第22話
直後にも決定したのはノルウェー行きだった。だが問題は、その準備が整うかどうかの方だろう。
スカンジナビア・イーグルスメンバーは、明日、朝九時二十五分発の機で送還される。同行するに越したことはなく、書類上のことだとしても手続きにオペレーターたちの慌ただしさは連続テロの事後処理に加え、直後より増すこととなる。
任せて百々たちも時間を惜しむと、台車を使って過去の事件ファイルを運び出し、三十冊余りのそれらをオペレーティングルームの傍ら、丸テーブルの上へと積み上げていった。
果たして新しく上がった名前、ジェット・ブラックがいつから支援者と、いわば SO WHAT とかかわりを持ち始めたのか。過去の案件から辿れはしないかと地道な作業は始められる。
さて、この作業に対する百々の気合いはといえば結構なものだろう。なぜならノルウェー行きの件に関して当然のことながら、百々ははずされていた。だとして言い渡された百々に移送車警護からはずされた時のような抗議はない。それもまた大事なチームを守る。階段室で追いかけ回されたあの時の言葉は印象深い。
「けっこう量、あるね」
「ぼくたちと SO WHAT のお付き合いの経歴ですね」
たたんだ台車を壁際にもたせ掛けたストラヴィンスキーが、いつもの笑みを浮かべる。その隣で曽我が、プリンターから吐き出されたばかりの生暖かい用紙をつまみ上げていた。
「やっぱり。SO WHAT に絡むだけのことはあるわね。欧州随一の麻薬組織、ジェット・ブラックは一帯で広域手配の指定を受けてる。向こうで資料が共有されているなら、こっちも入手可能かも」
用紙を指で弾くと足早にオペレーティングルームから出ていった。
「あっちの資料がそろうまでに、こっちはファイルへ目を通すぞ。時間がないからな。ちまちま見るな。要領よくやれ」
見送ったハートが椅子へ腰を落とす。
「イエッサー」
答えてストラヴィンスキーも腕まくりすると、レフもその真向かいからファイルを一冊、掴み上げた。並んで百々も山の中からよっこいせ、で適当なものを引き寄せる。
「あたし、こういうのが苦手だから捜査職を希望したんだけれど」
こぼしたのはそんな百々とストラヴンキスキーの間で長い髪をまとめたハナだ。
「えー、そうなんですか」
ラスベガスの一件で慣れた百々にとっては、意外でもあった。
「言うな。外回りのヤツはたいがいがそうだ」
えい、と言わんばかりにファイルを開いたハナをハートはいさめる。なるほど証明して直後より、誰もの間に沈黙は訪れた。
「そういえばお前はこの後、射撃研修でマンターゲットでもやるのか」
破り、投げたのはハートだ。言わんとしていることは百々にも、すぐにレフのTシャツだと知れる。
「着替えようと思えば袋にこれしか入っていなかっただけだ。俺が選んだわけじゃない」
返すレフへ、ふーん、と百々は鼻を鳴らした。鳴らして誰が選んだのか、過ったところで、どちらがついでかファイルの添付写真ごしにレフを盗み見るハートが言うのを耳にする。
「昨日、ここまで来たらしいな。この色付き男が。これで少しは命が惜しくなったか」
「あ、バービーさんだ……」
などとその情報がもれるとした、らひとところしかないだろう。資料を読んでいたレフの目はすぐさまストラヴィンスキーへと裏返される。だとして手を振り返すストラヴィンスキーはツワモノだった。
「へー。新品そうなのにサイズぴったり。すごいね。あたし、タドコロの足の長さなんて知らないよ」
無論、言う百々に悪意はない。
「退院する時、タキシードしかないと言えば、買ってくると言い出した。俺がその時、教えている」
弁解するレフの口調はいつになく早い。続けさまハートへも放ってみせた。
「あんたこそ四人目が生まれたんだろう。命が惜しいなら職場を変えた方がいいんじゃないのか」
「よっ、四人目っ?」
思わず百々は伸び上がる。
「そうだ! これがアメリカから帰れば一人、増えていた!」
「えー、すごーい! 知りませんでしたぁっ。遅くなっちゃいましたけど、おめでとうございまーすっ」
なんのなんの、と浮かべるハートの笑みは、これまで見たことのないものだ。眺めて百々は手を叩き、お決まりの台詞もまたそこで投げていた。
「で、男の子なんですか? 女の子なんですか?」
「男だ」
胸を張るハートは誇らしげである。
「これが俺に似て可愛い!」
いや、似ていたら可愛くないのでは。
「一番上が十歳かしら。男、男、女。みんなハートのミニチュアみたいで、お人形さんみたいなのよ」
ハナに教えられるまま想像すれば、なぜだか全員がタンクトップだ。
「へ、へぇ。会ってみたいなぁっ」
それこそ真実を確かめるために。
「ガキはいいぞ。仕事に張り合いが出る!」
ともあれ謳うハートの声は高い。頭上に浮かぶ我が子へバイバイすると、心置きなくレフへこうも放った。
「お前も早く作れ」
そのあと続く豪快な笑いに遠慮はない。乗じてストラヴィンスキーも向かいで人差し指を立てる。
「式の日取りが決まったら、早めに教えておいてくださいよ。余興のジャグリング、練習しておきたいので」
「でもレフの友人って、きっとあたしのタイプじゃなさそうなのよねぇ」
空を仰いでハナも思案してみせた。目にして百々は吹きだしそうになり、ままにレフへと振り返る。
「だって。楽しみだ……」
だが死んでも「ね」とは言い切れなくなる。目にしたレフの横顔に急速冷凍。縮み上がると、ひたすら資料へかじりついた。直後、レフの手元で乱暴と資料のページがめくられたなら、かみ殺したような笑いは方々からもれ出す。かしこまったように途絶えたところで今度こそ沈黙は訪れていた。おかげで作業効率が向上したところで何ら有益な情報は上がってこず、正午は近づき、やがて腹の虫だけが景気よさげと騒ぎ始める。
「来たわよ!」
声はそこで投げ込まれていた。曽我だ。オペレーションルームへ戻ってきたその手には一枚の紙が握られており、言葉より先、半分ほどに減ったファイルの山へと叩きつけた。誰もが腰を浮き上がらせる。写る異国の風景をのぞき込んでいった。目にした最初の印象は、デコラティブな窓の埋め込まれたアパートがカラフルで可愛らしい、だろうか。電線のない空も印象的で、そんな紙面を奥へ伸びる街並みはひどく間延びして見えた。それはのどかを通り越すと見る者へ侘しさを訴えかけるほどで、カラフルだった窓も急に空騒ぎへと変わる。街並み沿いに生える街路樹、その一本、一本へ孤独感すらまといつかせた。なるほどそれもこれも季節が冬だからか。石畳の隅に積もる雪が確認できる。曖昧なわけは、そのどれにもピントが合っていないからだった。くっきりと、全てから浮きあがって背にした人物だけが歩いている。
「その男がジェット・ブラック」
決定づけて曽我は言った。
寄り集まった頭は揺れて、もう半歩、輪を縮める。ただレフだけが、そこから抜けて曽我へ振り返っていた。
「組織の名前じゃないのか?」
「これは第一便。詳しい資料は追って転送されてくる。けれど概要によれば組織は北欧を中心に長いあいだ活動を続けていて、組織の呼び名も何度か変わっている。名前は、そのとき中心にいる人物の名前で呼ばれているそうよ。つまりジェット・ブラックという名前は今、仕切るこの男の名前であり同時に組織の名前ってこと」
「北欧系か。お前より白い野郎だな」
ハートがふん、と鼻を鳴らしていた。確かに面持ちは明らかなゲルマン民族で、色も彫の深さも髪の長さでさえ神話の世界のそれだ。
「今どきの若造か。気に食わん顔だな。何を考えているのかが読めん」
言って、なんら返してこないレフを一瞥した。レフに答える様子がなかったなら、つまらん奴だと話を切り上げ時計を仰ぐ。
「なんだもう一時を過ぎているのか」
昼飯が先だ、とそれきりハートはテーブルを離れていった。情報漏えいのせいだ。見て取り、割引中華が望めないストラヴィンスキーもキリがいいので、と追いかけてゆく。見送ればそもそも苦手な作業をそうも頑張る気にはなれないらしい。ハナも束ねていた髪をほどくと立ち上がっていた。
「じゃ、わたしも」
だがそのどれにもレフは反応しない。気づけばテーブルには百々とレフ、そして曽我だけが残っていた。その中、ようやく動いたレフの手は、ファイルの上から写真をつまみあげる。
「借りてもいいか?」
眺めながら曽我へ確めた。
「構わないけれど。どうして?」
だが食い入るように写真を見つめるレフには聞こえていない様子だ。
「食うなら先に行って来い。俺はまだしばらく残る」
ただ百々を促した。横顔はそれこそテコでも動きそうになく、素直に百々も読みさしの資料を伏せる。
「なにか食堂から持って来てあげようか?」
問いかけるがそれもまた、レフには届いていないようだった。
揚げ出し豆腐、キノコあんかけ丼。
百々の選んだ昼食だ。
ペロリたいらげ、先行くハートらに連なり通路へ出る。たいして行くあてもないオフィスならその後、三人は再びオペレーティングルームへ戻る者、気分転換、地上へ出る者と道を違えた。百々も借りたままの仮眠室へと足を向ける。何しろ朝のミーティングから流れはノンストップで、ついぞ機会を逃していた。だからしてこれ以上、放ってはおけまい。「揚げ出し豆腐キノコあんかけ丼」を頬張りながらようやく田所に連絡を入れる決心もつけたところであった。
ドアを開け、机に投げ出したままのセカンドバックへ目をやる。なぜかしら深呼吸して取り出した携帯電話の電池は、もうずいぶん消耗してしまっていた。確かめたところありえない数の着信件数は昨日きりのようで、一件のみ田所からの留守録だけが追加されている。
胸にあるはずの鼓動はいつからか鼓膜の内側で鳴っていた。
聞きながら百々は留守録の再生を試みる。
昨日と違い、しばし流れる無音に果たして田所はいつ話し出すのか。息を飲んだところでうって変わってひどく落ち着いた声を耳にしていた。
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