第4話
「どうもごぶさたで。ああ、違った。おとといの昼間、見かけたんだっけ」
言う田所を、百々は全く理解できていない。
「あんた、気づいていないと思ってんだろうけど、ここんとこ20世紀の回りでウロウロしてるだろ。俺、ずいぶん前から知ってるわけ」
知らされて、驚きレフへ視線を投げていた。気づくことなく田所は、こうも言葉を連ねてゆく。
「あのさ、百々はストーカーを追いかける仕事仲間だって俺にあんたのことを説明してるけどさ。こんなところまで押しかけて来るあんたの方が、よっぽどストーカーじゃね? なんだっけな」
記憶を探り空を睨んだ。思い出すと一息にレフの前へ並べ立ててゆく。
「漢字オタクで笑わなくて、たまに笑ったらタイミングが違う、年寄りに優しいマダムキラーの、ロシアから来たレフさんでしたっけね。だったら、もうちょっとばあさんの尻、追っかけた方がいいんじゃね」
その度胸に百々の方こそ全身から汗を吹き出す始末だ。
「タっ、タドコロっ!」
慌てて遮るがもう田所に待ったはきかなかった。
「え、おっさん」
締めくくった後のドヤ顔は、ある意味レフのそれより恐ろしい。つとめて冷静に聞いていたレフの顔も、ついにそこで不快と歪む。いや実際、微動だにしていなくとも百々にはそう見えていた。証拠にレフの体も田所へと突き出されてゆく。
「バーブシカに、伝えておく」
笑った。
無論、ニ、と引き延ばした口元だけで。
目にした百々こそ戦慄し、そんなレフとしばし睨み合った田所の肩が百々へと振られる。
「おま、トイレ行きたかったんじゃないの?」
共に投げかけられた視線に刺され、百々は身をすくめていた。なら融通のききそうにない目で田所は、早く行けよ、と促しもする。もう元気一杯だった。
「……そ、だった。じゃっ、あとでっ!」
百々は高く手を振り上げる。回れ右で歩き出すが、それも数歩で終わる。逃げるに任せて手洗いめがけ、百々は駆け出していた。
見送って田所は突いていたテーブルから腕を引き剥がす。これで気兼ねすることはなくなった。胸の内でひとりごちた。
問い詰めたところでおそらく百々は笑って誤魔化すに違いないのである。分かっているから、いまだ話題を持ち出したことさえなかった。だが「20世紀CINEMA」で「バスボム」が上映中だったあの頃、休み明けから続いた百々のおかしな様子はこのうすらデカい野郎に原因があるとしか考えられず、帰り道、すれ違った時の様子になお確信を深めている。だからこそ延びに延びた告白の返事も催促していなかった。落ち着いてからがいいだろう。思い、待つと心に決めたのだ。
だがここひと月あまり、この男は性懲りもなく「20世紀CINEMA」の表に裏をウロウロしていた。それは通りの向こうに車を止めているだけのこともあれば、あたかもどこかへ向かうかのような小芝居付きでの往来ときている。
それもこれも百々と会うためのことなら万事休す、だっただろう。だがそんな暇などないほど連日、百々と顔を合わせていたのは自身であり、加えてこの通り、百々は自身が見張られていたことにさえ気づいていない様子だった。
ストーカーに違いない。
思いはじめたのは、いくらもたたないうちからである。
つまり男は切れた関係を繋ぎなおすべく接触する機会をうかがっているのではないか。疑いは日ごと膨んで、危機感を募らせた。待つ決心をひるがえし今日を提案したのも、先手を打つためにほかならない。だというのにふてぶてしくも男は店へ現れ、またもや遠からず近からずの場所をこうしてウロついている。許される、いや譲れるはずがなかった。
向かいの席へ、断ることなくどっかと腰を下ろす。そんな相手の顔を初めて真正面からまじまじ眺めた。心底いけすかないツラだと思う。どうにも陰気くさく、洋画で見るようなご陽気極まるバター臭さがまるでない。色が薄いせいか温もりにさえ欠けて見えるその顔は、ナフタリン臭さが似合う作り物のような固さがうかがえた。だからかいくらも老けても見えると年齢が分かりづらい。ただ「おっさん」と言ってやったように精神であれ肉体であれ自分より年上だろうことだけは確かで、だとしてもそれが怯む動機になるものか、と田所はなおさら眉間へ力を込める。
「あんた一体、なにモンなんだよ」
個人を特定して、百々との関係を特定して問いかけた。
だが男は答えない。相変わらず陰気臭い面持ちで田所を見ている。ならばとズバリ、田所は突きつけた。
「四か月くらい前、20世紀が一番忙しい時、百々の様子がしばらくおかしかったのはあんたのせいだろ。あんた、百々に何をしたのかしらないけどな、あんたが現れると百々が迷惑するんだよ」
と、初めて男の表情は動く。やおら落ち着きなく、色の薄い瞳を右へ左へ揺らし始めた。様子に田所こそ、聞けよとたまらずテーブルを叩きつけ返す。
「もう二度と現れるな」
はずも、男は背後へ体をひねってみせた。なおさら、おい、と呼び戻せば、片手間と言わんばかりだ、教えてようやく男の口は開かれる。
「枕投げをしただけだ」
なるほど。
しばらくやっていないなら楽しそうだ。
思い過らせたのは防衛本能に他ならない。追いかけ追い越し、忙しい時期を休んでこんな奴とどこに泊ってきたんだよ、と事実に手は震えだす。いやそれ以上、知らず待ち続けた自身をバカにしているつもりか。覚えた怒りに拳を握りしめていた。コノヤロウ、で振り上げかけ、それはこいつの作戦だ、言い聞かせる声に我へ返った。
何しろここで逆上すれば事実を認めたも同然である。落ち着け、百々に限ってそんなことなどあるはずない。これは巧みな心理戦だ。乗ってたまるかで、引きつろうと笑い返した。
「そりゃ、楽しそうで」
「確かにいい気晴らしだった」
返されてどういう意味だ、と解いたばかりの指をうごめかせる。
前で男はやはり顔色ひとつ変えない。見せつける余裕こそ勝利宣言というわけか。うがるほどこみ上げるのは胸クソ悪さというやつで、なんとかしてギャフンと言わせてやれないか。田所の執念に火は点く。悪意の限りを巡らせると、男の周りへ視線を這わせていった。置かれたままのグラスへ行き当たったなら、手つかずのままのそこへと目を細める。だからといって尋ねたのは何も、銘柄を知りたかったからではないだろう。
「それ何、飲んでんだよ」
アンタがぼやぼやしているから取られちまうんだ。言ってやりたくて否や、男の前からかっさらった。あおって飲み干し、どうだ、でテーブルへ叩きつける。目にした男は確かに虚を突かれたかのような顔をしていた。ザマァないと思えばうっすら笑みさえ浮かび上がる。だが実際はどこか違っていたようだ。
「そいつはウォトカだ」
教えられた瞬間、田所の喉からぼう、と火は吹き上がっていた。さかいにぐるぐる店は回りだす。
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