朝日を鋭く反射させ、すでに揺らめいて見えている。次に出かける頃は羽織れるものさえ持っていれば半袖で充分だろう。考えながら切り変えられたラインへ百合草が出るのを待った。


 大陸は広く、そんなボツワナ共和国から離れること直線距離でおよそ五千キロ。西アフリカ、コートジボワール共和国はそこに国土を広げていた。

 進行中のアウトブレイクを監視する保健所施設は、そんなコートジボワール北部の町、コロゴから数十キロ離れた集落に臨時で設営されている。

 朝、八時半。

 バーバラ・ウィンストンことバービーは、画像を送り終えた携帯電話をカバンへしまい込んでいた。保健所施設内、迫る時間に先行く同僚たちから遅れまじと、建物と建物をつなぐ廊下を急ぐ。

 一帯は湿潤期に入っているためか、慣れない湿気でとにかく蒸し暑かった。時折、バケツをひっくり返したような雨が降ると聞いているが、現地に入ってまだその光景には出くわしていない。いっそまとわりつくようなこの空気もろとも豪快な雨で洗い流してくれたらいいのに、思うが自然はウィルスも含め人が思うように動いてくれないようだった。

 そんなウィルスが蔓延する問題の地区は、ここからさらに数キロ西へ向かった場所に隔離されている。人口一万ほどの小さな町で、当然ながら第一号患者が搬送されて以降、出入りも厳しく管理された地区だった。近寄るには検問をくぐらなければならず、そのための最終ガイダンスとカンファレンスがバービーの今日、一日の仕事にもなっている。

 そんなバービーたちは症例の確認から三カ月が経っていることからも分かるように、処置や感染防止に加えワクチン開発に必要なウィルスの取り扱いが主な仕事となる二次隊だ。それは何もかもが不明な先発隊と違い、隔離地区の運用も確立された、くらべていくらも安全なポジションだと言えた。

 しかしながらウィルスは、感染すればおよそ二週間の潜伏期間を経て発症、臓器に際限のない炎症を起こさせ、挙句、死に至らしめるというものである。感染も飛沫等と気が抜けず、その死亡率も五十五パーセントから下がっていない。決して侮っていいような相手でないことだけは確かだった。

 ただし、エキスパートだと自負するからここへ来たことも事実である。思い出し大丈夫、思うままにバーバラは到底ガラスなどはめ込めそうもない歪んだ窓へ目をやった。

 そこに慣れ親しんできたものの一切はない。ガラスさえ入っていなければ、自分の姿すら映ることがなかった。

 湿度のせいで髪がどうにもまとまらない。

 耳へ何度もかけなおす。

 と、携帯電話の着信音は鳴っていた。しかもそのとき鳴ったのは、通話着信用に設定したメロディーだ。区別したのは彼がメールしか送ってこないからで、だからしてこれまで一度も鳴ったことのないそれは音でもあった。

 至極単純に何かあったのだと思う。不思議なほどそれがいい方へ想像できないことに違和感はなかった。ままに鳴り続ける携帯電話を掴み上げる。胸騒ぎと共にバーバラは耳へあてがった。

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