第10話 お金より重い愛
眼前を覆い尽くす圧倒的な海水の質量に、数則の頬が引き攣る。
「待てよおい……こんなダイナミックな交通規制初めて見たぞ?」
「海水で橋を封鎖するとは大胆なことを……! いったいどれほどの水をかき集めて来たのか計算してみたくなると思わないか、俺?」
「一人でやってろアホBF! それよりも洒落にならんぞあれは!?」
既に橋に雪崩れ込んだ海流にブレーキの間に合わない数台の車が突っ込み、推進力を失って水の壁に閉じ込められた。運転手や同乗者はパニックになって車のドアを開けようとするが、水圧に押されてびくともしない。大型トラックでさえもずぶりと呆気なく呑み込んだその海水の壁は、うねりながら少しずつ前進していた。
奥行きは十メートル近くあるだろうか。
高さも目算では同程度あるように見える。
自然現象では絶対にありえない、明らかに高位のベルガーによるものだ。
咄嗟にブレーキを踏んで停止する。周囲の他の車も停車するが、まずいことに人々が車を置いて逃げ出してしまった。前後に停止した車があるため、自然とこちらの車が道路に閉じ込められる。
一緒に逃げると言いたいところだが、とっくに補足されているので無意味だろう。
「見た所では水流操作系のベルガーだが、第二歪曲でも上位だな……このままだと車ごと攫われちまう」
「どうするんだ、俺? 状況を嘆いて感情を処理したら、そのあとは立ち直った心で対策を練る番だ」
「言われなくとも分かってるわい!」
BFがこちらが少し腹が立つほどに冷静な面を下げて判断を促してくるのが鬱陶しくて、叫ぶように言い返した。
一口に水流操作と言っても、水に関する異能は様々なタイプがある。
大気中の水分をかき集めて疑似的なアイテール流体を作り出す奴もいれば、ペットボトルの水を操って鞭のように使う奴もいる。今回の相手は恐らく戦闘の際には常に水場を選んで行動するタイプだろう。
このタイプの恐ろしい所は、人間では受け止めきれないほどの膨大な質量を全面的に味方につけられることだ。相手に攻撃する水も、動きを封じたり捕獲する水も、川や海なら使い放題。高圧水流を矢継ぎ早に飛ばせば弾幕になり、水のドームでも使って籠城すれば攻め込むのも難しい。それでいて水流を相手に纏わせて動きを封じる事も出来る。
しかも、十メートル以上の距離がある海水を遠隔操作で橋上に移動させるには、いくら水流操作系の能力と言えど並大抵の努力では持ち上げただけで力尽きるもの。その点から既に相手――恐らく虎顎のエージェント――の実力の高さが伺える。
だが、異能には相性というものもまた存在する。
数則は、ポケットに放り込んでいた携帯端末を取り出し、にやりと笑いながらとある人物に電話をかける。
「ティア、状況の説明いるか?」
『カズったら、わたしを誰だと思ってるの?」
少しおどけた不満の声を漏らすティアは、既にGPS情報では橋の上、しかも封鎖された橋の向こう側に到着している。
「虎顎の水使いエージェントに道を塞がれてるから倒せばいいんでしょ? その代わり橋を渡った後は多分手伝えないけど……』
「十分すぎるさ。相性の悪さと実力見せつけてくれよな」
『ふふん、カズのために頑張っちゃうよ!』
ティアとの間に長々とした会話は必要ない。
学生時代からの付き合いの長さに加えて、恐れ多くも恋人同士。阿吽の呼吸とまでは行かずとも、彼女の優秀明晰な頭脳は数則の言いたいことを先読みするように察してくれる。
これで問題はクリアだ。
何故なら、彼女の異能は、水流系の能力にめっぽう強いのだから。
= =
突如として日常を侵食し、天高く立ち上った大蛇のようにうねる水柱。膨大な体積と重量によって幅十五メートルの橋を悠々と通行停止にしたその異能の主は、慌てふためく民衆を水の中から見下ろす。
「べ……ベルガー犯罪だ!」
「くそ、急いで逃げるぞ!」
「警察は何やってるよの、こんなでかい能力使える奴をノーマークなんて!!」
恐れ、或いは不満を露に逃げ惑う民衆たち。
この町に住む人間にとってベルガー犯罪とはありふれたものでしかなく、それが起きた際に彼らは警察の怠慢と身近の危機の二つまでしか物事を考えない。
トラブルに巻き込まれたこの町の住民の模範的な行動は「文句を垂れつつ逃げる」の一つに集約されると言ってもいい。
犯人を取り押さえようとする者はいない。
いや、正確には「出来ない」が正しい。
簡単な話だ。人間が鉄砲水や洪水などの水の脅威に生身で挑めば待っているのは死に他ならない。ゆえに、ベルガー犯罪に対して最も有効な対応策は逃げること。
ベルガーの相手は同じベルガーか、ベルガーに対抗する訓練を受けた人間に任せるしかない。そして同時に、力ない人は特にその巻き添えを食いたくない。
高い歪曲度を誇るベルガーは、一種の災害だからだ。
騒ぎは既に警察へと通報されてはいるが、非常に突発的に発生した事件なだけに対応は間に合っていないのか、一向に現れない。現在町では虎顎の低級エージェントが引き起こした様々な騒ぎが発生している為、情報が錯綜しているのだろう。
これらのほぼすべてが、
どうせそんなこと、素体を連れ回す愚かな日本人くらいしか知りえないことだ――と
「愚昧な連中だ。怠惰に生きて自らの力で現実を変えようともしない。ここが中統連ならば無能力者とて特攻兵器の十や二十は持ってきて早々に水を吹き飛ばす程度の事はしたろうに………日本人とは嘆かわしいほどに能がない」
例え銃を以てしても彼の周囲を高速で滞留する水の障壁は破れず、逆に彼からは一方的な水の攻撃を与えることが出来る。近くに大量の水があればあるほどに流動性の武器は増え、水量によっては高層ビルの類さえ一撃で薙ぎ倒す怪物染みた存在。
それこそが洪水の能力――『
アイテールの気配と視覚の両方を使い
「手間を取らせおって。それにしても何だあの男たちは、双子か? 今更ベルガーが一人増えた所で状況は覆らんというのに」
わざわざ出向いたのが馬鹿馬鹿しくなるほどに簡潔な状況だった。少々拍子抜けだが、状況は限りなく詰みだ。素体を唆した日本人の男は車から逃げもせずにこちらを見続けている。怖気づいたか、それとも大人しく素体を引き渡す気になったか。
(まったく、兄さんにも困りものだ。手っ取り早く竜巻でも起こして障害を薙ぎ払ってしまえばよかったものを……)
大風ならば、素体だけを避けてちっぽけな人間を散らすことも出来る筈だ。だが、それでもそれをしなかったのは――嘗て、彼が傷つけるつもりのない無辜の民を死に追いやったことを内心で悔いているからだろう。
兄に呪いのように付き纏う、いみじくも哀しき「戦士」の矜持。
しかし、その余計な思考が付け入る隙を与える。
「――掌握完了。上書開始」
静かな、女の声。
声の主は背後数メートルの場所にいた。
長い金髪をなびかせる異国の女が掲げる掌が淡翠色の輝きを放ち、光は洪水の操る水へと浸食するように伸びる。瞬間、掌握したアイテールが洪水を拒絶するように強く脈打った。
「……ッ!? この感覚、僕のアイテールが侵蝕されている!?」
ベルガーの異能の扱いは、大気中のアイテールを如何に掌握できるかにかかっている。
だがアイテールによって支えられる異能は、一度に扱う量が多ければ多いほど掌握に綻びが発生する。そして、綻んだアイテールは付加する法則を更に別の異能で上書きすることが出来る。
異能による性質の変化――アイテール操作の主導権を強引に奪取する技術――。
「
「ベルガーだって異能の放出を抑えれば並のベルガー探知には引っかからない。前ばかり気にしてるからよ? 高位ベルガーにありがちな傲慢の生み出すミスね」
冷酷に告げられる言葉に、しかし洪水は言い返せず歯噛みする。事実として不覚を取っている以上、否定することは出来ない。
遠隔操作や放出型の異能は、ベルガー固有の特殊脳波を用い、アイテールを通して空間に干渉することで遠隔発動を可能にしている。彼の隙を突いた女性が行ったのは、遠隔発動の為に洪水が収束したアイテールに自分の異能発動ラインを打ち込んで操作権を奪う行為に違いない。
口にするのは簡単だが、実現するにはアイテールの流れの感知及び精密な操作と収束地点の見極め、性質の正確な理解、そして相手の操作ラインと接触せずに一瞬で法則を書き換える能力強度が必要になる。
つまり――。
「この女、出来るっ!?」
「氷棺のなかで反省なさい? ――
宣言の如き叫びと共に、洪水の集めた膨大な水分がバギャンッ! と一瞬で結晶化した。安全なはずの海水の障壁ごと全てが凍結し、洪水は閉じ込められる。
「この質量の海水を一瞬で凍結させただと……くそっ! 海流を操作する『
最悪だ、と洪水は歯を食いしばる。
操作権を剥奪された海水は彼女――アレスティアーナ・エヴァンジェリスタの意のままにバキバキと音を立てて形状を変化させ、橋の中心に佇む荘厳な十字架型の氷彫刻となった。その彫り、造型、そして表面から舞い散る六角形の氷の結晶までも、その全てが芸術的だ。
「相性が悪かったね? 私の『
それはかつて「世界で最も美しい異能」と評された異能。
ダイヤモンドダストのように舞い散る結晶が反射する光の中に悠然とたたずみ髪を靡かせるティアの姿は、まるで幻想小説に登場する精霊の姫君を連想させる美しさだった。
水の壁に巻き込まれた車たちも結晶化の過程で吐き出され、挙句に氷晶は数則たちの乗る車の邪魔になる放置車両を持ち上げてゆく。封鎖された道が拓いたのを確認したティアは数則に合図を送った。
「今だよ、カズ! 一気に抜けて依頼者をっ!」
「ありがとうティア! この借りは次のデートできっちり返すから楽しみにしてろ!!」
「待ってるんだからねーっ!!」
大声で言葉を交わすと同時に、空いた道を車が突っ走る。
障害がなくなってしまえば残る関門は駅前だけだ。そこを突破すれば後は天専まで海上の旅に――と考えた直後、車が凍結した道路にものの見事にタイヤを取られた。
「ってうおぉぉぉぉぉぉッ!? 路面が凍結してる、路面がぁぁ!!」
「くるくる回ってる! すごーい!」
「凄くなぁぁーい!!」
結晶化の影響で冬でもないのに凍結してしまった道路にアクセル全開で踏み込んだのだから、ある意味当然と言えば当然なのだが……迂闊な真似をと数則を責めるのは少しばかり酷かもしれない。
「これはうっかりだな、俺よ! スタッドレスモードの起動をを怠るとは痛恨だ! しかし大丈夫、アビィはむしろ車のスピンを楽しんでいるぞ! さすがは俺、うっかりで子供を喜ばせるとはやり手だな!!」
「てめえは楽しそうに解説してないで黙ってろボケぇッ!!」
「か、カズぅー!? まだ十年ローン残ってる車クラッシュしてない!? ごめーん、張り切り過ぎたかも!」
「いやいやいや、考え無しに突っ込んだ俺が悪かった!!」
怒鳴りながらブレーキとアクセルを踏み分けてハンドルを切り、数則は車をコントロール可能な域にまで立て直した。アビィは「またやって!」と期待を込めたいたいけな瞳をぶつけてくるが、彼の顔には「二度とやりたくない」と書いてある。
幸い道路が広かったおかげでクラッシュを免れた車は、虎顎の刺客をまた一人突破した。
数則たちを見事に送り出したティアは遠ざかる車に目いっぱい手を振った後、自分の作り出した氷塊の十字架を見上げてる。全高十数メートルある巨大な氷塊。これほど目立つオブジェクトが町に出現すれば警察が飛んできて怒りだし、こっちは平謝りしつつ事情を説明しなければいけない所なのだが――。
「警察の動き、やけに遅いわね……渋滞が起きてるとはいっても異能課は移動用に四脚重機とかヘリコプターとか所持してる筈でしょ? それとも虎顎の妨害ってそこまで熾烈なのかしら……」
「――その通り。女、貴様は虎の牙を知らぬ」
「……ッ!
咄嗟に声が聞こえた方向へ手を掲げる。
次の瞬間、発砲音と衝撃が鳴り響く。
声の主、実弾を発砲した洪水はさも意外そうに眉を顰めた。
「……驚いたな。一杯喰わされたのもそうだが、展開したそれは障壁ではなくアイテール結晶か?」
放たれた弾丸は、ティアに届く前に淡翠の壁に遮られてその威力を失っていた。
淡翠の発光色が示すものは、大気中のアイテールを物質化したもの。高濃度のアイテールは一定環境下で液状化し、更にそこから結晶化させることが可能である。ティアの異能である『
障壁は役目を終えたように結晶化が解け、大気中に再び吸い込まれていった。銃を突きつけるその男に、ティアは正面から睨み返す。
「女の子にも容赦なく実弾発砲か。一応死なないように閉じ込めたから、こういう展開も想像してたけど……」
「僕の歪曲度を低く見積もるな。大気中のアイテールを物質化できるのは君だけじゃない」
「その水……私が掌握した海水ではないわね。自前のアイテールを水に変換したって所かしら?」
洪水の周囲をひとりでに回り続ける蛇のような水。恐らくその水をウォータージェットの要領で噴射したのだろう。閉じ込めた筈の氷の一部にくり抜かれたように穴が開いていた。
「付け加えるならば
「何その微妙にズレた例え」
「さ、些事だよ多少のずれなど。少なくとも僕にとってはな」
(心なしかはぐらかそうとしているような……まぁいいけど)
実際の所、彼の発言に粗があろうがなかろうが、役割をほぼ終えたティアにとっては関係のない事だ。プラムなんでも相談事務所の所長にして恋人である数則なら、必ず有言実行で依頼をこなし切るだろう。
その信頼がある限り、ティアが慌てることはない。
だが相手もまた、今の状況に慌てや焦りを感じさせない。
エージェントとしての絶対の自信と、役目を遂行するための揺るぎない意志。裏にいる人間でも極一部が持つ、
「一つ、聞く。何故俺を殺さなかった? その気になればお前は掌握した氷晶で俺を圧死させることも出来た筈だ」
「生憎私達ってあなた達みたいな無法者ではないし。それに知ってる? 日本って法治国家なのよ? ……でもまぁ、もし万が一貴方がカズを殺してたらもっとひどい事も出来たけど」
瞬間、ティアの瞳に氷より冷たく鋭い刃のような『狂気』が宿る。
恋は人を盲目にさせる。
そして彼女は、その極端かつ最たる例だった。
「どんな殺され方がいい? 肺に氷を流し込んで結晶化させて生きたまま呼吸を停止させる? アイアンメイデンみたいに全身を氷で貫かれてみる? 血液を結晶化させて心臓を貫く? 氷でできた万力で貴方の身体を少しずつ押し潰して泣き叫ぶ姿を公衆に晒すっていうのも魅力的よね。ああ、それとも貴方の体内にあるアイテールそのものを強制結晶化させて内側から破裂させるのがお望みかしら? うふ、うふふふ……だってぇ、私からカズを奪おうって言うんでしょう? ああ、いい事を思いついた! かき氷にしましょう! 足元から少しずつ結晶化させて摩り下ろしていくの! 罪人に相応しい末路だわっ!!」
「こ、こいつ……!?」
恍惚の笑みを浮かべて興奮気味にまくしたてるティアの豹変に、洪水は続く言葉を失った。
言葉の節々から感じる、狂おしいまでの激情。想像させることさえもが罪だと言わんばかりに、彼女の纏う美しさに濃密な死と残虐性が、裏社会で生きていた洪水の本能に「危険だ」と告げた。
時々世界にいる、どこか師父にも似た狂気を内包する者。
痛みを怖れず、組織も恐れず、人質さえも恐れない。
一度スイッチが入ってしまえば殺戮マシーンとして骨から肉が削ぎ落とされようと絶対的に目的を遂行する。それは一種の死神だ。
負けるつもりなど欠片もないが、相手にすれば余計なものをごっそり失う。そう判断した洪水の行動は早かった。
「……これ以上貴様になど構っていられるか。モノレールを追う方法は他にもある。例えば、こんな風にな!!」
瞬間、洪水が身に纏っていた水が彼自身の足元を円形に切り裂き、橋に穴を空けた。洪水は直立したままその足場と共に橋の下へと落下し、海水を使って自身の足元に台を作り出す。
「後は海に降りてからゆっくり追跡させてもらうさ!」
「かっこつけたまま真下に落下するのってなんかマヌケな姿ね……無様無様♪」
「五月蠅い! とにかくお前の異能も海の下までは届くまい! 僕は忙しいのでもう行かせてもらう! 貴様は後であの男ともども始末してやるから覚えておけ!!」
負け台詞のように叫んだ洪水はそのままサーフィンのように異能で起こした波に乗り、すぐさま海中に沈んだ。相手は海中を自由に行き来できるだろうから、ここから飛び降りて追跡するのは流石に不利だ。
ティアは演技だった嗜虐的な微笑みを消して、ふう、とため息をつく。
「うぅん……ま、正直に言って貴方がカズを倒せるとは思えないから半分嘘だったんだけどねー……あ、緋鞠ちゃん丁度いい場所にいる! カズのお手伝いお願いしよっと!」
本業の殺し屋を『半分』の本気で追い払うその愛は、常人が抱えるには少々重すぎる。
アレスティアーナ・エヴァンジェリスタ。
強く気高く美しい彼女に今までの人生でたった二人しか彼氏が出来たことがない理由が垣間見えた瞬間だった。なお、彼氏二号が数則なのだが、一号が誰なのか、そして「どうなった」のかは一部の人間しか知らない事である。
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