第19話 case9# BLACK & WHITE

 砂浜へ呼び出されたのは「写真の二人」だった。つまりこの件で百々も報復対象であることが決定的となる。

 もちろん自宅へ戻れば警護がつき、傍らには殺しても死にそうにない用心棒がいることは理解していた。だがどう考えても家で何食わぬ顔をし続けるなどと、ましてや「20世紀CINEMA」でいつも通りに立ち居振る舞うなどとできそうもない。

 もう煙幕臭かろうがシワだらけの上に砂まみれだろうが、クリームイエローのワンピースを着続けることに抵抗はなくなっていた。百々は帰りの車内、オフィスの仮眠室を借りたい、と百合草へ申し出てさえいる。

 聞きいれた百合草にどういう反応はなかった。当然だ。職員へ戻らなかった場合、緊急時は自宅を離れる可能性があり、その期間については約束ができないとすでに百々へと説明している。想定内に違いなかった。

 決まるまでレフは当初の目的通り、ワゴンを百々の自宅へ向け走らせている。行き先が変更されてからは「20世紀CINEMA」最寄り駅のコインロッカーから紙袋を回収すると、オフィスへ向かいハンドルを切った。道中、そんな互いに余談はない。普段から百々が話しかけなければまったくと言っていいほど無駄口はないのだから、百々にその余裕がない今、状況は徹底していた。

 だが何がどうであろうと時間が経てばワゴンは駐車場へ到着し、互いに無表情のままオフィスへ下りる。足を踏み入れたオフィスは何が起きようと整然としたもので、強いて言うなら夜勤体制に入った今、今日も終わりが近づいていることを表している程度だった。

 ふさわしく時刻はすでに二十一時半。

 ハナは海水浴場の件で署へ詰めており、ストラヴィンスキーにハートも増えた仕事に姿はない。ゆえに誰に会う事もなく百合草への報告をすませ、代わりに百合草から明日、朝八時にミーティングがあることを聞かされると百々は、曽我から仮眠室のキーを受け取っている。

「すみません。急に言い出して」

 当然なのか己が情けないのか、ごちゃまぜの気持ちだ。曽我へと頭を下げた。

「気にすることじゃないわよ。ただしルームキーパーはいないから出る時は清掃をお願いしてるわ。シーツなんかの洗い物は午前中に廊下へ。食堂職員が回収する段取りになっているから、よろしくお願いね」

「はい、わかりました」

 返してキーにぶら下げられたタグの部屋番号を確認すれば、何の因果か部屋は倒したクレーンの反省文を書かされたあの部屋だ。

「本件の報告書はミーティングで預かる。それまでに用意しておけ。以上だ」

 前で百合草が締めくくる。やおら緩めたネクタイで、花火会場は不発で何よりだったとこぼしてみせた。ならその言葉は百合草にこそ必要そうで、ご苦労だった、と付け加えられてレフと共に部屋を出る。

 その足で報告書原本のコピーをとった。

 手に百々は、仮眠室の前でレフと別れる。

 あれから数か月。仮眠室に窓がないことはすでに知る事実だ。だが変わらず臭がこもっていないことは有難く、中央に置かれた机へ鍵と書類、振り回し続けたセカンドバックを投げ出した。どすん、とベッドへ腰を落とす。棒切れよろしく百々はベッドへ倒れ込んだ。

 どこかがジンジン痺れているようで気分も気持ちも判然としない。ままにただ両目を閉じた。痺れのせいか疲れのせいか、それとも不安が見えないほど大きいからか。急に心もとなさが、いや淋しさか、胸へとこみ上げてきて、耐えかねてぎゅう、と百々はヒザを引き寄せる。抱えて小さく丸まった。

 部屋には今もテレビが変わらぬ位置に置かれ、鏡は閉めれば蛇口がキュッキュと音を立てそうな旧式の洗面台に一枚貼り付けられている。傍らの吊り棚には見るからに使い古されて固そうな、それでいて洗濯だけは行き届いた真っ白なタオルが積みあげられており、シャワーブースはその隣、電話ボックスよろしく蛇腹の扉を閉め切っていた。

 眺めて百々は田所の声が聞きたいな、と思う。

 思い出す顔に泣きたいのかも、と気づいて引き寄せた両足をいそいそスカートの中へ潜り込ませていった。だが今すぐ会えやしないなら、スカートで包み込んだ足を引き寄せいっそう小さくなってみる。息を殺すと点になるまで縮こまっていった。

 だが困ったことにそれ以上、うまく悲しくなれない。悲しくなるには何か、どこかが足りないようで、詰めた息と湧き上がってくるモノはひたすら喉の奥でせめぎ合い続けた。つかない決着に息苦しさだけが増して、ついに「うー」と声をもらす。

 駄目だ。思い起き上がっていた。こんな時はとっととシャワーを浴びて寝るに限る。動き出すがすぐにも投げ出された報告書に気いて思いとどまる。伸ばした手は義務感からのみ。触れるかどうかというところでノックの音に顔を上げていた。

 誰だろう。

 思うからこそ身なりを一度、確認する。百々はそうっとドアを引き開けていった。

「晩飯だ。今から食いに行くぞ」

 レフだ。見下ろす顔はそこにあった。おかげで百々が思い出せたのは、砂浜でそんな話をしたっけ、ということだ。だがすっかり忘れていたほどに空腹感は欠片もない。

「あ、でも、ほらもう十時だよ。行ってもお店、間に合わなくない?」

 だからして遠回しに断ってみる。だが返すレフのそれこそが、時間を置いてのち声をかけに来たカラクリだった。

「今、電話を入れた。行くまで開けて待っている」

「ええっ。っていうか、そこまでして割り引いてもらうの心苦しいんですけど」

 訴えたところで気にするな、とレフは言う。

「あの店の地上げ屋を追い払ったのは俺だ。色々融通が利く」

「な、何やってんですかっ?」

 どうやらそれが永久クーポンのいきさつらしい。

「何でもお前には関係ない。いいか、融通は利くが待たせるのは悪い」

 否定はできなかった。だったらなおさら早めに決着をつけるべきだと思えてならなくなる。

「ほんとは……」

 百々はおずおず口を開いていた。

「あんまり食欲ない。残したらマスターに悪いし、遠慮しとく」

 しかしそれだけでは後味が悪いことこのうえないだろう。

「何を食べたのか明日、チェックを入れる。覚えておくように」

 百合草の口調を真似てレフへ笑いかけた。だが笑みは浅すぎ、それ以上もちそうにない。おやすみ、と同時だ。百々はドアを引き寄せ閉めた。笑みは案の定、タイムリミットとそこで途切れる。なけなしの気力もついに干上がり、書類を片付ける決意もどこへやらだ。どうでもいい、と抱きつくようにベッドへ向かいダイブした。

「らめら。うん。明日、怒られよう。その方が健康にいいよ」

 振った足でパンプスを脱ぎ散らす。おさまりのいい場所を探して体をくねらせ、見つけたカタチに深く大きく息を吸い込んだ。

 ところでドアは勢いよく開く。

「ぎゃ」

 段取りに施錠が欠けていたことは言うまでもない。尻尾を踏まれた猫だ。百々は跳ね上がっていた。そうして追い返したはずのレフが立っているのをドア前に見つける。

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