第5話 先行投資に金はつきもの
アビィを助けるために数則たちがやるべきことは、彼女を追う組織――アビィから告げられた『虎顎』の連中に彼女を諦めさせるか、若しくは諦めざるを得ない状況に追い詰めることだ。
案の定と言うべきか、『虎顎』は中統連でも名の知れた大型マフィアだ。彼らが日本で活動していたというのは初耳だが、まず間違いなくベルガーを投入して来る。彼女を簡単に諦めることもないだろう。
逆を言えば、組織ゆえの弱点を突けば勝利条件を達成できる。
組織は集団だ。個人より全体を優先する。組織を打倒できなくても、採算が合わない状況に持ち込めれば手を引かざるを得なくなる。
例えばアビィが既に大きな勢力の庇護下にあることを証明すれば、虎顎はアビィを取り返すのにその勢力と全面対決しなければならない。幾ら虎顎が強大だとしてもすぐには手出しできない。
手っ取り早い手段で言えば、アビィを住民登録して日本国籍にし、日本国民としての地位を手に入れさせることだ。
彼女はほぼ確実に国籍や戸籍がないだろう。マフィアの跋扈する今の中統連に戸籍をのんびり管理している余裕はない。だったら日本政府側でこの子を抱え込ませる。
何せ
そして、これが一番重要なのだが――。
「条件を満たすための前提条件として、アビィを守り通す必要がある。最優先事項だ。マモリ、今日ばかりは食費を気にする必要はないぞ」
「それはそれは、良い事を聞いた。さて、ついでに散り散りになってる事務所の他のメンバーにもメールで伝えておくか。確かティアは都内での仕事だったはずだし、
我が事務所の誇る精鋭能力者諸君は見事にバラバラ行動だが、それでも必要な時には間に合ってくれる連中だ。
「だな。さて、住民登録かぁ……市役所で大丈夫かね?」
「いや、いっそ『
「お、その案いただき! 確かにあっちの方が都合がいい!」
アビィは話について行けないのかしきりに頭の上にクエッションマークを浮かべている。本当ならば説明責任があるのだろうが、今だけは我慢してもらおう。話は後でも出来るが時間は有限だ。
数則達は簡単な手荷物をポケットに放り込んで戦闘用の武器を腰に差し、立ち上がる。
「『天専』行きのモノレールの発進時刻は確か今からそう時間がない。相手もおおっぴらに動いてるわけでもなさそうだし、さっさと車に乗って天専まで向かっちまおう。いくよ、アビィ。エスコートするからしっかり付いてきてくれよ?」
「……おいてかないでね?」
「大丈夫! まかせなさいな!」
不安ながらも差し出されたアビィの手を優しく握り、笑顔で答えた。少しは安心できたのか、彼女の足取りは心なしか軽い。
「……っと、念のために仕込んでおくか」
「こちらは準備いいぞ。天専の方にも簡単にだがメールで事情を送っておいた」
「それじゃ、さっさと行きますか!」
数則はアビィの手を引いて事務所のドアを開けた。
その先に待つ残酷な死に対して余りにも無関心に。
◇ ◆
通常の人間には知覚し得ないほど微量の匂いが、この世界には溢れている。
排ガス、埃、土、草木、生物の体臭、etc……それらの臭いを追跡するのは昔から警察犬などの特権であった。だが、ベルガーの中にならばそのような能力を持った人間がいても不思議ではない。例えば、大気を操る能力者は
嗅覚に頼るのではない。
大気の成分をデータ的に分析、知覚して、そのなかでの特定臭気を割り出し、追跡を続ける。虎顎に所属するベルガーエージェントとして今まで散々続けてきた習慣と彼が師父と敬愛する上司の指示に従い、彼は当の昔に
素体を必ず生け捕りにする。
それが師父の望みならば、それを遂行する。
任務を邪魔する人間は排除する。
彼の世界は極めてシンプルに出来ていた。
全ては己の恩師の夢のために。
毒素に塗れた劣悪な環境の鉱山から命からがら逃げ出して、家族も何もかもを失ったあの日から、彼は野良犬だった。その野良犬を人間にまで押し上げ、ベルガーとしての才能を見出してくれたのが師父なのだ。
だから彼は師父の為ならば命を狩ることを躊躇わない。
足音が聞こえ、ドアノブが回るその瞬間を、男はずっと建物の外で待っていた。
銃は使わない。素体を傷付けるリスクが大きくなる。故に愛用の小刀で確実に致命傷を負わせ、速やかに素体を回収する。
それで彼の任務は仕舞いだった。
「それじゃ、さっさと行きますか!」
(来たか……)
呑気な日本人が素体を連れてのこのこ現れる前兆の音を、男は付近に鎮座する高層建築物の屋上のへりから確認した。
素体の異能を警戒して計算された距離だった。
何も知らない人間が見れば今から自殺するのではないかと思う程に、男はゆっくりと屋上のへりの外へ体を傾けていく。男のいる場所から素体のいる建物の出入り口へは、どう計算しても跳躍して着地出来る場所ではない。実行した者には一部の例外を除き、死が待っている。
既にビルとの接点が爪先のみになった瞬間、彼の周囲の風が渦巻き、弾丸のように体が宙に射出される。ただ推進力を得ただけであれば決して出来ない自在な軌道を描いてターゲットに接近し、構えた白刃を煌めかせる。
油断した邪魔者は余りにも隙だらけの姿で扉の外に足を踏み出す。
無警戒なその様子に、任務の成功を確信する。
お前が何者で、なぜ素体を連れているのかなどには興味がない。素体をどこに連れ出し、何をさせるかも興味ない。
ただ、素体を回収するのにお前は邪魔な存在だ。
だから手っ取り早く始末し、素体を確保する。
情報を持つものは始末したほうが後腐れがなくて都合もよい。
(恨むのなら、素体に関わった己の不運を恨むがいい)
最早、加速しきった今となっては気付いたところで反応は間に合わない。小刀は狙いすましたように、丁度、男のこめかみを貫くように振るわれて――。
(――死ぬがいい)
一閃。
「あ、え……??」
刃は、そのまま男のこめかみを綺麗に貫通した。
生死を確認するまでもないし、部屋の内部にいたもう一人の『女』など警戒するまでもない。
異能が生み出した空気のクッションで着地した男は、無駄のない動きで素体に詰め寄る。目の前の光景が信じられないように瞳孔を開いた素体の首筋に鋭い手刀を叩きこみ、瞬時に意識を飛ばして抱えた。
これで素体は無力化し、障害もほぼクリアした。
(師父の夢がまた一つ叶う――喜ばしきかな)
この素体に師父がどれだけの期待をかけていたかを思い出すと、むしろ素体をどうにかしようとした一般人が滑稽でさえある。恐らく死してなお何が起きたのか理解していないのだろう。
周囲の目に警戒しつつその場を離れようとして――女が部屋の中に見当たらない事に気付く。
妙だ、先ほどまで気配があったのだが……素体を警戒し過ぎて勘が鈍ったか、と首を傾げる。すぐさま臭いで追跡を掻けようとするが、追跡を開始すると同時に、信じられない事実に気付いて振り返った。
男の死体が、ない。
先ほど殺したはずの男の臭いが、消失している。
「なっ……そんな馬鹿なことが……ッ!?」
その場には死体どころか一滴の血の痕跡すら残っていない。
冷静でいた筈の心が、ほんの一瞬だけ冷静さを失う。
あり得ない、確かに小刀で切り裂いた手応えがあった。あれは殺したはずだ。瞬間移動の異能であろうが肉体を再生させる異能だろうが、瞬時に脳を破壊されれば何も出来ずに死ぬはずだ。
なのに、何故――?
そこに至って男は、大気に乗って微かに聞こえた物音に気付いた。
足音、三つ。場所はおそらく建物の裏口。
一体何者だ。この建物には三人しか人間はおらず、一人は殺し、もう一人はこの手に捕えた筈では――。
「……まさかッ!?」
男は素体を抱えたままに建物内に土足で侵入し、突き当りの窓の外を見下ろした。そこには殺したはずの男と、室内にいたであろう女、そして素体と全く同じ姿をした少女が走っていた。
「素体が、二人……? いや、まさか僕が確保したこちらの素体は!?」
声を荒げて確保した素体を見た彼は、自らの顎を噛み砕かんばかりに歯を食いしばって憤怒の感情を剥き出しにした。
「アイテールで出来た、人形……!!」
確保した素体が、目の前で淡い薄緑のアイテールと化して大気に崩れ去っていく。触感や体温はあった。意識もあった。生体反応もあった。それでもこれは、異能によって造られたダミー人形であると結論付けるしかない。
まんまと引っかけられた――その事実に気付いた男の怒りは、瞬時に爆発した。
「おのれ……この僕を嵌めたな……! 師父の夢に立ちはだかったな!? この、薄汚い……日本人がぁぁぁーーーーッ!!!」
マモリが携帯端末のボタンをタップすると同時、事務所の全ての出入り口がシャッターで封鎖され、室内に睡眠ガスが噴射された。男の怒声ごと遮断された様子を確認した数則は笑う。
「馬鹿が見る
以前にトラブルが起きた際に
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