第6話

 はい? と心の中、百々は返していた。

 もう少し穏やかな内容で十分なんですけれど。

 言えないならショッキングが過ぎて吹き飛んだ背景を背負い、レフへと振り返る。

「安心しろ」

 言うレフは見向きもしない。

「まだ可能性の問題だ。決まっていない」 

 だったらもう少し余裕はないのか。 

「わりに、顔が本気なんですけどぉっ」 

「捕まえたなら全てはっきりする」 

 また出た、と思う。つまりいつもの、逃がすつもりはない、だ。 

「もしかしてそのために黙ってあたしの周りをウロついてたんですかっ!」 

 もちろんレフ一人の判断でないことくらいは分かっていた。だが言わずにおれず、せめて先に教えておいて欲しい。百々は懇願する。いや、知ってしまえば眠れそうになかったがそれとこれとは別の話で、知らず過ごしてきた日々のもうどこまでが日常で、どこからが非常事態伴う非日常だったのかを区別できなくなる。知らぬが仏の日々はまるでファンタジーだった。またもやあっけなく奪われたからこそ、もろさもまた痛感してみる。

「今日は大事な日だったんですけど」

 それでも前を向けたのは二度目だから、と言うわけだけでもないだろう。

「用件はもう済んだろう。さんざん聞かされた」

 無くしたなら取り戻せ。

 老齢のロックスターこそ奏でる音色で百々へと見せつけている。

「あんなになる前に止めて下さい。ていうかその前に何の話してたんですかっ?」

「勝手にひとのウォトカを飲んだのは、そいつだ」

「仕事中じゃん」

「あんな量では酔わない」

「アル中っ!」

 そこでわずか、レフのアゴは引かれる。

「バーの調理場から出るつもりだったが塞がれた」

 なるほどバーカウンターの横の手洗いを指示した、それが理由だったらしい。

「塞がれたって、いったい何人?」

 確かめて、百々は唐突な破裂音に鼓膜を叩かれる。すくめた首で弾かれたようにステージへと振り返っていた。しかし視界に変化は起きない。会話は途切れ、しばしむさぼるように互いは辺りを見回す。と、ステージ上手だ。音もなく白い煙はあふれ出してきた。

「一人だ。こっちへ向かっている」 

「逃げるの? 捕まえるの?」 

 イヤホンから聞かされているだろう情報をレフは復唱し、百々が投げ返したその時だった。煙を突き破ってステージへ、踊り込んでくる何者かは現れる。身に着けているのは汗ばむこの時期には不似合いなスゥエットの上下で、顔面を覆うゾウアザラシがごとく鼻をぶら下げたフルフェイスのガスマスクが意表を突いた。その腰回りに数珠なりとぶらさげられた金属塊が、次に異様と注意を引き付ける。振り回してステージの上、客席と対峙した。

「要求はのまれなかった!」

 くぐもる声にも、いでたちにも、誰もが唖然と見つめている。

「よって我々は報復を決行する!」

 否や、ステージを飛び降りた。一列目のテーブルへと飛び上がる。暴挙に皿は散って客の間から初めて叫び声は上がり、かまうことなく腰にさげていた金属塊へ手を伸ばした。動きは果物でももぐような具合か。引き抜きかざして耳にタコができるほどと聞かされたあのセリフを口にする。

「すべての娯楽に粛清を!」

 床へと叩きつけるように金属塊を投げつけた。そうして爆発が起こるなら、かぶったマスクはちぐはぐだろう。だからしてそれは鋭い噴霧音を発する。濃い煙を吹き出しながらテーブル下へと転がりこんでいった。もう瞬きしている間もない。辺りは白く煙に包まれ、どうにも形容し難いニオイに満ちる。投げつけたガスマスクはその中へ、テーブルを蹴って身を躍らせた。

「な、なにっ。これ」 

 周囲からせき込む声が聞こえてくる。 

「煙幕弾を使用された。客席の誘導を頼む」 

 ジャケットの襟を引き寄せレフが応援を呼んだ。

「煙幕ぅっ?」 

 追い打ちをかけてひとつ、ふたつ、と煙幕弾は、煙の中からなおも転がり出してくる。 

「催涙弾ならこの程度じゃすまない」 

「この程度でも燻製になるっ!」 

 そんなに香ばしいものか。 

「指示がでた。誘導は来ない。俺とお前は自力で表から出る」 

 レフが外を指し示した。重厚かつ端正な正面扉は店内、バーカウンターと同じ並びにあり、くぐって逃げ出す客がすでにねずみ色の帯を作っている。

「タドコロっ。起きてっ。逃げるよっ。マズいよっ!」 

 確かめて、百々は田所の肩を揺さぶった。からきし田所に反応がないなら、湯で上がったかのようにぐでんぐでんになったその体を、レフが百々から引き剥がす。いとも簡単に肩へ担ぎ上げてみせた。さすが元消防士、とでもいうべきか。最後、すわりのいい位置を探して軽く跳ねる間合いなど、手際が良すぎて拍手すら出そうほどだ。

「もたもたするな」

「お、お世話かけます」

 感心している場合でないなら、田所に代わって百々は頭を下げていた。

 持ち上げた瞬間、目と鼻の先をかすめて煙がもう、と吹き出すのを見る。その煙を突き破って、中からスウェットの腕は飛び出していた。

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