第11話

「……ま、た?」

 そう、つまるところ意味するのは「見送る」であり、見送られるということはいまだ目的は達成されておらず、総じて田所の記憶にあれもこれもは残っていないと理解するほかなかった。確かに疑い、薄々は気づいていた百々ではあったが、だから否定してもらいたかった、などと言うのは面倒臭いだけか。

「……お、覚えて、ないんだ」

 ゴゴゴ、と地響きはどこからともなく聞こえてくる。

 知らず恐れず、何が、と繰り返す瞬きで訴える田所は、とぼけていればいるほど憎たらかった。過ぎてイイッと歯ぎしりは百々の指の先まで回り、いてもたってもおれず腰かけていた椅子からガバリ立ち上がる。

「ど、どした?」

 田所の布団をひっ掴んでいた。力いっぱいだ。上下に振る。振ってひん剥き、目の前も遮ってやった。

「わ、ちょ、寒いって」

 田所が情けない声を上げ縮こまる。だがそれごときで怒りはおさまるはずもない。

「知らないっ!」

 放り出し、百々はきびすを返していた。

「か、かえんのか?」

 田所の問いかけに、投げ飛ばすように開けた部屋のドアがテレビよりも大きな音を立てる。

「おま、あ、頭に響くんだけど。ここ病院」

 反動のまま閉まりゆくドアを背に、知った事かと百々は両の拳を握りしめていった。

「覚えてんだもん、今度なんかあるはずないじゃん……」

 吐いた言葉が田所に届くはずもない。静けさはただ満ちて百々へ現実を擦り込んでゆく。

「話はすんだか」

「ぎゃ」

 はずが、話しかけられ飛び上がっていた。レフだ。腕を組むと振り返ったドア脇で壁に寄りかかっている。

「が、あ。おっ、驚いたっ……」

 なぜこんなにデカいのに気づけなかったのか。身構えずにはおれず、前で腕を解いたレフは壁からその背を浮かせていった。

「行くぞ」

「りょ、了解」

 そうして歩き出した背を追いつつ百々が付け加えたのは、ずいぶん待たせたのではないかと心配したからである。

「遅刻しない?」

 だがレフの返答は朝から痛烈を極めていた。

「俺が引くソリは遅れない」

「ブはっ」

 ぐうの音も出ず百々は飛び上がる。


 果たして乗り込んだ地下駐車場に停まるソリ、もといシルバーのワゴンに新車独特の臭いはなかった。車種もバズーカーで吹き飛ばされたワインレッドと同じらしい。見覚えのあるボディーラインと内装が百々に親しみさえもをわかせる。

 レフがそれ以上、言及しないならソリのくだりは忘れるが勝ちだろう。本格的な夏も近づく眩しげな光の中を事情聴取へ向かう。

「終わったらさ、着替えに家へ帰るけどいいよね。このままじゃ動きづらいし……」

 病院の売店で買ったパンに口を動かしつつ、だいぶとくたびれたクリームイエローのワンピースへ百々は鼻を近づけた。

「うん、臭い」

「煙幕だ」

 目もくれず返すレフの説明はいつも通りと極端に短かい。

「かまわないが周辺警備との兼ね合いがある。行動はオフィスへ連絡を入れておけ」

 だからか付け足すが、それはすでに百合草から聞かされているハナシでもあった。

「了解。でもやっぱり気が引けるなぁ。いちいち大ごと」

「だからチーフはお前の復帰を提案した。なるべく手数を減らす」

「だよね。とっとと捕まえて、こんなの早くおしまいにしないと」

 しかしながらマニュアルなどないこれからは百々の気を塞ぎこませてやまない。

「それにしてもさ、報復だとか自爆しようだとか、いくらロンとつながってても前の SO WHAT と何だか様子が違うね」

 と、緊急事態でないなら赤信号にワゴンはブレーキを踏む。止まった車体にレフの頭もうなずくように揺れ動いた。

「元来テロ組織は殲滅が難しいとされている。組織の動向が変わろうと先制とコントロールが肝心だ。俺たちの仕事はそう簡単になくなりはしない」

「なんだかマラソンやってるみたいな感じ」

 うんざりが百々の体を座席へ沈み込ませてゆく。またあの気詰まりしそうな顔で言っているのだろうと、その低い位置からレフの様子を確かめた。おや、とその目を瞬かせる。いや、見間違いかと思うが確かに今日のレフは何か、どこかが違っていた。最中、灯る青信号にワゴンは動き出す。強い日差しに白く弾けた街並はそんなレフの向こうで流れゆき、気付いてようやく百々は腑に落ちた。なにしろ会うたび同じだったそれは今日に限って白ではない。どこへ行けば手に入るのか。無個性極まるジャケットからのぞくシャツの襟はうっすら淡い桜色だった。

 とたん、へえ、と声は胸の中でこぼれる。それは感心と驚きの中間くらいにある、へえ、で、何しろこうも気づくことが遅れるほど桜色はレフによく似合っていた。白い紙をはりつけたような無表情はただそれだけでワントーン明るく、いや柔らかくなると与える印象を変えている。

「何だ」

 観察が過ぎたか、振り向きもしないレフに問われていた。

「だってピンクだもん。自分だけ家に帰って着替えてきたんだなぁ、って思っただけです」

 隠すほどのことでもないならズルイよ、百々は声をこもらせる。署を示す標識はその頭上を流れていった。見て取ったレフはウインカーを跳ね上げ、交差させた腕でゆるり、ハンドルを切ってゆく。もちろんそれら作業に特別神経を使うような所は一切ない。だが会話は切れると沈黙は訪れ、その沈黙に感じ取れるものがあるとするならこの話題に関してはノーコメントだ、というボディーランゲージのみだった。

 どういうことだ。

 なおさら百々はレフをうかがう。

 よほどの何かだ。

 ピクリとも崩さないそのポーカーフェイスにむしろ確信した。なら感心していた、へぇ、はお節介の、ははぁん、へ変わってゆく。

「でさでさ、その色、自分で選んだの?」

 とたんフロントガラスを睨むレフの両眼へ見る間にむっ、と力はこめられていた。

「だったらどうした」

「そんな言い方ないじゃん。あたしはさ、そっちの方がいいなぁって思ったから聞いたのに。ほらレフ、ずっと真っ白だったし。なんかあれ堅いんだよね。そっちの方が似合っててイイ感じだよ。あんまり怖くないもん。これイマドキの若い子が言うんだから間違いないっ!」

 なにしろラスベガスでの事は、気持ちのどこかを変えたとしてもおかしくない出来事だ。だから自分で選んだんだ、素直に言っても何ら差し支えることはないのに。百々には思えてならない。だがとどめと睨み返されて急速冷凍。立てた指の先までもを百々は凍りつかせてゆく。

「……ど、して?」

 行く手には高層造りがレフ同様、いかつい署のビルがあった。脇に併設されたガレージ前に濃紺の制服はちらつき始め、伴い増えゆく路肩の人影にレフも逸らした視線を正面へと戻す。

「……油断はできない」

「はい?」

 瞬間、あの音は鳴り響いた。携帯電話の呼び出し音だ。響かせワゴンは開けられたガレージの門扉へ突っ込んでゆく。外来者用の駐車スペースを探してレフは頭を振り、すぐにも見つけた場所へハンドルを回した。あいだ中、ブライトシートでもそうだったように呼び出し音はしつこいほどと鳴り続ける。

「鳴ってるよ」

 百々も思わず言っていた。

「運転中だ」

「もう着くし」

 促せば余計な指図だと、またもや一瞥、食らわされる。

「えぇ?」

 それがシベリアンハスキーのせいだったとしても、桜色を追及したせいだとしても、あまりに大人げない。

「だ、だから、どして」

 理解しきれず百々は冷や汗にまみれる。

 乗せたワゴンをレフは空きスペースへ停めた。仕方なさげに取り出した携帯電話を、抱いた不満をぶつけんばかり無言で耳へ押し当てる。

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