第5話

 そうして百々は手洗いに張られた鏡の前に立っていた。あれから待てども指示した場所へレフが現れる気配はない。勢いに任せて退散したが、二人のことが気がかりだった。何もこんな時に、と非常事態も頭を過る。とたん口は「あ」と開いていた 鏡の中の顔は本当に冴えない。ほとほと眺めて睨み返し、百々はしばらく離れているあいだに一体どれだけ鈍ってしまったんだろう、と呆れかえる。なぜなら、必要とあれば田所くらい振り払ってやって来るのがレフだと知っていた。姿を現さないレフはつまり、絡む田所に付き合っているにちがいなかった。ワケなど無駄に騒がれたくない、しか思い当たるものはない。なら邪魔する田所をなだめて引き剥がす。百々がすべきはこの一点にのみだった。もちろんそんなことをすればレフの肩を持つことになり、本日期待のシナリオが灰燼に帰す可能性は大いにある。しかしながら今、直面しているのはセクションCTが動くほどの危機であるなら、行わずして挽回する明日の存在こそ怪しかった。

「うっし」

 返すきびすでホールへ飛び出す。二人が向かい合うテーブルへ視線を投げれば、胸ぐらを掴み合っているだとか掴み合った後だとか、物騒な様子こそ見受けられなかった。ただ田所だけが低くテーブルへ張り付くと、何事かをひたすらレフへ喋り続けている。

 何をやっているんだか。百々は眉をへこませていた。

 目指し、足を繰り出してゆく。

 数歩も行かぬところで唐突と振り返った田所と目を合わせていた。

「みぃ、らぁいぃっ!」

 かと思えば勢いよく立ち上がった田所は、百々へ高く手を振り上げる。その頭はなぜにや宙で円を描き、定まったとたん走り出していた。いや、走り出そうとして走れず、千鳥足を踏んでいた。

「俺はお前のことら、ほんろにすきなんらってぇっ!」

 さなか豪語する意味とタイミングが百々には解せない。

「なっ、なに」

 勢いに押されて百々の方こそ立ち止まる。うちにもヨレつつ近づく田所に、正面衝突さながら抱きつかれていた。

「ひゃあ」

 縮み上がって見上げたそこに田所の顔はある。その顔はあろうことは何の断りもなく百々へ向かって近づいてきてさえいた。

「う、えっ。ええっ?」

 呻いたのを最後に唇を塞がれる。同時に訪れたのは静寂で、百々の脳裏で「本日のシナリオはこれにて完遂」と文字だけがスクロールしていった。だとして不意打ちが過ぎたせいで目も開いたままなら、百年続く恋を冷まさせるためきっとこの先百年、忘れることが出来ないだろう田所の間抜けた面と酒臭さが、こうじゃない、と言わしめる。

 ほどにそれはやたらめったら長いキスだった。

 ついぞよろめく。

 押し倒されそうになったところでようやく解放されていた。

「っひ、らいーっ」 

 早々、全力で抱きつきなおされる。

「わわわわっ」

 が、それきりだ。

「……はい?」

 田所は動かなくなる。恐る恐ると首をひねったそこには、成すべきことを成し遂げ満足げに安らかな寝息を立てる田所の顔はあった。

「ちょ。う、動けないってばぁっ!」

 もう周囲の視線がひたすら痛い。 

「レ、レフぅっ」 

 助けを求めずにはおれず、凝視することをはばかったらしいレフは聞えて、眺め続けていたカラのグラスをテーブルへ戻していた。

 その視線を跳ね上げる。

 ステージへと肩を翻した。

「そ、そっちじゃないですってばぁ」 

 立ち上がったところでようやく百々へ振り返る。おっつけ繰り出された足は、「ベガスビックビューイング」のバックヤードでブラック監督へ向かって行ったあの時とまるで同じだ。

 すでにどこかで何かが起きた。

 緊張感は否応なく伝播して、間抜けと開いていた唇を百々は真一文字に結びなおす。

「よく聞け」

 肩へ、目すら合わせることを惜しんで周囲を見回すレフが段違いのそれを並べていた。

「話はここで済ませる」

 などと切り出し方がまるで変わっていなくて残念である。

「SO WHATだ」 

 聞かされて、やはり、と思える余裕だけが新鮮だった。

「じゃないとウチは動きませんって、前に曽我さんから聞いたよ。みんな元気?」

 返して百々が請け負うのは、レフの死角だ。

「変わっていない」 

 などとうれしい返事だったが、そこには素直に喜べない経緯というものもあった。 

「ていうか、あたし、そっちの都合で退職させられた身なんですけど」 

「状況が変わった」 

「あ、名前も?」 

 やはりテーブルからハナの姿は消えている。ホール壁際、かけられたアナログ時計はとうに過ぎた開演時刻をさし、従業員の間からストラヴィンスキーの姿も消えていた。

「偽名だって聞かされた」

 あの日のやり取りを明かす。

「誰がそんなことを言った」

 返されたのは、まさか、な返答だ。 

「退職手続きに来た銀行員みたいな人」 

「俺は知らない。上の配慮だ」 

「ソレ、無茶苦茶だよ」 

「俺に言うな」 

「て、またストッパーが必要になったってコトですか?」 

「それも俺が決めることじゃない。それにもう間に合っている」

 果たしてイヤホンからどんな声を聞かされているのか。レフの眉間はそこで詰まった。

「いいか、落ち着いて聞け」 

 つまりこれから聞かされることは落ち着けないほどショッキングな内容らしい。期待に応えてレフも言う。 

「お前は SO WHAT に狙われている可能性がある」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る