第9話 被害総額は計算したくない
その女性を見た通行人の殆どが、奇跡的なまでの美しさに見惚れていた。
あるものは夢でも見たかのように口を半開きにし、あるものは手に持ったものを取り落しかけて慌てて正気に戻る。男は目の保養とばかりにその姿を追い、女性の殆どが嫉妬、若しくは羨望のまなざしを向ける。
テレビのアイドルより一、二ランクは上ではないかとさえ思える美貌と碧眼。風に揺られる長いブロンドの髪は太陽光を反射してきらきらと美しい光沢を放ち、否が応でも見るものを引きつける。
恰好こそ飾り気のない黒いスーツ姿だったが、それも細身ながら女性的な膨らみを持った彼女が身につければドレスも同前。スカートの下から見える黒いストッキングがすらりとした美脚を余計に引き立たせ、歩き方さえも優雅に見えてくる。
当の本人はそんなことは毛ほども気にしていないとでも言うように、勝手知ったるこの町の道路を足早に歩いていた。
ナンパ師が声をかけることさえも躊躇うほどにその存在は美しく、まるで森の奥から妖精が迷い込んできてしまったかのような神秘的なオーラさえ感じる。時代が時代ならば傾国の美女と呼ばれたかもしれないほどの美しさを振り撒くその女性は、こんな街中ではなく映画かミュージカルに参加していた方がよほど相応しいだろう。
しかし、ここでそれらとは別に一つの疑問が生まれる。
何故、彼女は足早なのか。
もしもその答えを知るために彼女の思考を読み取ったベルガーがいたとしたら、外見とのギャップの大きさに口を開けて唖然とするだろう。
(デートっ♪ デートっ♪ カズとデートっ♪ 待ち合わせ場所とかどこになるんだろう? カズ、どんな服着て行ったら喜ぶかな? ここ最近忙しかったりお金がなかったりでずっとデートしてなかったから……久しぶりに二人きりになれる! やりぃっ!)
鼻歌を鳴らしながらスキップをしていないことが不可思議に思えてくるほどにピンク一色の思考が、現在の彼女の心の九割近くを占めてた。
彼女はその名前をアレスティアーナ・エヴァンジェリスタという。
親しいものからは略して「ティア」と呼ばれる、プラムなんでも相談事務所の問題児の一人である。
所長である数則との関係は、元同級生にして未だ初々しさの抜けない恋人。彼女自身も何でも屋として日夜労働に励み、少しでも上司兼恋人の財布を潤そうと頑張っているのだが――その結果はあまり芳しくない。
現在、プラムなんでも相談事務所に所属する従業員の内、収入が実質的にマイナスになっている人間は二人。ほぼフラットに近いプラスは二人。ちゃんと稼いでいるのが一人という状況であり、彼女はそのうちの「フラットに近いプラス」に属している。
そのフラットに近くなってしまう理由こそが彼女が少し前まで川辺で落ち込んでいた理由でもあるのだが、今の彼女は数則とのデートに思いを馳せているためそれまでの悩みは消し飛んでいる。
(今回は一応ちゃんと依頼料受け取ったし、これで少しは事務所の懐も温まるかな? カズったらお金がなくてもデートではちょっと無理して使っちゃうもん……)
事務所の維持が精いっぱいの状況であっても、数則はティアの前では見栄を張る。唯でさえ恋人同士なのに二人きりの時間が少ないので、出来るだけティアにお金の事で行動に制約を課すまいという思いやりが働いている。
無能じゃないのにお金がなくて、依頼料が出ないような仕事ばかりが飛び込んでくる――そんなどこか抜けてる彼氏の思いやりがティアにとっては一番可笑しくて、そんなところが愛おしい。
……彼の為に金を稼ぐという趣旨のその思考を当人が知ったら、自分の不甲斐なさに部屋に籠って枕を濡らすかもしれないが。
しかし、仮に脳内の九割を恋人への熱い想いに支配されていたとしても――残りの一割は恐ろしく冷静に状況を見極め続けている。
BFより得た情報を基に試算した数則と依頼者の行動ルート。
そこから導き出される、モノレール付近に待ち伏せの人間がいる可能性。
自分が先ほどまでいた橋がモノレールに限りなく近い事。
それらを全て把握した上で彼女は足を速めているのだ。
これから自らの異能を駆使して戦う事になるであろう場所を目指して。
= =
虎顎という組織には様々な派閥がある。
いま日本で活動しているのは「革新派」と呼ばれる技術専攻派閥だ。異能の力を科学技術によってさらに効率的に運用することを活動の中心にしている。
その他にも戦闘行動と戦闘技術に特化した「武闘派」、裏工作と情報戦に特化した「隠密派」など様々な派閥が存在し、それらは虎顎の
そして、大風たちエージェントが「師父」と呼ぶその人物こそが革新派の最高幹部。
彼等エージェントの半分以上が幼い頃に師父に拾われた大恩のある身であり、エージェントたちの親に対する忠誠は目を見張るものがある。
なかでも
二人が同時に任務をこなせば失敗などあり得ないとまで称される二人の絆と信頼は深い。
その兄弟の弟に当たる
機嫌がいいからではない、待ち時間が退屈だからだ。
どうせ待っていれば彼らはここにやってくる。
一度は兄を欺いたようだが、それは単に場所の問題だろう。このような開けた場所ならば大風もその名の如く自在に空を舞って素体を攫って見せたに違いない。
大風の異能に比べて洪水の異能は環境に影響され易い。
周囲に水場がなくとも小道具を使えばある程度補えるが、全力を出すならはやり川や海、湖などの水場が理想だ。洪水の名の通り水を操る彼にとって、海を渡る橋の下はこの上なくおあつらえ向きな場所である。
「念の為に駅の周辺にも手駒を置いておいたけど、要らぬ世話に終わりそうだね?」
洪水の口元が吊り上る。
双眼鏡の先に、ターゲットである素体の乗った車が映った。
他に行き来する車と同じくらいの速度で、慌てずに道路を走っている。
「さあ、鬼ごっこはおしまいにしようじゃないか、素体よ。大丈夫……殺すなんて野蛮な事は、僕はしないよ」
だって君には、もっと素敵な役割があるのだから――そう心中で呟いた洪水は、双眼鏡を懐に仕舞って両手を大きく広げた。
集中、集中、アイテール遠隔操作――制御開始。
人々のその存在を忘れられた、海に棲まう巨大な怪物。
異能によって顕現する、実体のない海の巨人が音もなく立ち上る。
「人間に、水の脅威は止められない。お前たちが相手しているのは世界を司る五行が一角、水そのものだ」
彼の背後で、余りにも巨大すぎる影が蠢いた。
= =
(事務所の方の追手は既にマモリが足止め。出来れば倒してほしい所だが……まぁ、期待しておくか)
状況は現在も進行中。
使える手駒が少ないが、乗りきれないほど難所じゃない。
マモリに後ろは任せたとして、問題は正面にある。
(ティアが移動中……先回りしてくれてるか。モノレール周辺、やっぱり怪しいお兄さんたちがいるみたいだし)
自分の能力を卑下する訳ではないが、アビィを守りながらそれらの追手を追い払うのは少々厳しい。
BFは戦闘能力を持ってはいるものの、圧倒的に脆い。数発殴られただけでも崩壊する。作り出すBFにありったけのアイテールを注ぎ込めば強くも出来るが、そもそも銃を所持しているかもしれない大人数を相手に霊素銃一丁だけで挑むなど無謀極まりない。
だからティアとは是非とも合流したいのだが……と、数則は不意に自分の周囲に不自然なアイテールの流れがあるのを感じた。
流れの正体は直ぐに判明する。自分の背後から流れを感じるということはすなわち、アビィの仕業だ。
「こらアビィ。人が考え事をしてる時に横から意識を覗くのはよくないぞ?」
「ご、ごめん……なさい。つい癖で」
「敬語、使いにくいならしなくていいよ。それで、何で覗いたんだい?」
「カズノリならあの青い絨毯みたいなののこと知ってるかなって」
「青い絨毯?」
そんなものはこの周辺には存在しない筈だが。
この辺りで見える青いものと言ったら空か、この辺りからよく見えるようになる海くらいしか――。
「ウミ……あれが海なんだ! なんだか光ってて綺麗……白い線が動いてて、まるで生き物みたい」
「あー……海の事も知らなかったか」
彼女が言っていた青い絨毯とは、現在大橋の上から見下ろす大洋の事だったようだ。
ここは数年前に出来たかなり大きな橋であり、今まではモノレール駅までたどり着くために海岸線を大回りしなければいけなかった道を直通に変えたものだ。待ち伏せの可能性もあるが、橋以外の道は渋滞に捕まるリスクが高すぎて止めた。
アビィは真横にまで近づいた人生で初めての海がよほど気になるのか窓に張り付いて外を眺めている。彼女の言う白い線というのは恐らく波の事だろう。行き交う車にも目移りしていた彼女の興味は、既に海へと完全に傾いていた。
「海についてはどれくらい知ってるんだ?」
「わかんない。時々、大人が『海の向こう』とか『海の底』とか言ってたけど、魚っていう生き物が住んでることくらいしか分からなかった」
海の事を知らない人生など、数則には考えも及ばない。
彼女の口ぶりでは、海が水で構成されているという事実さえ知らない可能性がある。川や湖は知ってるだろうか。池やプールの意味は。魚のことを見たことはあるのか――彼女は一体どれほど知るべきことを知らずにいたのだろうか。
それを考えると、一刻も早くこの少女を閉じ込めていた環境を取り払ってやりたくなる。
「今回の件がひと段落したら近くまで行ってみるか? 今日は無理だがそのうちな」
「本当!? ……や、約束だからねカズノリ! 嘘ついてない!?」
次の瞬間、アビィは問答無用で
「嘘じゃないんだね!」
嬉しそうにぱっと顔を輝かせるアビィだが――今、ものすごく危ない事をしたことは自覚していないだろう。結合解除と同時に俺ははハンドルを取り直して彼女を叱責した。
「嘘じゃないのはいいけど、車の運転中に意識結合しちゃ駄目っ!! 今すっごく危なかったかぞ、アビィ!?」
「え……?」
何を叱られているのか理解できずにアビィが固まる。彼女は車の運転という行為を軽く考えていたのかもしれない。その危険性を知らないがゆえにあんなことが出来たのだ。
意識結合を使用中は、思考が共有される。
しかし結合中は基本的に神経が肉体より精神に重点的に向く為、肉体の動きが鈍くなるのが普通だ。先ほどの彼女の結合はかなり強く、俺は一瞬ハンドルを取る手と視界がゼロに近づいていた。
それは運転中に急に目隠しをされるということ。控えていたBFが慌ててハンドルを取ってくれなければ事故になってもおかしくなかったのだ。
「わ、わたし……そんなつもりじゃっ」
「悪気はないのは分かってる。何で悪いのかは後でちゃんと説明してあげる。でもなアビィ、いくら親しい相手でも断りもなく気軽に頭の中を覗いちゃ駄目だ。特に今、俺もアビィも両方危ない状況だったんだぞ?」
「ぅ……」
突然の叱責にアビィは完全に狼狽えていた。
何所に向けていいのかも分からない手をおろおろ動かして一種のパニック状態になっている。アビィとしては、さっきまで仲の良かった友達が突然怒ってしまい、その訳が分からないという状態だろう。
やはり、精神的にはかなり未熟だ――と俺はため息をつく。
しゅんと肩を縮ませて無言で首肯したアビィは、酷く沈んだ顔で窓の外へ頭を向けた。抱く感情は落胆か、それとも失望だろうか。こうも落ち込まれるとこちらが悪い事をしてしまったかのような錯覚に陥ってしまう。
嫌われていなければいいが――そう内心で呟いた俺に、アビィから再び声がかかった。
「カズノリ」
「なんだい?」
「……ごめんなさい」
「……こっちも怒鳴って悪かったよ。BFにしっかり説明させるとか、他の方法もあった筈なのにな」
自分は想像以上に子供の相手をするのに向いていないのかもしれない。未熟な精神とやらは人のことを言えないか、と苦笑した。
「お呼びかな、俺? さっきは俺がそれを望んでいなかったから何も言わなかったが、俺ならば今からでも何の問題もなく彼女に事情を説明し、なおかつ落ち込ませないようにやんわり注意して見せよう!」
「それは俺に対する嫌味かあてつけなのか!? やっぱりお前は黙ってすっこんでろ!」
「……くすっ」
アビィに笑われた。少々恥ずかしい気分になったが、これもBFのせいだと思う事にしておく。会話している間に車は橋の中腹までたどり着く。モノレール駅までは間もなくだ。
(気軽に喋っちゃいるが、いい加減いつ仕掛けてきてもおかしくないタイミングだ……)
相手が本気でアビィを始末しようとするならば――そしてさっきの追手のほかにも動いている人間がいれば、間違いなくここで仕掛けてくる。最大限の警戒をする必要があるな、と俺は目を細めた。
ひとこと知らせてえおくか、とアビィの方をミラー越しにちらりと見ると、彼女は相も変わらず窓に張り付くように外を眺めていた。そんな姿を見るとやはり彼女は年相応の子供なのだと実感させられて、その楽しそうな表情に水を差すのは気が咎めた。
「ねえ、BF。海と空の間に出来てる線はなんていうの?」
「それは『水平線』だな。ちなみに大地と空の間だと『地平線』っていうんだ。地平線はこの町じゃ見れないけど、そのうち見に行こうな」
「ふ~ん……じゃあ、さっきから海が上へ昇ってるのはなんていうの?」
「それはだな……ん? 海が、昇る?」
一瞬、いったいアビィが何を言っているのか理解しかねた数則はつい海の方を見て――絶句した。
まるで神話の大蛇か龍が海より這い出てきたような、一種の神秘すら感じる威圧感。
橋より約十メートル下方で波打っていた海面から、膨大なまでの質量の海水がひとりでに立ち昇っていた。
「なんだアレ……」
「カズノリも知らないの?」
「俺も知らない。いや、津波……まさかッ!?」
立ち上った橋の左右にの海水は、まるでそこだけ重力が反転しているかのように空へ昇る滝のように橋上に収束し――そして数則たちの進行方向へ降り立った。
不気味なほど緩慢に見えるが、それは目の錯覚。行き先の道路を走る全ての車がその水の塊の前で急ブレーキをかける。玉突き事故を起こしている車もあったが、もはや誰もそのことを気にしてはいない。
「アイテールの流れ……あれは異能だ!!」
橋の全てを封鎖する『水の壁』が、数則たちの眼前に立ちはだかった。
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