第17話

 だが十五分も経たないうちにレフは戻ると、何事もなかったかのような顔で百合草へ報告をすませている。代わりに百合草から聞かされたのは、テレビ局前で騒ぎを起こした男とバイクの調査が進められているという話であり、おっつけ詳細が知らされるまでは次の事態に備え待機。あいだに本件の報告書を提出しておけ、というものだった。

 仮眠室の向かい、ずっと倉庫だと思っていたスチールドアは資料室だったらしい。表で駆けずりまわるだけが仕事でないなら開き、レフは一点透視法のように並ぶ棚の一角からファイルを取り出している。めくって数枚、原紙を抜き出すと脇のコピー機でコピーし、一枚を百々へ、残りをストラヴィンスキーへ手渡した。携えオペレーティングルームへ移動するとそれぞれは、丸テーブルで猛烈な朝が嘘のような地味な報告書作りを始めている。

 だが酷かったのはそれからだった。

 さなか百々は、握ったシャープペンシルの芯側をノックして地味に痛がるレフを目撃している。かと思えば引いたままの椅子へ腰かけ転倒しかけるレフに心底、驚かされ、何を考えていたのか女子手洗いへ突入し、悲鳴と共に隣り合う男子手洗いへきびすを返すそら恐ろしい顔のレフに泣かされていた。それはもう見てはいけないものを見てしまった恐怖に、曽我へ書類を渡しに行くどころかオペレーションルームへ逃げ帰ってしまったほどである。

 原因は言うまでもないだろう。

 バービーだ。

 思い当たるものはそれしかなく、同時に百々は動揺を越えて奇行に走るレフへ今、この人の運転する車にだけは乗ってはならない、と強く確信さえしていた。


 がしかし庇護される身の上なら、選ぶ権利などありはしない。

「あの、あたしなら電車で帰れますけども」

 初夏の日差しも色褪せ始めた夕刻。刺し込むフロントガラスを眩しく眺めながらワゴンの助手席でハンドルを握るレフへ百々は訴える。なら今のところまっすぐワゴンを走らせているレフは、百合草と同じ言葉を繰り返しただけだった。

「ドド、一人の問題じゃない」

 それはそれぞれが書類をまとめ終わろうかという頃合いだった。渡会らの手によってバイクの所有者が特定されたことで、午後七時より開始される家宅捜査に同行するようレフへ指示した百合草は、外泊続きもはばかられたなら、明日は「20世紀CINEMA」の早番も控えているからといったん自宅へ戻ることを申し出た百々を、自宅まで送り届けるよう指示を加えたのである。万が一にも何か起これば百々が痛い目を見るだけでなくテログループに屈したことにつながる。それがなおざりにしない百合草の言い分だった。

「もう三人も捕まえたしさ。ちょっとくらいなら大丈夫だと思うんだけどな」

 どうせならストラヴィンスキーの方が安心できたのに。思うがストラヴィンスキーは女性ライダーに付き添ったせいで抜けたハナの穴埋めに向かっている。運転手交代を願い出る理由はもうひとつ、それとは別に渦巻くと、百々はチラリと時刻を確かめていた。だいたい飛行機に乗ってやって来てたった十五分はない、と思えてならないのである。

「ホラ、捜索開始までまだ一時間以上あるしさ」

 促しながら、シートベルトがしっかり体に巻きついていることを確かめる。

「始まっちゃったら夜、遅くなるかもしれないよ。こんなじゃ明日だってどうなるかわかんないし」

 目撃した光景が夢、幻でないなら、ここから先こそ命懸けだろう。覚悟を決めて百々はその名を口にする。

「いつまで日本にいるの? バービーさん」

 ぶち当たるのはそこの電信柱か。

 いや対向車か。

 それともあの自動販売機か。

「ぎ、がっ……」

 来るなら来いで歯を食いしばった。だがワゴンは昼間のトレーラーよりもまっすぐ走り、レフは一言、答えて返す。

「もう帰った」

 力んで縮んだ分だけ伸び上がっていた。

「ええっ。もうって、もう? どうして?」

「仕事だ」

 うるさい、言わんばかりにレフは吐き、説明が足りない、とす百々もすかさず眉をひそめて返す。

「日本で?」

 などといちいち問いただされて面倒くさくなったのか、そこでようやくレフは文章で答えだしていた。

「さっき聞いた。WHOの関係で西アフリカへ飛ぶ」

「おおぅ、空飛ぶナースだ。かっこいい……」

「アウトブレイクの感染症予防スタッフに志願していたらしい」

「ア、アウト? それって?」

「限られた地域での集団感染だ。地域を限定しなければパンデミックになる」

 聞くうちにも降ろしてもらうつもりでいた駅を通り過ぎていた。ワゴンは百々が乗るはずだった列車の走る線路を前にブレーキを踏む。踏切が単調な警報音を繰り返し、満たす車内でレフの手がハンドルを握りなおしていた。

「最初の症例が確認されてから三か月あまり。ウィルスは新型だ。そのワクチン開発が追いつくまでウィルス封じ込めの感染症予防スタッフとして詰めると聞いた。そのための西アフリカだ」

「そういえば渡航勧告が出されたって。朝のニュースで言ってたよ」

 脳裏へ寝起きのテレビニュースがぼんやり蘇る。

「ここへ寄ったのはトランジットの時間を潰すためだ。長話のためじゃない」

 締めくくるレフにそうなんだ、と百々は納得しかけていた。違う、と次の瞬間にも手を振り上げる。

「わ、わわ。だったらよけい、お見送りだってばっ!」

 何しろアフリカへ向かうなら、アメリカ大陸は大西洋回りの方が遥かに近かった。トランジットの合間だという言い回しに間違いはないとしても、日本を経由した地点でついでそのものが成立しなくなる。そうまでして立ち寄る理由など察するに容易い。だけに野暮が過ぎて口にも出せなかった。

「なのに十五分でさようならしちゃったんですかっ!」

「向こうが急に来た。こっちは仕事中だ」

「それ、ひ、ひどい」

 憤慨されてバービーの代わりに百々は泣き、ついでうなだれ、頭を跳ね上げた。

「ね、次の約束とかしてあげた?」

 一瞥するレフに、すでに期待はできそうもない。

「半年後だ。自分の予定が立たない」

「そういう具体的な日時じゃないよ。てか、そんなに長いの?」

「ワクチン開発には最低でも数年はかかる」

「じ、じゃ、いってらっしゃいのチューは?」

 返事は完全にそこで途絶えた。それは言いたくないのではなく、言う事実が存在しないためだと百々は悟る。

 ダメだ。

 なぜかしら百々が焦った。

「飛行機って何時? それじゃかわいそ過ぎるよ。お見送り。飛行場、行こう。いいじゃん。家宅捜査に間に合えば誰にも迷惑かけてないしさ。朝あれだけ飛ばしたんだから間に合うよ。そだ。さっきオペレーターの人と一人、仲良くなったんだよね。コネつかっちゃうよ、コネ。信号、青に変えてもらえるか頼んでみるっ」

 そそくさと端末を取り出すあたり、本人は本気だ。

 遮断機はそこでゆう、と持ち上がっていった。

 代わって遮るレフが冗談はよせ、と押し止める。

「自分で決めたことだ。一人で行ける」

 本人がテコでも動こうとしないなら、信号が青を灯そうと意味がない。

「だからさっき行動、おかしかったくせに」

 百々が口を尖らせたなら食らわせる一瞥は牽制か。残してレフはサイドブレーキを解除した。ワゴンはギッと床下で音を鳴らし、ゆるり踏切へ侵入してゆく。レールの上でタイヤは跳ね、冷えた車内をそのから騒ぎで埋めていった。

「面倒は避ける」

 紛らせ吐いたのはレフだ。

「バービーさんてもしかして、レフに騙されてるんですか?」

 踏切を渡り終えたワゴンを右折させるべく、タイミングを見計らってレフはワゴンを一時停車させ、しばし往来を見回す。やがてねじ切らんばかり、ひと思いとハンドルを切った。

「報復の件がある」

 それこそ忘れていいような話ではないだろう。

「俺とお前は写真に映った明らかなターゲットだ。今も監視されているかもしれない。近親者はソフトターゲットに選ばれやすいが、親戚、友人にまで警護をつけるというのは無理だ。なら接触は控える。相手へ無駄に情報は与えない。いい機会だ。仮想敵なら自衛できるウィルスの方が扱いやすいだろう。そんな場所にはテロリストも近づかない。あいだに必ずロンを挙げて SO WHAT を無力化させる。それまでだ。人を一日に二度も詐欺師呼ばわりするのはよせ」

 言い分を吸い込むように百々は聞いていた。

「じゃ、タドコロも……」

 思い当たるままを問い返す。

「不審者を意識させたのはお前の番犬以外、本人の危機管理能力を引き上げる意味合いがある。怪しいヤツがいると警戒するだけで、万が一の反応は違ってくる」

 文句を言える余地はあっという間に消えていた。むしろ完膚なきまでに言いこめられて口ごもる。田所へのお気遣いありがとう、とさえ言えなくなっていた。

「そんなにバービーさんのこと考えてるんだ」

「うるさい」

 なぜかしら怒られてみる。

「元に戻りたいよぉ」

「状況を理解しろ。無理だ」

 あなたのようにはいきません、と思うがその通り過ぎてただ萎えた。

「バービーさんて、そのこと知ってるの?」

「公安関係だということはカルテで知れる。話せる範囲は俺から話した」

「そっか、それでもああして会いに来てくれたり、バイ菌まみれのところへ笑顔で行ったりするんだ。なんか、すごいね」

 何がだ、と睨むレフに、百々は急ぎ並べ立てていた。

「ほら、バービーさんてあんなに美人で可愛いんだもん。全然イメージ沸かないよ」

「勘違いするな」

 と、そこで変わったのはレフの声色だ。

「あいつはやる時はやる女だ」

「な、にそれ?」

 言うレフの目こそ尋常にない。

「俺は知っている」

 それこそ何を? と百々が目で問い返せば、レフはこもる気迫のままにハンドルを強く握りなおしていた。

「入院した日の夜だ。患部周辺の炎症が原因で熱が出た」

「ああ」

「だが大したことじゃない。半日もすればひくと分かっている。だから俺は解熱剤は必要ないと言った。だがあいつは聞き入れなかった」

「へぇ」

「楽になるからと勝手に尻をめくって注射をうった。しかも帰りぎわ、勝ち誇ったように笑ってだ」

「……え」

 いっとき百々の思考も止まる。

「見た目に騙されるな」

 だがレフに二言はなかった。

「お前もいつか痛い目を見るぞ。くそ。骨さえ折れていなければ阻止できた」

 つまり相当、暴れたらしい。そしてあのバービーが勝利した。修羅場だな、と想像して百々は一人、引きつり笑う。ならこの点を問いたださぬわけにはいかないだろう。

「レフって、注射、苦手?」

「二度と同じようにはさせない」

 聞き流されて確信する。

「なんだかいらない情報だった」

 ついで翌日、病院から帰る、と言い出した理由が解せたような気にもなっていた。その後、チェブに泣かされているところを目撃されたのか、と流れもまた把握しなおす。なるほど。外見が外見だけに一部始終は哀れに見えてならないだろう。なんとなく、うっすら、どうにか、やっとこ、バービーがレフを気にする気持ちが分かったような気がしていた。同時に断片的な個人情報を得ているとはいえ、仕事抜きのレフを知らないことに百々は気付く。果たして普段は、どんな調子なのだろう。

 過ったところで鳴り出した端末に、全ては余談とばかり吹き飛ばされる。

 運転中なら控えるべきだ。レフを制して百々は自らの端末を掴み上げた。イヤホンを抜いてスピーカーへと切り変える。

「レフは運転中。百々です」

「あたしよ」

 ハナだ。返されていた。

「今、病院を出たところ」

 もちろんあの女性ライダーに付き添っていたことを知っていたなら、それだけで過るものはある。

「彼女が次のターゲットをもらしたわ。彼女を押さえた路上より二キロ先。明日開通の地下鉄、その前夜祭として十九時、打ち上げが予定されている花火大会場よ」

「うそ、七時ってもう……」

 案の定、お見送りに一時間はちょうどだとしてもテロリスト制圧に一時間は短すぎる。

「自宅は後回しにするぞ」

 否や、レフがシフトレバーを入れ替える。踏み込まれたアクセルにワゴンはぐんと加速し、安穏と流れ続ける車列を抜け出しUターンした。

「今回は、それだけじゃないの」

 さなか付け足すハナの声は固い。

「打ち上げ開始までに写真の人物を、つまりレフと百々さん、あなたたち二人を現場へよこすよう要求してるわ」

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