第8話

 地下に伸びる廊下の突き当りでドアが開く。

 三か月前。あれは解雇を言い渡される直前のことだった。訪れた時、確かにあった消火器は消え失せると、106のスペースには真新しいシルバーのワゴンが停められており、百々を驚かせている。

 果たしてあの日、見た光景は何だったのか。

 狐にでもつままれたような気持ちは拭えず、しかしながらいちいち話を求めていては時間ばかりを費やしそうで、つぐみ続けた口でどうにかたどりついたのがここ、チーフ百合草の部屋だった。

 ここもまるきり変わっていない、とひとりごちる。柿渋デスクにモスグリーンの応接セットどころか、緊張感漂う空気さえ封されていたのかと思うほどかつての

ままだ。

 先に帰っていたハナがいつもの位置から「ブライトシート」で見たおかっぱボブを揺らしようこそ、と首を傾げてくれていた。柿渋デスクの前で鮮やかな赤のスーツは振り返り、曽我が懐かしい笑みを投げかけてくれる。ままに返すきびすで退けば、受け取ったばかりの書面へ目を通す百合草が投げる視線で百々をひと刺ししてみせた。 

「ど、どうもご無沙汰しています」 

 とたん白旗を振って媚びるのはもう、条件反射というヤツだろう。

 ただ立ち上がって百合草は、他人行儀とそんな百々へソファを勧めただけだった。

「負傷者が出なかったことが何よりだ」

 ハナの隣、定位置へ回ったレフへと投げる。つまり暗に言わんとしているのは「危ないところだった」で、故意か偶然か勧められた場所も定位置なら百々も、腰を下ろしながらまた何かやらかしたな、と二人を見比べた。 

 そこで廊下側のドアは開くと乙部が細身を滑り込ませる。おっつけ制服姿のストラヴィンスキーに、アフロはカヅラだったらしい、いつも通り短髪でハートもまた駈け込んで来た。無論、互いの視線は十分に絡んだが、有事ゆえの再会に懐かしんでかける言葉こそ場にそぐわない。

 時刻は何事もなくライブを楽しんでいたなら店を後にしていただろう、二十二時。とは言え現実は緊急車両に囲われた「ブライトシート」を抜け出し、酔いの回り切った田所が上の病室で眠る二十二時。全員の呼吸はそこでピタリ、そろう。

「ご苦労だった。ここで取り急ぎ、今後の方針について確認しておく」 

 放ち百合草がその体を百々へと向けなおした。

「まず説明の遅れについて、この場で謝罪させていただきたい」

「あ、いえ。結構びっくり、させられました」 

 下げられた頭に百々は慌てるが、謙遜しようにもあの状況を控え目に言うことこそできそうにない。ただつられて会釈を返し、持ち上げたところで避けて通れぬ疑問へ触れた。

「狙われてるかもって、レフから」 

 瞬間、誰もの視線に貫かれたのは気のせいなのか。何かマズいことを言ったに違いない。過れって繰り出す小躍りこそ、ここぞで光る。

「ひっ、被害妄想ですよねぇっ」 

 目もくれず百合草は曽我へと目配せを送っていた。受け取り曽我は進み出てくる。センターテーブルを滑らせて、手にしていた物を百々の前へと差し出した。目にしたとたん、繰り出していた佐渡おけさもどこへやらだ。百々はしばし目を瞬かせる。

「あの、どういう、ことでしょうか?」 

 何しろそれは返却したハズの端末である。

「こちらへ戻るかどうかを自身で判断していただきたい」

 百合草が言った。

「ぇ? えと、あたしは、クビにされて。その戻る? 狙われてるって話は……」

 百々にはてんで理解できない。説明を求めレフへ振り返ればソファの背もたれへ腰を落としていたレフは、一度、噛むようにきつく唇を閉じてこう話し出していた。

「ラスベガスの件からひと月後だ」 

「そんな前の話?」 

「そうだ。SO WHAT から声明文は送り付けられた」 

 明かされたところでいつものことだ、と聞いていられる心境こそ進歩の証だろう。

「内容は二点。一点はスタンリー・ブラックの無条件解放。もう一点は要求がのまれなかった場合の報復についてだ」

「ほう、ふく?」

 ただ内容がテロ予告でないことに、百々は違った意味で驚かされていた。

「スタンリー・ブラック拘束に対する抗議だ」

 繰り返す百々へうなずき返してレフは教え、その視線をテーブルへ落とす。振ったアゴで指し示した。

「それを添付して、な」

 辿り百々はつい今しがた差し出されたばかりの端末をとらえる。ファイルを開くよう指示されたのだと気づいて手を伸ばし、触れてすぐさまその下に敷き置かれた一枚の紙に気づいていた。

 写真だ。

 声をもらす代わり握りかけていた指を引っ込める。端末だけをそっと写真の上から押しのけた。その色合いは暗く黒い。一見してそこに何が映っているのか分かり辛いものだった。なら自然と体は前へ乗り出し、ようやく見て取れた光景に目を疑う。そこにプリントされているのは薄暗い「ベガスビッグビューイング」のバックヤード通路内、仁王立ちとなったスタンリー・ブラックの後ろ姿と、その手を取ってもみ合うレフだ。背後には重なることなく、アオザイを着込んで呆然と立ちすくむ自身の姿もある。

「うそ……」 

 言わずにはおれなかった。

「ふざけてやがる」 

 背でハートが吐いていた。

「もちろんスタンリー・ブラックの解放はあり得ない」 

 前でレフは、報復は条件ではなく今後起きるだろう避けられない案件だと教えている。 

「だから狙われている、って?」

 百々は写真から顔を跳ね上げる。またもやうなずいて返すだけのレフに過剰な反応こそなかった。

「勘違いはするな」 

 そんな互いの間へ百合草の声は投げ込まれる。 

「スタンリー・ブラックの解放を要求している以上、報復対象は個人ではない。カウンターテロリズム、ここにいる我々全員へ向けられたものだと理解すべきだ。問題は百々が我々組織内の人間として認識されているかどうかの方だった。職員として認識されているなら早急の警護が必要だが、そうでないなら過剰な反応は双方にとって負担にしかなり得ない。そもそも SO WHAT は二面性を持ったテロ組織だ。声明文には解放期日さえ明記されておらず、愉快犯によるものだろうというのが当初の判断だった」 

「百々さん、僕たちと違って事件直後に帰国してますから現地活動はありませんし、どう見ても公安関係者には見えないですからね」 

 ストラヴィンスキーが指を立てる

「それにあの日、監督のファンだから応援に来ましたって声をかけたそうじゃないですか。会話が傍受されていたとしてもまったくもってナイスアドリブだったというわけです。最悪でもそこ止まりかと」 

「そんなつもりで言ったんじゃ」 

 百々は声をこもらせ、慌ててこうも確かめていた。

「その、SO WHAT の二面性って言うのは何ですか?」

 仕方ない。強制解雇されたがゆえに捜査過程はすっかり抜け落ちているのだ。なら補い説いたのはハナだった。

「SO WHAT の始まりは、監督のファンサイトから派生したコミュニティーだったの。それが次第に拡散、膨張を続け、今じゃスタンリー・ブラック本人でさえ全体像を知る事は出来ないほど大きくなってる。そんな SO WHAT の二面性っていうのは、拡散、膨張の果てに強襲をかけるほどの実行力を持ったグループから、イタズラレベルの愉快犯までが混在しているってこと。事実、ベガスの件以降 SO WHAT を名乗るグループからの犯行予告は幾つも送りつけられてきたけれど、どれも愉快犯で何も起きなかった。今回も同じだと思えたのよね」

 と、主導権を取り返して百合草がその後を継ぐ。 

「ただし、万が一を考慮して職員は身の周りの警戒と相互監視を徹底。百々は我々とのかかわりを絶つべく解雇とし、事態が収束するまで警邏を行うとした」

「それで……」 

 初めて知った解雇のいきさつに百々はあっけにとられる。

「でも声明文が送り付けられてからふた月よ。該当する動きもなかったなら、この件は当初にらんだ通りイタズラレベルで立ち消えるんだと思っていたわ」 

 一点を睨むハナがソファで前屈みとなっていった。その隣からレフの視線は百々へと投げられる。 

「先月だ。風向きは変わった」 

 聞いてうなずいた百合草の腕がデスクへ立てられてゆく。顔の前で握り合わされた手はまるで露呈しそうな感情を封鎖するかのようで、やがてその名は告げられていた。 

「ハンドルネーム、ロン。存在が明るみに出たことで愉快犯との見方は五分五分にまで下がることとなった。我々はロンをテロ支援者だと断定している」

 それはあまりに唐突な登場だった。

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