第12話
引いて腰かけた椅子は薄く、補うようにストラヴィンスキーは今朝のチェダーチーズの溶け具合が絶妙だったことを思い起してみた。
無彩色の部類に入るだろうスチールデスクを挟んだ目の前には、そんな至福の時と無縁の面持ちで男は一人、うずくまっている。仕方ない。左右非対称に崩れた輪郭は見ているだけでも痛々しく、だからして幸福のおすそ分けとまずは微笑みかけることにしてやる。
「おはようございます。アゴの調子、どうですか?」
何しろこれから始める作業はお互い心地よく進む予定にないのだ。準備体操は不本意な怪我をしないための大事な手順でもあった。
「強敵に殴られちゃいましたからね。お医者さんは何て?」
だがほぐそうとしたところで、「ブライト シート」でレフに殴り飛ばされた男に答える気配はない。試合に負けたボクサーさながら、腫れた顔を上げてチラリ、ストラヴィンスキーを見やっただけだった。つまるところ報復相手とすっかり恨みをかっているようで、ストラヴィンスキーは今一度、薄い椅子の感触を確かめなおすことにする。
「あ、無駄に話しちゃ辛いだけでしたね。じゃ、とっとと終らせちゃいましょうか。なので、シンプルな回答をお願いします」
口調のせいか、傍らで筆記につとめる署員が呆れたような顔を向けている。他に四畳一間ほどのここに誰もいない。高い位置にある窓だけが、食い込ませた格子で切り刻んだ空から爽やかな光を投げていた。見上げて眼鏡のブリッジを押し上げる。ストラヴィンスキーはクイズでも始めるかのような具合に男へ問いかけた。
「それじゃ、お名前からどうぞ」
「マイニオ・コレル」
腰かけた椅子が華奢に見えるほどの巨漢だ。初老独特の腹の出具合もまた圧巻で、バンドのロゴが入ったTシャツが破れそうに引き伸ばされていた。
数分あっただろう電話を一言も発することなく終えたレフは、マイニオと名乗った巨漢と取調室の中で対峙する。
「職業は?」
ミュージシャン。マイニオが答えて返した。間違いはない。彼こそ「スカンジナビア・イーグルス」ギタリスト、マイニオ・コレルであり、持ち込まれたギターの受け取り先だからだ。
「バンドリーダーをしている。事務所の責任者もだ」
などとマイニオは、尋ねた以上をもまた答えてみせた。だとして不服はない。レフはただ開きかけていた口を閉ざし、そんなマイニオを吊り上げた片眉の奥から見やる。一見、素直に話しているような素振りだろうと、すでに広く世間へ知れ渡った事柄なら明かしたところで意味はなく、想像できるのは会話の主導権を握りたいだけの小細工。よほど話したいくだりがあるのだろうと様子をうかがった。
「出身地は?」
「ノルウェー。首都オスロ。パスポートは偽造じゃない」
またもやマイニオは一言多く語る。省いたうえで筆記の署員へ訳して伝え、レフは一息ついた。マイニオ同様、先回りしてやることを決める。
「記述には年齢、六十四。入国は三日前とある」
噛み合い始めた調子にマイニオは満足げだ。確かにこの取調べを受け持つこととなったのは残された時間に比例したスムーズな処理が理由のひとつで、彼らの出身地、バンド名通りスカンジナビア半島もノルウェーの地では英語が併用されており、使えるための役回りだった。取調べ室の隅でコート掛けのように突っ立っている百々はといえば話せないせいで全くの無駄だったが、こちらも気が抜けないなら盗み見て諦め、レフはマイニオの顔へ集中しなおす。年齢分しぼんだお世辞にも健康的とは言い難い色に何らかの疾患をうがり、これもまた迅速な処理のうちだと次を繰り出していた。
「あんたは色々話したい様子だ。なら率直に聞こう。あのマネージャーと名乗った男との関係について知りたい」
「ブライト シート」で見せた動きから察するに、二回りも三回りも歳の差がありそうなこの男は「スカンジナビア・イーグルス」の面々と古くから付き合いがあるようには思えなかった。見るからに国籍も違えば彼は「スカンジナビア・イーグルス」の祖国がノルウェーであることも知らない様子で、関係は刹那的であることが考えられた。つなぎ合わせるものがあればそれは SO WHAT の多用するインターネットだろうと思えたが、思い込みこそ分岐を誤る代表格にほかならず、しかしながら勘という感知機の精度は思った以上に高いのだ、とも眼鏡の奥で巡らせる。
なにしろ名前と現住所、年齢に職業を聞いたところで男は何一つ答えようとしなかった。なおさら確かめたい経緯についてなど話しそうもない。
「あ、これも黙秘ですか」
鼻を鳴らし、うーんと唸った。
「あの、ちょっとは動かさないと、うっ血した頬の腫れもなかなか引かないと思いますよ」
促してみる。
もちろん渡会たちの方で撮影した顔写真と採取した指紋を元に前歴者から身元の割り出しは進められていたが、その時すでに男の人相は変わると顔写真に決定力は望めず、指紋もまた該当するものは上がってこなかった。所持品からも同様なら今のところ頼れるのは本人の自供だけとなっている。
しこうしてストラヴィンスキーはゆったり広げた腕をスチールデスクの上へ置いた。あえてデスクの大半を占領してやると軽く男のパーソナルスペースへ触れる。触れて笑みを浮かべると、引く気がないことを示してやった。
「じゃ、僕の方からお話させていただきますね。あなたの持ち込んだフェンダーのギターから、油の塊に似た固形物が回収されました」
一晩のうちに明らかとなったそれが事実だ。リトマス紙代わりと男へ浸す。
「ご存知でしたか? 仕込まれていたこと」
とはいえこれごときで反応するとは思っていない。奪われたスペースのせいで背筋を伸ばし距離を取り直した男もその通りと、目を逸らしただけだった。
「これは現在、成分を分析中ですが、塊に施された細工がギターのコイルへつなげられていたことから、演奏が始まれば反応する爆発物の可能性が濃厚だと考えています」
とたん声色を変えてやる。
「要求はのまれなかった。よって報復を決行する」
呼びつけられたように男が逸らしていた視線を振り戻した。
「いやね、あの日あの場所で、この話を出来るあなたが何者なのかなんて今さらどうだっていい話なんです」
意地悪だったかと笑ってなだめれば一瞥くれたきりだ。また興味なさげと男は顔を逸らしていった。
「それだけであなたが僕たちへ声明文を送りつけた SO WHAT の一人だってことは明白ですからね。ならぼくたちが今すぐ知りたいのは、二つだけです」
さて、ここからが本実験のハイライトとなる。
「ひとつは他に仲間がいるのかってこと。もうひとつは、あの爆発物を、いえ言ってしまえばプラスチック爆弾をどこで手に入れたか、ってことです」
ストラヴィンスキーはその名を口にした。
「ハンドルネーム、ロン」
と、逸れていた男の視線はまたもやストラヴィンスキーをとらえる。
「知らないなんて言って欲しくないですね」
それきりまじまじ見つめ合った。しかしながら男は何も言いはしない。ただ力が抜けたように再び視線を逸らしてゆく。
「というわけで、ぜひとも教えてもらいたいことがあるんですけど」
引きつけなおしてストラヴィンスキーは投げかけた。
「ロンとどうすれば、会えたりしますか?」
「あんたはどうして、こんなところで働いている?」
問いかけは交換条件のように聞こえていた。
「日本人じゃないだろう」
マイニオはレフへ突きつけ返事を待つ。
確かに絡んだ事情に流れ流されレフは日本にいた。だがそんな話を聞かせるメリットは時間も含めてどこにもなく、答えることを迷うよりも問いかけの意味を考えしばし口ごもる。
と、ひとつ息を吐いたマイニオは、やおら手の平を空へ広げた。
「どこで働くかを決めることは大事だ。若いうちはなおさらよく考えなければならん。あんたの選択がこうして一日のほとんどを食い尽くす。その選択から日々は生み出される。後悔するに膨大な時間は、そうして積み重ねられてゆく」
仕草は取調べを受けているとは思えぬほど落ち着いており、そのときとりわけ重い瞳が強くレフをとらえる。
「だが俺たちは、その場所を選び間違えた」
このくだりをレフは訳せず見送った。一通りを聞いてからでも遅くはないだろう。つかめない話へただ相槌を挟むことにする。
「音楽活動が、か?」
訳されることなく進む話に、筆記していた署員はどうしたのだろうと不審な面持ちだ。前でマイニオは首を振っていた。
「音楽はいつも正しい。だから俺たちは成功した。しかし成功が足かせだった。契約は俺たちを退屈にさせた」
広げられていた手はそこで、しおれた花のように握りしめられてゆく。
まただ、とストラヴィンスキーは眉根に力を込めた。
男の目がまた動く。
その振れ幅が一定であることに気付いたのは、取調べが始まってからもう小一時間ほどが経ってからのことか。一見すると弱気な仕草にも見えたがその目は、紛れてこちらの目を盗むと同じ物を確認し続けていた。
瞬間、ストラヴィンスキーはさいさん動く視線の先をなぞって体をよじる。部屋には探るほどの広さもなく、視線はすぐにも筆記者の手元へ、そこに巻きつけられた腕時計へ行き当たっていた。いや、そんなはずはないと咄嗟に思う。
「こんなところで、待ち合わせですか?」
問いかけた。
答えず男は、さらに時計からも視線を泳がせ、腫れたアゴをひと撫でする。ままに繰り返したのは、動くことを確かめる大げさなほどぼ開閉だった。やがて手ごたえを得た男の頬へと、粘り気のある笑みはじんわり浮かび上がってくる。
「ええ、俺を待ってる同志は結構いるんですよね」
「世界中、待ち望む観衆へ同じ演奏を繰り返す。そうはいかない。だが、そうしろと契約はいう。それが良いプレーだと言うなら、ロックはままごとじゃない。攻め続ける。それが俺たちの選んだスタイルだった。観衆の求める俺たちだった」
憤慨したようにマイニオは唇を結んだ。
そんな彼らの音楽論を聞くつもりはなかったが、大事な話に及ぶ時はたいがいバーブシカもそうだったと思い出す。知っているかのようにマイニオも、十分にもったいをつけたうえで唇を開いていった。
「退屈には耐えられない。クスリを選んだが力を借りてもバンドは死んだ。むしろ斬新だったのは、そうして新たに垣間見た世界の方だった」
だいぶ高くなった日差しは窓から差し込む光の色合いを変えつつある。レフはなおさら見て取れるマイニオの顔色に、そのせいかとひとりごちた。
「俺はそっちの取締官じゃあない。あんたはまだクスリをやっているのか?」
「そう簡単にはやめられない。ドラムのレイヨはバンドの解散を期に手を引いたようだが俺を含めた何人かは違った。続けることで組織を知り、売人のようなマネもした。だが気まぐれで入ったとして同じように抜けることは、体も組織もさせてはくれない」
マイニオはとつとつと言ってのけ、そこへ挟める言葉があるとすればこうだろうとレフは言ってやる。
「あんたは働く場所を間違えた」
あけすけな物言いに、マイニオの目がいっときレフを睨みつけた。だがすぐにも間違いない、と冷静を取り戻す。
「音楽は創造的だったがクスリは破壊的だった。遠ざけることで破滅を遅らせたが、それで何もかもが解決するハズもない。残念だ」
言葉は途切れ、マイニオは顔を伏せた。いくらもおいた沈黙ののち、うかがうような視線だけをレフへと投げる。
「転がり続けたハズが、俺たちはとどまり過ぎて立ち往生したと言うわけだ」
浮かべた卑屈な笑いが、その時ばかりは大男を小さく見せていた。
男の態度は一変している。のけぞるように浅く椅子へ座り直すと、投げ出した足を机の下で忙しく揺すり始めていた。
「もう朝刊も行き渡って、テレビにネットにだって一通り目を通した時間ですよね。けれどブライトシートの騒ぎはどこにも上がっていない」
信念の強さをうかがわせる声が部屋に端正と響く。厄介なことになりそうだ。分厚いレンズの奥で目を細め、思うからこそストラヴィンスキーはその力を解いて男へこう返していた。
「そうですね。少なくとも SO WHAT のテロ未遂があったって記事は載りません。これまでのようにね」
と、しゃっくりでもするかのように男は肩で笑い始める。引っ込めるや否や、思い当たるフシを探るように、伏せた目を忙しく動かした。共につぐまれた口が再び開いた時、舌打ちにも似たような音は鳴る。
「俺が失敗したってことは、俺が知らせなくてもそうやって同志へは伝わるんだな」
否や大きくつけた反動で、奪われたスペースを取り戻す。机の上を這うように、ストラヴィンスキーへ一気に身を乗り出した。
「まぁ、俺たちと遊びましょうや。これで終わりってのは、あんまりだ」
笑いを剥いだマイニオが肩を落とす。
「取り戻すために闘うことを決めた。音楽へ還ると口にしたのはもう二十年近く前の事だ。だが組織というやつは根が深い。こんな老いぼれにも声をかけてくる」
「それはあんたが深いところまでを知っているからだ」
そうじゃない、とマイニオは首を振る。
「噂は聞くが新しいボスとは面識がない。だから利用された」
レフは書きとめるよう署員へこれまでを要約して伝える。
マイニオもかまうことなくこう話していた。
「手を切るなら最後に一仕事、頼まれて欲しいと伝えられた。届いたギターで演奏すれば、それが俺たちの別れの歌になる。ただそれだけだ。持ち込んだ男のことも、何も知らない」
弦を押さえ続けて変形した指が体をさする。
「危ない橋だ。勘付いて、それ以上を確かめるヤツはいない。深く問うなとも釘を刺された」
動きを止めると心底凍えたように身を強張らせもした。
「確かにこれで縁は切れた」
そうして名は、小さく吐き出される。
「ジェット・ブラックともお別れだ」
「レフ、取調べはお預けです!」
その時、取調室のドアは開いていた。珍しくも血相を変えてストラヴィンスキーが飛び込んで来る。
「現場へ急行します!」
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