第20話

「わ、でっ。開けるならノック、ノックがなぁいっ!」

 喚いて当然だ。だがレフは一点を睨みつけたままズカズカ部屋へ入ってくる。そこに友好的だとか穏便だとか、穏やかな雰囲気は一切なかった。だいたい断りもなく入って来た地点でそんなものが望めるはずもない。

「たっ! てっ。あのっ。晩御飯だったら次、次っ、必ずいただきますぅ」

 ままに後じされば、空いたベッドの端へレフは腰を落とした。苛立ちを隠せない仕草で前屈みになると、両膝の間で手を組み合わせる。何事かを押し殺し吐いた息は大げさで、ひねった頭で今さらのように百々を睨みつけもした。その面持ちはだいぶ慣れたつもりでもやはり怖い。なら恐れおののく百々の前でレフは言う。

「食う気になれないが疲れのせいなら、なおさら消耗した証拠だ。気分でなおざりにするな。何か口へ入れておけ」

 説教か。

 瞬間、百々の口こそポカンと開いていた。

「でなければ必ず途中でくたばる。いや、くたばったヤツは食っていなかった。俺は本土でそういうヤツを見てきている」

「て……、て言われても」

 本土と言えば消防士の頃だろう。一緒にされて百々は言いかけ、遮るレフにいいか、とかぶせられていた。

「脳の低血糖状態は気づかないうちに集中力と判断力を鈍らせる。つまらないミスの原因だ。だが気づいた時にはもう遅い。そのミスには人の命がかかっている場合もある。神経質になり過ぎることはよくない。だが今はそういう局面だと覚えておけ」

 言わんとしていることは、ようやくそこで百々にも伝わってくる。開いていた口を閉じていた。それ以上、結んで百々は尖らせる。

「あたしだけの問題じゃないってことは、分かってます……」

 おかげで響きは不満げとならざるを得ず、不満げな響きは裏腹に、全く分かっていないという事実だけを浮きぼりにしていった。だからだろう、前へ向き直ったレフはなおさらむっとした様子で微動だにしなくなる。感じ取って百々もベッドから足をおろすと座り直していた。

「けど今は個人的に、食べたくない。レフはそうじゃないかもしれないけどさ、いろいろショックだよ。気持ちの整理がつかなくなった。誰かに殺されそうになるなんてさ、そんなこと考えてる人がいるってさ、ここに詰めてる人はみんなそうかもしれないけど、あたしは、あたしには結構ショックだよ。案外、へこむ。食欲、わかない。無理やり食べたらなんか……、吐きそう」

 言葉にむしろ喉を詰まらせる。振り切り百々はレフへと顔を上げていた。

「言ってることは分かる。けど、そういうのまだムリだよ。明日はちゃんと食べるからさ、今日はもう寝る。寝てちょっと忘れる」

 部屋のドアはレフが入ったきり半分開いたままだ。聞きながら睨むレフは隣でただ手を組み変えていた。何ごとかを言うべく口を動かしかけ、迷った挙句に噛み潰す。代わりに握り続けていた手をほどいた。

 つまり立ち上がるのかと百々が横目に捉えたその時だ。のけぞるようにしてぐい、とほどいた手を後方へ伸ばす。そこに枕は転がっており、掴んで百々へ投げつけた。そんな枕はソバ殻か。のしかかるように百々の頭へ潰れて張りつく。ぼとり、落ちたところで食らった百々こそ無反応なら、これがどうにもしまり悪かった。

「ぼうっとするな」

 耐えかねたレフがこぼす。

「早く投げ返せ。ここにはそれしか枕がない」

 否や、弾かれ百々はレフを見ていた。

 不本意だと言わんばかり、そこでレフはじっと反撃を待っている。そうして向けた横顔で、かつて百々が込めた思いを見せつけていた。それくらい笑い飛ばせと。教えたのはお前だろうと。だからして食うために付き合ってやる、と語っていた。いつもの仏頂面で仕方なく、とも添えて。

 一言、多いよ。

 見つめるほど結んだきりの唇が震えだす。

 泣いてはだめだ。

 思うほど百々の両目へ熱はこみ上げ、隠して咄嗟にうつむいていた。だが隠そうとすればするほど止まらず、そんな己がどうにも憎たらしくて、腹立たしいから情けなくもあり、どうしてなんだと思えばヤケクソ紛れだった。百々は枕を拾い上げる。ああ、殴られたいならそうしてやる。思いの全てをぶつけて振り上げた。レフへこれでもか、と叩きつける。

 そう、投げたりなんかしない。

 握ったきりでフルスイングだ。

 どすこい、レフをブン殴った。

 そら一発で気がすむような状況じゃない。

 吹っ切れたかのごとく立ち上がって滅多打つ。想定外の強襲に身を丸めたレフが何事かを呻こうが、挙句「ゲームが違うぞ」と訴えようが、誘ったのはそっちの方だ。しかもデカいうえに頑丈ときている。溜めに溜めた不条理をぶつけた。力の限りに右から左から、滅多打ちと殴り倒した。

 その激しさにやがて息が切れ、握力の失せた手から枕が飛び、振り回す両手が空を切る。そうしてなくした手応えが張り詰めていた気持ちに穴を開けた様子だ。うまくつながらないでいた感情はそこでようやくつながると、ついに喉を越えて押し寄せてきた感情のまま百々は力が抜けたように座り込む。天を仰ぐと泣き声を上げた。その顔がたとえ雨に打たれた鬼瓦と化そうが、人目もはばからず声を上げて泣く。うぉう、うぉう、と泣きに泣いた。

 レフもたじろぐその顔でひとしきりを終えるまでいくばくか。

 やがてぎゅう、と噛んだ唇で口を結んでいた。

「……ぐふぃ。ず、ぐぅ」

 そのさい妙な音がもれるも致し方なしだろう。

「す、少しは気がすんだか」

 殴り倒され、毛の三本も跳ね上げたレフが恐る恐ると確かめる。

「ず、ずっぎり、じだ」

「そ、そうか」

「……ず、ずっぎり、じだら、お、おながずいでぎだ」

 宙を睨んで百々は返し、悪びれることなく言って豪快に鼻をすすり上げる。なら見ないフリだ。レフもひねった手首の時間を読んだ。

「十時半だ」

「海鮮、焼きぞば、食べる。キクラゲ、すき、だぁ、もん」

 嗚咽の合間から言うそれは言葉じゃあない。が、このさいどうだっていいだろう。関わることなく携帯電話を抜き出しレフも、あと十五分でつくと店へ詫びを入れている。

「ジャズミン、ティー。マンゴー、プリン。プリン、プリン、食べる」

 何のコンビネーションか、聞きながらいそいそ立ち上がると脱ぎ散らかしたパンプスを探す百々の挙動はそら恐ろしく、果てに店へ向かう準備は整っていた。

 在りし日のごとく駆け込んだ店内、店主は嫌な顔一つ見せず待ち時間なしで料理を出すと、むしろ三日と来なければ心配するやもしれない面持ちで帰り際には百々へゴマ団子を握らせてくれている。

 腹は重いが先ほどまでが嘘のように体は軽かった。己が単純、お気楽でよかったと百々は心底、感謝する。ついで改め、レフへ至って丁重に有難うございましたと頭を下げた。

 そのさい返したレフの返事は曖昧で「む」だか「ん」だかよく分からない。だが早く忘れたい素振りこそあれ、滅多打ったことを根に持つ様子こそなさそうだった。

 そんなレフと地下駐車場のエレベータ前で別れる。

 鼻歌交じりで降りたオフィスに人気はなかったが、そっけなく感じられることこそなかった。

 仮眠室のドアを開き、百々は今度こそしっかり鍵をかける。シャワーを浴び、誰の使い残しかシャンプーを失敬して髪も洗った。さっぱり爽快、バスタオルを巻きつけ、表の自動販売機で買ったペットボトルで喉を潤す。落ち着いたところでそうだった、とセカンドバックへ手を伸ばした。

 携帯電話の確認はバービーの出現と花火大会の一件でなおざりのままだ。自宅は事後承諾の方がいいにしても「20世紀CINEMA」へは休む事を伝えておかなければならないだろう。事務所へ連絡をいれるべく液晶をのぞく。

 瞬間、驚かされていた。

「へ?」

 何しろ着信履歴にはメールが五十件。通話が二十八件。留守録が三件も溜まっているのである。無論、日頃、百々にそれほどまで連絡が入ることはない。恐れおののき目を通せば、そこに田所俊の名前に名前は連なっていた。

「なっ、何?」

 とにもかくにも留守録だ。再生させた携帯電話を耳へあてがう。なら田所の声は息せき切って再生されていた。

「百々、お前、今、どこにいんだよ! 俺、お前がテレビに映ってんの見たぞ。あれ、どういうことだよ! っていうかなんでずっと出ないわけ。出られないような理由があるわけ。あのさ……言っとくけどな。枕投げとか俺は、俺はっ、絶対許さないからなぁっ! 死んでも許さないからなぁっ! とにかく早く連絡しろぉっ!」

 言い放つだけ言い放つって録音は切れていた。余韻すらない。

 ただ百々は脳天の毛を逆立てる。ついで完全にこと切れると気づけば頭からだ。携帯電話片手にベッドへ突き刺さっていた。その脳裏に滔々と流れるのは、どうして田所があの一瞬を目撃していたのか。なぜ枕投げの事を知っているのか。これで明日、シフトに穴を空けたなら一体どうなってしまうのか、の三点だ。

 先ほどまでの至福感はどこへやら。だがその三点に関してはどうにもなりそうになくただ絞り出す。

「さっ、最悪らぁ……」

 まさにそれは怒涛の一日に相応しい締めくくりと、違う意味で百々を深く静かに眠らせていった。

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