第18話
なだらかにカーブする海岸線の彼方に昼間、激走した港湾施設はひしめいていた。その延長線上に海水浴場前は、ガラリと様子を違えて広がっている。
現在時刻、十八時四十五分。
車内で聞かされたハナの話には続きがあった。SO WHAT は指名した百々とレフの二人を広い花火大会会場内も観覧エリアの一角、砂浜へよこせと要求しているらしい。SO WHAT の目印は傘だそうだ。無論、それがパラソルなのか雨傘なのかは不明である。だが現状、日も暮れ雨も降っていないなら、目立つアイテムであることに違いはなかった。
そうして到着した新設駅周辺は先が見通せぬほどの人であふれかえっている。屋台がひしめき、イカとトウモロコシの甘く香ばしい香りを漂わせていた。並ぶりんご飴は宝石がごとく輝くと、袋にアニメキャラクターがプリントされた綿菓子も風に揺れている。焼き上がった鈴形のカステラは山積みとなり、小腹がすいた時にちょうどのお好み焼きと焼きそばは鉄板の上でこってり油をたぎらせていた。かと思えばお共のビールに炭酸水も、保冷庫の中で氷と静かに戯れている。
言うまでもなくワゴンは侵入を阻まれ、駅の手前で乗り捨てていた。砂浜までの移動は今、それら屋台の間をすり抜ける徒歩に切り変わっている。
紛れて歩くレフの足はしかしながら、ワゴンを降りてからひと時も止まっていない。一つ飛び出した頭で終始、目立つだろう傘を探し続けていた。
たとえば花火の打ち上げに間に合わなかった場合、逆に定刻に間に合った場合、そこで何が起こるのかを女性ライダーは語っていない。そしてそれが言わずもがなの話であるなら、広すぎる現場の緊急配備と格闘しつつ百合草が警戒を促したのは今回もまた支給されている可能性の高い手榴弾についてだ。
「傘を発見次第、報告。こちらから許可するまでそれ以上は近づくな。確保は署員の態勢が整ったのち、一斉に行う」
「相手は俺たちの顔を知っている。向こうから接触してきた場合は?」
間髪入れぬレフの問いは的を射ている。
「状況が許す限り時間を稼げ」
砂浜へ散開した署員の声がハナを含め、監視体制に入ったことを知らせていた。レフもまた了解、と低く返し、百々もその背で小さくうなずく。
果てにすり抜けた続けた群衆の間に、潮の香りは漂い始めた。準じて黒い人波の向こうに屋台の切れ目はのぞき、見定め鼻を突き上げた百々の目に一番星は光る。頭上に広がる空は今や一切の赤みを消し去ると、濃紺の先を透明な闇に浸していた。
「傘は見えない」
砂浜への入口だ。途切れた屋台の向こうに低い石垣は現れ、目指すレフがマイクへ吹き込む。
「ビーチへ出る」
全員と言ってもいい数が砂浜を目指していたなら、辺りの混雑はさらに酷くなり、ふいに足裏へと柔らかな起伏はあてがわれていた。騒がしかった靴音はそれをさかいに消え去ると、踏みしめるたび手ごたえのない砂の音だけがこもり辺りを満たしてゆく。
「周辺署員からの目撃情報はなし」
オペレーターが伝えていた。
波の音は直後から聞こえだす。誘われて石垣を越えた人々は、味わう解放感のままに砂浜一面に散っていった。
「十八時五十二分。ビーチに到着」
歩き続けた足をレフが止める。持ち上げた袖口の時刻を読み、その目は目立ってもらわなければ困る傘を探して辺りを見回した。百々も海風にワンピースをなびかせ視線を巡らせるが、薄闇と人ごみのせいで見通しは悪く、一刻も早く見つけたいが見たくもないシルエットこそ視界に入ってこない。
「港湾施設方面へ移動する」
オフィスへとも百々へとも区別のつかぬ調子で告げたレフが動きだす。見逃してやしないか。視線を残しつつ百々も追いかけ砂を踏みしめた。
「さっきからずっと胃が痛いけど、なんでだろ」
黙っていられず言ってみる。
「気にするな。ストレスだ」
言い分はもっともだが、認めればそれこそストレスに負けてしまいそうでならなかった。
「おなか、すいてきたせいかもしんない」
鼻先に、百々はかいくぐって来たばかりの匂いを蘇らせる。
「焼きそば、おいしそうだったよ」
「十時までならチャイニーズが開いている。屋台のソバより、あの店のソバの方が美味い」
「じゃ、レフが行くならついてこ」
まったくもってデカいクーポン券だ。
「ホント、好きだよね。あそこ」
嫌味でもなんでもなく、言っていた。
「習慣だ。気が休まる」
そっけないが、それは真実だろう。
花火の打ち上げは沖に設置されたイカダからだと聞かされている。しこうして波打ち際には沖を見つめるカップルやレジャーシートを広げた家族、じっとしていられない友人たちの輪に、仲睦まじい老夫婦やスーツ姿で缶ビールをあおるサラリーマンが長い帯を作っていた。肩車で闊歩する親子は新種の恐竜を思わせ、携帯電話を片手に話し込む横顔は話題を想像させて止まない。車椅子の観客もまた混じっていたなら乗り入れは大変だったろうに、そうまでして見たい花火をいまや遅しと待ちわび付き添いの男性と何やら話し込んでいた。
言うまでもなくそこにいる誰もが何も知らされていない。ちょうど昨日までの百々がそうだったように、今宵、花火に酔いしれ、帰り、また明日、同じ顔ぶれの中で過ごすことを信じている。いやその通り、単調なその流れを盲目に信じることで人は明日に見通しをつけ、安心を得ていた。だがそうすることが必要とされているように、どれほど日々を寸分たがわず繰り返し実績を積み上げたところで同じようにやって来ないのが「いつもの明日」に違いなかった。失ったばかりだからこそ、つくづく百々は思い知る。
なら「日常」とは住まう街が象徴するように、徹頭徹尾、人工物だと思わずにおれなくなる。違わず繰り返されはしない日々を、「平穏」で加工した人工物に違いなかった。そうもデザインされた「日常」はだからしてもはやイメージに近く、証拠に個別のあの日を手繰るよりも、幾日かをひとつに曖昧と思い描いてしまう。おかげで未来を描くこともたやすく、駆使することで日常がどれほど危ういものだろうと、追いつかれることなく「明日」もまた創造され続けてきた。
その、めくるめく追いかけっこ。
明日を創るための、
今日という日。
そのイメージ。
夢想する、
ぼむ。
その時、こもった音は百々の背から聞こえてくる。
足を止めていた。
聞こえていたらしい。レフもまたスイッチが切れたように立ち止まる。
共に抱く予感は、音が連想させたものだ。
確かめ、そっと振り返っていた。声を掛けるに少々距離のある位置、そこに黒い雨傘は開いていた。
百々の口から心臓が飛び出しそうになる。
「入口から港湾施設方面へ約二十メートル。傘を発見。今、開いた」
レフの口は同じ口でもマイクへそう告げていた。
「目視確認、願います」
オペレーターが散開中の署員を促し、周囲が一斉に動きだす。いや見えずとも気配は肌で感じ取れていた。
その慌てぶりを楽しむかのようにクルクルと、傘は握る何某の背を隠して回り始める。
「色は黒。観客後方。綿パンツ。色は暗くてよく分からない。白っぽい感じだ。立ったままで海を見ている」
睨みつけ、淀むことなくレフは状況を言語化してゆく。そこでふいと言葉を詰まらせた。
「車椅子か?」
確かに暗がりが人と人の輪郭をぼやけさせ、往来も邪魔で仕方ない。レフは自らへ問いかけやがて、確信をもって続きをこう言いなおした。
「車椅子だ。一緒にいる。傘と車椅子だ。それ以外は傘に遮られて見えない」
「こちらに気づいている様子は?」
確かめる百合草の口調こそ鋭かった。
見極めるレフは両眼を窪ませ、しかしながら傘が開いたタイミングはこちらを振り向かせるためのものだったのか、ただの偶然なのか、後ろ姿からでは判断できない。
「分からない」
だとしても百合草の指示は素早かった。
「待機。態勢が整い次第、職質をかける」
耳に、レフは腕時計へ視線を落とす。
十八時五十五分。
砂浜にはもう誰の影も落ちていなかった。海の延長がごとく辺りはブルーグレーの薄闇に満たされている。
と、陽気に回転していた傘の動きはそこで止まった。漂う緊張感は意識し合うものだからこそ伝播して止まず、傘を乗せた背は捻じれてそうっと、覆いかぶさる傘の影からフードをかぶった横顔をのぞかせる。往来がその姿を遮ろうとも、目じりに宿る邪な光だけはかき消されることがなかった。それきり車椅子に座る何某へ話しかけて、ゆっくり腰を折ってゆく。
気づかれてたんだよ。
思うが声は出せなかった。百々はレフのジャケットをただ引っ張る。なら発見時あれほど早かったレフの手は、どこか観念したように緩慢とマイクへ伸ばされていった。
「いや」
自らの報告へ訂正をかける。
「今、振り返った。気付かれている。奴らがそうだ」
おっつけイヤホンの向こうから目視確認を知らせる署員らの声が流れた。
どうするのか。百々は咄嗟にレフを見上げる。一息吐いたレフもまた、そんな百々を見下ろしていた。表情はとてつもなく険しい。だが状況に比例していたなら百々に恐いなどとは思えなかった。
そんなレフが前へ向きなおる。
「接触する」
辛うじて整った段取りに、今回こそ待ての声はかからなかった。
近付き歩き出せば傘も閉じられて、介助者は波打ち際へ車椅子を押し出し始める。少々強引な行軍に座り込んでいた前方の観客たちが尻をすって道をあけ、砂に車輪が埋まったところで車椅子は動きを止めた。
レフがその斜め後ろで歩みを止める。百々も並べば、肩先へアゴ先を埋めるように振り返った介助者の横顔を目にしていた。
「この時間帯に黒い傘は見逃しかねない」
投げたのはレフだ。目は爆発物を、不審物を探してそんな介助者の全身から車椅子までをくまなく見回している。
「にちぼつは、じゅうくじじゅうごふんです。やみにからすは、そのあとですよ」
しかしながら聞こえた声は、介助者のものではなかった。車椅子だ。証明して人差し指と中指に挟まれた写真は一枚、車椅子からの向こうから宙に晒される。「ベガスビッグビューイング」の決定的瞬間は、花火を待つ人の背に重ねられていた。
「まにあわないかと、おもいましたよ」
目にしてわずかにレフの眉間が詰まる。
「なら仲間にもう少し早く教えるよう言っておくべきだ」
「だったらいろいろ、じゅんびするじゃないですか。ぼくたちだって、すこしはたいとうにやりたいんです」
それきり写真は引き戻されると、乱雑に破られ砂へとバラまかれた。せいせいしたと言わんばかり、その手が車椅子の車輪を握りしめる。込められた力を察して介助者も手を貸せば、車椅子は砂の上で百八十度と向きを変えていった。年齢は十代中頃か。黒目がちな瞳が印象的な少年はそこに腰掛けていた。少なからずその人物像に意表を突かれる。おかげで釘付けとなったことは否めず、しかしながら季節にそぐわずしっかりかけられた分厚いひざ掛けには何をさておき警戒すべきだったろう。
「おかげで、こうしょうするじかんは、なくなったみたいです」
被害を大きくするなら、ほどなく観客が集まりきった花火の打ち上げ開始時刻もはずせなかった。セオリー通りと少年は暑いからでもなんでもなく、そのひざ掛けをひと思いと引き剥がす。細い胴へ巻き付けられたごついベルトを二人の前に晒してみせた。そのベルトにはクリーム色をした粘土の塊が三つ並んで貼り付けられている。傍らにはデジタル時計も添えられると、すでに「3」を灯していた。
音もなく表示が「2」へ切り変わったときだ。少年は「全ての娯楽に粛清を」と叫び、きびすを返したレフが「C4」と知らせて「伏せろ」と周囲へ怒鳴りつけた。
騒ぎに振り返った人々が刺すような視線を投げている。
浴びて百々もあとじさった。
桜色のシャツはそんな百々の視界に広がり、直後、感じた痛いとか、重いとか、砂を食わされたとか、悲喜こもごもを追い越して炸裂音は鳴り響く。
観客の間からわあっ、と声は上がっていた。
讃えて拍手が吹き上がる。
時刻は七時。
濃紺の空にエメラルドグリーンの花は大きく開いて、誰もの瞳を輝かせていた。続けさま赤く大玉も打ち上げられたなら、それでも規則正しく呼吸を繰り返す少年の腹を明々と照らし出す。
「う、うそだ」
目が覚めたように介助者が動き出していた。車椅子を砂の中から引き上げようと奮闘するが思うようにゆきはしない。
スキに署員が、ハナが、頭上に咲き乱れる花火をかいくぐり駆け込んできた。砂を蹴散らし次々二人へ飛びかかってゆく。引き千切り、引き千切られるような抵抗と格闘には罵声と呼べるものがまるでなく、ただ少年の細い声だけが恨みがましく響き渡っていた。
「うそだ。ろんさん。こんなのぜったい、うそなんだ!」
聞きながらレフが身を起してゆく。かぶった砂を振り落とし、それ以上、動けないでいる百々の体を砂の中から引き抜いた。
「痛いよ。重いし。砂、食べた……」
一部始終を前に、周囲で観客の目は花火以上、丸くなっている。照らして打ち上げられた花火だけが、弄ばれた一日を優雅に見下ろしていた。
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