第23話

 表は日が傾き始めているに違いない。資料の全てはそこで目を通し終えていた。だが支援者ロンの存在はおろか、ジェット・ブラックらしき何某の影に、それぞれを繋ぐ第三者の介入さえ見つからない。

 並行して送られてきた組織関係の資料もそこで端末への配信が完了となり、広域手配がかけられているため日頃から隣接する諸外国より捜査協力を求められることが多いのやもしれない、ノルウェー当局とのやりとりもまとまる。

 多方面へ引き継いだとはいえ、しばし日本を離れるための残務整理とそれなりの身支度は必須だ。収穫のなかった疲れを引きずり、それぞれオフィスを離れてゆく。ノルウェー行きからはずされた百々もまた、二日ぶりに自宅へ戻るべくオフィスでの後始末にとりかかった。

 そうして眠る久方ぶりの自宅のベッドが心地よいものになるかどうかは、帰りに立ち寄る「20世紀CINEMA」で決まるだろう。なぜなら恐る恐る耳を傾けた留守録へ田所は、アルバイトが終わった後「20世紀CINEMA」で待っているから、とだけ吹き込んでいたのだった。

 業務終了後、着替えの時間を考慮すれば六時あたりが適当か。かまえるほどに百々の脳裏を今朝、休んだ事実は過ってゆき、田所の至極冷静な口調が背を一滴の汗となって流れ落ちてゆく。

 ひと山越えたオペレーションルームは今や落ち着いてた。中に見つけた曽我へ仮眠室の鍵を返し、世話をかけたあれやこれやへ礼を言って百々は頭を下げる。百合草にも挨拶しておかねば、と所在を尋ね、不在であることを知らされていた。急遽、決まった、いや決めたノルウェー入りの件である。おそらく込みで上へ色々と報告しなければならないことがあるのだろう。ここではトップの百合草だが、組織全体を見回せば中間管理職となる労を心の中でねぎらってみる。

 ままに食堂の自販機へ足を向けたのは、本日最大の局面にそなえ飲み物の一つでも買っておこうと考えたからで、食事時をはずした食堂は通路に漏れる光からして利用者の気配も、調理する者の気配すら感じ取れず活気がなかった。

 もうただの休憩室だ。足を踏み入れ、オレンジ色の派手な壁を目にする。まだオフィスを出ていなかったらしい。ジャケットを脱ぐと背負ったホルターもあらわに、背を向け座り込むレフの姿はあった。足音で人が入って来たことは気づいているだろうに、だからといってそんなレフに確かめ動くような様子はない。

 横目に百々はひとまず己の目的を果たす。ミルクティーを自動販売機の取り出し口から拾い上げ、レフの前へと回り込んでいった。

 長机の前で足を組んだレフはジーンズのポケットへ両手をかけると、珍しくもだるそうに椅子へ浅く腰かけている。視線の先にはバービーのホットラインと、曽我から奪ったジェット・ブラックの写真が供物のように並べ置かれていた。見下ろす目はいわずもがな初めて目にした時から飽きもせずじっ、と写真だけを睨みつけてる。

「やだなぁ。そればっかり見てたらバービーさんの顔、忘れちゃうよ」

 百々は向いへ腰を下ろした。挨拶にしては不躾だと思わざるを得なかったが、光景を前にしたなら黙っている方が難しく、また明日、と言えない出張も控えている。

 だがレフが顔を上げることはなかった。そのうち写真が浮かび上がるか、燃え出すのではなかろうか。あまりの集中力につられて百々ものぞき込む。何度見てもザッツ外国人が無個性なその顔から何を読み取ろうとしているのか、考えてみた。考えながらペットボトルのキャップをひねる。一口、ミルクティーを口に含んだ。

 瞬間、レフはボソリ、言う。

「……俺はこいつを知っている」

 あやうく誤飲しかけた体が、前のめりになっていた。押し止めて百々は、そのまま長机の上を這うとレフへ詰め寄る。

「そっ、それ、早く言わなきゃダメじゃんっ!」

 だが、だからこそこうして睨み合っているのだと、レフは眉ひとつ動かさない。

「確かなことは以前、会っているということだけだ。だがそれがいつ、どこでだったのかが思い出せない。話しもしたはずだ。しかし何を話したのか、声も場所も思い出せない。報告のしようがない」

「な、に、それ?」

 長机の半分以上を占領したところで、百々の体は固まっていた。解いて慎重を期し、レフの話をまとめにかかる。

「それって、つまり、さ……」

「気のせいじゃない。どこかで会った。間違いない」

 ぴしゃり、遮られていた。

 なるほど。レフの記憶力の良さは嫌というほど思い知らされている。そのレフがそこまで言うのだ。とにもかくにも百々はペットボトルのキャップを閉めた。これほどの重要事項などほかにはない。是が非でも思い出させるべく、疑っていた気持ちを入れ替えにかかった。むしろ悪いのはこの整い過ぎて覚えづらい顔なのだ。因縁さえつけて技の伝授にレフへと唇を尖らせる。

「そういう場合はさ、すっかり忘れたフリするんだよ、レフ。忘れたフリ。全然違うことして記憶にフェイントかけるやり方。そうしたらお風呂入ってる時とか、トイレ行った時とか、目が覚めた瞬間とか、ふっと思い出したりするんだよね」

 レフの顔はそこでようやく持ち上がる。百々はその顔へ、間違いなしと熱いまなざしを注ぎこんだ。だがレフが答えることはない。再び写真へ視線を落とす。

「ここを発つのは明日だ。余計なことをしている時間はない」

「あぁ、そっか」

 大きくのけぞった。どうしたものかと考え、再び前のめりとなり声をひそめる。

「もしかしてレフが会ってるってことは、あたしも会ってる? ならアメリカで? それとももっとずっと前? まさかロシアで? うーん、レフが話すくらいだから中華のお店とか。ええっ! もしかして地上げ屋ぁっ?」

 それはない。気づけ、百々。こんな地上げ屋こそ日本にいない。

「うるさい。お前は邪魔しに来たのか」

「わ、協力しようとしてるのに」

 いや、あなたは引っ掻き回しに来ただけです。

 と、並べ置かれていた携帯電話だ。呼び出し音は鳴っていた。視線は集まり、百々はそうだと思い出す。今度こそミルクティーを堪能する時がきた。キャップを回してラッパ飲む。ままに外の風景を眺められる窓はあったろうか。食堂の中を探すフリで振り返った。

 逸れた視線にレフも携帯電話を耳へ押し当てる。たがわず百々へと背を向けた。

 ならば味は二の次となる。今度こそ何か話すに違いない。百々の耳は期待に任せてダンボほども大きくなり、だがまたもやレフはうんともすんとも言わずテーブルへと携帯電話を戻していた。

 見つけることの出来なかった窓をそれでも探しながら百々は、正面へ向きなおる。そこですでに腕組みまでして写真を睨むレフと再び対峙した。

 確かに仕事は大事な局面にきているだろう。だがここでバービーに愛想をつかれてしまえば、おそらくこの相方が次に彼女と呼べるような存在を捕まえることこそテロ支援者を捕まえるより難しいとしか思えなかった。だからして我慢がならない。百々は自分が丸一日、電話口にでなかったことを棚の一番高い段に上げる。かつ、この後の修羅場を遠く脇へ押しやり、言って聞かせる意を固めた。

「あのさ、せっかく電話してきてくれてるんだからさ、なんか言ってあげた方がいいと思うよ。いくらバービーさんでもそのうち怒り出しちゃうよ」

 が、切り返すレフにスキはない。

「電話は俺が持たせた。何か起きてからでは遅い。仕事の前後、連絡を入れるよう指示を出している。今がそうだ」

「でっ。そ、そうなの?」

「だが通話も安心できるとは言えない。無駄なことは話さない」

 徹底している。思わざるを得なくなっていた。つまるところ色々対処できるのも罪だと痛感させらる。それほどまでに脅かされているのだと知れば、百々は気難しげなレフの顔を複雑な気持ちでただ見つめた。そして事態に、レフならなおさら神経質になって当然だと過ぎた事件もまた思い出す。

 テロで近しい人を失うなど、一度で十分だ。

「そっか」

 と、携帯電話は再び鳴る。

「おぉう、噂をすれば影」

 言うもレフは目もくれない。

「鳴ってるよ」

 これまたいらぬお世話で投げかけてみる。

「鳴ってるってば」

「放っていい。後で保健所の画像を送ると言っていた」

 瞬間、百々の杞憂こそ吹き飛んでいた。なにしろその画像、誰が四角四面のビルだけを写して送りつけるものか。湿気たレフの顔めがけ指を突きつける。

「ああっ、それバービーさんが映ってるんだよ」

 握りしめた拳を振りに振った。

「見たい、見たいっ! 今すぐ見たいっ! ほらほら、さっきのやつ実行だよ。白衣の天使みて忘れたフリ。ほら、素敵な彼女。目の保養。ラッキー! 充電。そしたら思い出せるって。だから今、見よう」

 あやし、そそのかす様こそ全力投球だ。だがレフは、費やした努力をたった一言で無にかえす。

「そうか」

 さすがに百々もむっ、と頬を膨らませた。どうにか気をとりなおせたのは埒があかないなら、と開きなおれたせいだ。

「えとこれ、どれがメールボタン? 日本のじゃないから分かりにくいよ。適当に押していい?」

 自ら携帯電話へ手を伸ばす。その指がボタンへ触れるか否かのところでレフに毟り取られていた。

 果てに食らう、ひと睨み。だとして目的が達成されるなら大したことではないだろう。むしろ笑って返す。目じりに捉えたレフの、指がついに並ぶボタンを二つ三つと押し込み始めた。

「好きなだけ見ろ」

 エサをくれてやるかのごとくだ。テーブルへと携帯電話を投げ出す。もろ手を挙げて百々は、そんな電話へ飛びついた。

「わーわー。ホントだ。アフリカだ。地面が赤いよ。空の色が違う。建物がすん、ごくボロい……」

 送信されてきた画像は十枚近くあるようだ。原色の布をまとったハートも顔負けの真っ黒い顔の人々や、黄色くくもった窓が衛生的とは程遠い保健所らしき建物に、地平線が横たわるだけの一枚等々、なかなかカルチャーショックな映像が送られていていた。経てようやくお会いしたばかりのブロンド美人は登場する。自分で自分を撮影したに違いない。百々なら間抜け面をさらしているだろう角度にもかかわらず残念の欠片もないバービーは現れて、わたしは元気でやっています、と言わんばかりの笑みをこちらへ向けていた。

「レフ。ほら、ほらってば。そっちよりこっちだよ」

 片手で写真を繰りつつ、手招く。

「ほら。さぁ、やっぱり美人のままだよ」

「どういう意味だ」

 しつこさにレフもついに渋々顔を上げていた。

 だというのに百々は、握った携帯電話を譲れなくなる。

 それは何とも言えない違和感だった。

 おかげで何度も瞬く。

 ままに確かめたのは最後の画像、数枚だった。行ったり来たりするうちに振っていた手も止まってしまう。

「どうした?」

 気づかぬはずもない。レフも投げかけていた。

「だってさ」

 百々は返す。何しろレフの曖昧な記憶とでは比べ物にならないのだ。それは百々にとってひどく鮮明な記憶だった。忘れもしない。いや、出来やしない出来事として残る最高で最低の一日。「20世紀CINEMA」で行われた「バスボム」試写会は、今でも一部始終を事細かに思い出すことが出来ていた。

 その日、スタンリー・ブラック監督は数名を引き連れ「20世紀CINEMA」へ現れると、彼女はその中にいた。送信された画像の中で赤毛の女性通訳は、あらぬ方向を見つめバービーの背後に写り込んでいる。

「あたし、この人知ってる」

 レフへ携帯電話を差し出した。言い出すのか、と言わんばかりそんな百々を何をレフは一瞥する。おっつけ画面をのぞきこんだ。

「榊の移送警護で知らないいだろうけどさ、あの日、ウチでバスボムの試写会があったじゃん。あの時、監督と一緒に日本人の友達と通訳さんと、ツアーコンダクターの人が来たんだよね。これ、その時の通訳の人だよ」

 バービーの左肩、壁を背に視線を逸らして立つ赤毛の彼女は、腰から上を画像におさめていた。顔も人を見分ける大きな手がかりだが、体型というものも案外、確かな判別基準といえよう。彼女とは幾つかやり取りを交わしたこともある百々だ。自信はあった。間違いない、と説明する。

「びっくりした。通訳で来たのかな」

「貸せ」

 言うよりも手の方が早い。レフは百々から携帯電話を奪い取る。あれほど後でいいと言っていた画像へ手早く目を通していった。

 のちに何をや考え込んでその目は重く沈みこみ、決断したかのようにレフはひとつ、ボタンを押し込む。耳へ携帯電話をあてがった。

 コールにバービーが出るまではまだしばらくかかりそうだ。待つレフの目は落ち着きがない。

「もしかして監督と一緒にいた、ってことだけで疑ってる?」

 読み取り百々は眉をひそめた。

「偶然だと信じる理由は何だ」

 薄い色の瞳は百々をとらえ、百々の耳に、ならこの仕事には向いていない、と言うハートの声は蘇ってくる。

「でもさ、監督の事務所から来てる専属の人だって聞いたよ。飲み物の手配、間違えた時も、監督、スタッフの手違いでしたって謝ってくれてたし」

 それが何の確証になるのか、言っていて自分でもよく分からない。

「そのことは知っている。襲撃と同日の来日は疑われていた。この女も事情聴取は受けているはずだ。資料を確かめれば出て来る。いいか、スタンリー・ブラックを解放できない理由は他にもある」

 そうして知らされた話はこうだ。

「スタンリー・ブラックの取り調べは一週間も行われていない。彼は今、精神科の患者だ。介護と監視がなければ生活ができない。おかげで取り調べは細部が不明なまま終了した。代わりに俺たちが奔走することになりアメリカでの滞在は長引いた」

 そこでひとつ、声のトーンは落とされていた。

「女が向こうでどう名乗っているのか確かめる。通訳以外なら」

 瞬間、電話はつながったらしい。レフは視線を跳ね上げていた。

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