第4話 金じゃ買えないものもある
私の住んでいた世界はとても狭くて、数センチ先の窓の外さえもまるで宇宙みたいに手が届かない遠い所だった。
いつも周りには感情のない顔をした大人がいて、服を着るのも食事をするのも全て人の手を借りずには出来ないくらいに徹底的に管理されていた。
みんな私の目の前では感情の変化を見せる事がなく、実験動物とはこんな気分なのだろうと思った。事実、彼らは少なからずそう思っていた。
外の事は殆ど教えられなくて、今でも文字が書けない。『盗み見』する知識にも限界があるし、頼んでも外に出られない。奴隷と言うには柔らかく、普通と言うには狭すぎる世界。
それでも、そこにいればご飯は食べられるし寝床にも困らない。だから何年も何年も、私はそんな世界で生きてきた。生かされているのだから、少なくとも生きることにだけは困らなかった。
外には出たかった。でも、正直に言うと外への好奇心より恐れが勝った。『覗き見』の途中でよく接する感情が、足を鈍重にさせた。
『気味の悪いガキだ。できれば近寄りたくないな』
『ボスに頼まれなければ、誰があれの世話などするか』
『子供の姿をした化物め。精々我が組織で役立つがいいさ』
私は、誰にも好かれていなかった。
そして好かれない理由は、いつだって大人たちがあんなにも求めている筈の力の所為。求められて力を使えば使う程に私は孤立していった。
――どうしてこんな力を持って生まれてきてしまったんだろう?
力がなければ今頃私は外の世界で、同じ年頃の人間と一緒に過ごしていたかもしれないのに。こんな狭い世界の中でさえ化物と呼ばれる私が外の世界に踏み出しとき、果たして居場所なんてあるのだろうか。
力がある限り、ここから出してもらえない。
そして、自分と力は切り離せないから、仮に外に出てもまた化物呼ばわりされるだけ。
だから今までずっと、私は『盗み見』で得られる知識だけを楽しみに、勝手に外の想像を膨らませる毎日を過ごした。そうすることで空虚な心がほんの少しだけ満たされたからだ。
それがずっと続くと思っていた。
でも――聞いてしまった。
『もうすぐあの子供の不完全性に煩わされる必要もなくなる。もうシステムそのものは完成するんだからな』
『残った身体はどうする? 若い臓器は高値で売れるが』
『いや、万一クローニングでもあの能力が別の組織に渡ったら面倒だ。遺伝情報が残らぬよう完全に処分する』
『次の食事に薬を盛って、その間にやるぞ。抵抗されても面倒だ』
それがどういう意味なのか、全ては理解できなかった。
でも、『覗き見』ではっきりと分かった。
私は大人に必要とされなくなる。
生かされる自分が生かされなくなる。
――このままだと、わたし死んじゃう!
じわり、じわりと染み込むように足元から押し寄せる恐怖。
それが心に満遍なく染み込んだ瞬間、爆発した。
生物にとって普遍的な死への恐怖、その発露。
壁越しに食事を運びに来た大人の頭に、その感情が雪崩れ込んだ。感情の爆発によって予想外の規模で発生したその頭を『
突然脳裏に飛び込んできた『死』のイメージ。
その恐怖は他の人間の頭に飛び移り、強制的に恐怖させられる感情が更なる恐怖を産む。増大された恐怖は連結させられた意識の中で加速度的に膨れ上がり、まともな判断力を残した大人がいなくなるまでに時間は掛からなかった。誰もがその死の恐怖に耐えられず、目を剥いて子供のように泣き叫んだ。
使い物にならなくなった大人を掻い潜って逃げながら、私は後ろを振り返る。目の前に広がる阿鼻叫喚の光景を見て、感じて、その光景を引き起こしたことを自覚する。
そして、思う。
――大人の言う通り、私って本当に化け物なんだ。
突然の裏切りで、周囲に頼れる人がいる筈もない。それでも大人に捨てられて死ぬのが怖くて、この場所まで捨て身の思いで逃げて来たんだ。憧れた筈の外の世界を満足に見ることもないままに。
こんな力を持ってしまった自分を助ける人間なんていない、とつぶやく大人たちの言葉が嘘だと自ら思い込みながら。
今、私の前には見たこともな不思議な力を行使する大人が二人もいる。この二人以外にも不思議な力を持つ人は沢山いて、ここはそんな世界だという。
そんな世界なら、私にも居場所がある。
――本当に?
この世界でも私の力が化け物だったら、私はどこに行くの?
数則は私の力を「凄まじい」と言った。それが褒めているのか、恐れているのか――私は助かめる勇気がなかった。確かめてしまったとき、そこにある感情が拒絶であれば、もうどこにも私の居場所はない。
安心を得るか、絶望を得るか。
選択そのものが恐ろしくて、逃げ出したくなるほど恐れた。
それでも、私は希望を見たい。
外の街をちゃんと見て、着たことのない服を着こなして、普通に生きるというのがどういうことなのか知りたい。
――わたし、もっと自由でわがままに生きたい。
◇ ◆
『
隣で腕を組んで壁に凭れ掛かっていたマモリが、にやっと笑う。
「交渉成立かな?」
「ああ、確かに依頼を承った。行こうアビィ、自由への道を俺達が切り拓いてあげるよ」
数則と全く同じ仕草で同時に涙をぬぐったアビィは、ここにやってきてから初めて、満面の笑みを浮かべた。
「……はいっ! お願いします!」
人の悩み、苦しみの数は果てしない。
そのしがらみを一つでも解放できるなら、それが数則たち『プラムなんでも相談事務所』の仕事で間違いない。
◇ ◆
郊外にあるビルの一室を、初老の男がゆっくりと歩いている。上等そうな白いコートに身を包んだ男は柔和な微笑みを絶やさないまま、同じく部屋にいる男の周囲をゆっくりと回っていた。
初老の男の態度に反してもう一人の男性の顔面は蒼白であり、血の気の失せた表情からは脂汗が滲み出ている。
「大変なことになりましたねぇ……ああ、いやいや。責めてはいませんよ? むしろ喜ばしいじゃないですか。彼女の能力は訓練された戦士さえも同情させる可能性があったがためにベルガーは周囲に置きませんでしたが……なるほど、想定を超える素晴らしい力の発露です。このような使い方があったとは、私もまだ頭が固いですねぇ」
頬をほころばせる男は、手に持った書類を感慨深げに眺めながらつぶやく。その表情には、自分の工作の出来栄えを自慢するような誇らしささえ浮かんでいる。
「Aether ability Valid for Impel Ecad……頭の文字を取って
頬を紅潮させるほどに興奮したその饒舌な語りは、既に目の前に部下がいることも忘れているのではないかと思えるほどに熱が籠る。その姿はまるで子供のようで――子供だからこそ、男はこの上司が恐ろしい。
「して、捜索は?」
「……目下、現在回せる全ての人員を出動させて捜索しています。で、ですので――」
「大丈夫、貴方の事を責めてはいませんよ」
初老の男の手が、ぽんと男の方に置かれた。気遣うような柔らかさを持った手だった。だが、それでも男の顔色に安堵は一切なく、むしろ震えは増大する。
この手。何の変哲もなく置かれたその手が持つ意味を、男は知っている。この手が決して近づいてはいけない、忌避すべき物であることを知っている。
初老の男は、そんな彼の心を知らず、心苦しそうに目尻を下げた。
顔に刻まれた皺が、より深い影を帯びる。
「この失態で君の責任を追及する気はないさ。君は速やかに、用事を済ませればそれでいいんだ」
「ひっ!?」
肩に置かれた掌がゆっくりと動く。
万力のように、ゆっくりと、ゆっくりと男の肩にめり込んでいく。
「見つけて、生きて連れ帰って、システムが完成する。その成果は失態を補って余りあるだろう。このような日本人だらけの地で、顔の形まで作り変えて研究を進めた君たちの苦労も報われるさ」
「ああ、あがぁ……ッ!?」
指先が脂肪の層を突破し、筋肉と骨、神経を鷲掴みにしながらも、なおもゆっくりとめり込む。着用するスーツの繊維ごとぶちぶちと神経や血管が千切れる音が鳴り響き、掴まれる男の口から激痛に耐えきれず嗚咽と唾液が漏れ、それでもなお襲い続ける痛みに肺が震える。
怪力、などという生易しい代物では断じてない。唯の馬鹿力であればどれほど男にとって幸運な事だっただろうか。振り払うどころか、そのような思考が追い付かないほどの鈍痛に蝕まれた男に出来ることと言えば、ただ歯を食いしばって「終わり」を待つだけ。
初老の男は組織の大幹部の一人であった。
悲鳴を堪えきれなくなりつつある自身の直系の上司で、日本進出とベルガーの異能を戦略的利用するための研究を行う研究者の側面も持つ。
そんなインドアで人当たりのいい性格をしている彼はしかし、部下からは他の幹部にもまして恐れられている。「このような光景」を何度も見せられる羽目になるからだ。
だが、幹部は自分の行為も相手の様子も気にせず、手を男の肩に押し込んでいく。気遣う言葉と相手を安心させるような笑顔はそのままに。まるで本当に自分の手が何をしているのか気付いていないかのように――。
「あの子は世間を知らない。目撃証言を探ればそう遠くない未来に見つかるさ。警察の方は別の人間が張っているんだろう? なら漁夫の利を狙うのも悪くない。直属の部下にも手伝わせるよ――」
ばりっ、と音を立てて男の方の皮膚が肉ごと裂け、鮮血が噴出した。
「……あああ、あぎゃああああぁぁぁッ!?」
「――おや」
血管は破裂し、筋肉はズタズタに裂けて血を噴きだし、鎖骨さえもへし折れる。想像を絶する猛烈な痛みと、急激に奪われる体温。恐怖と痛みに加えたショック死寸前の大傷に男の全身が痙攣し、口から泡と絶叫が噴き出した。
とうとう男は膝から崩れ落ちる。倒れた男を見て、初老の男はそこで初めて自分の掌に握られた彼の肩の肉に気が付く。倒れた際に千切れたそれを見て、初老の男はその目に深い悲しみを宿した皺を寄せた。
「あ、ああ……ああ、いけませんね。そんなつもりは……何年付き合っても異能という奴は嫌なものです」
「ひぁ……ぎ、ぎぎ……っ」
悶え苦しむことも出来ず死にかけの虫のように痙攣するその男のそばにしゃがみ込んだ初老の男は、自分で行った行為を忘れたように男を抱え上げる。
「ちゃんと苛立ちは抑えていた筈なんだけど……おーい、誰か! すまないが彼の肩を治してやってくれないか!」
「師父、またですか……いい加減ご自重ください」
「してるつもりなのですけどねぇ……いやはや、難しいですねぇ異能ってやつは」
握力で肩を握りつぶされた男は、大量の血を流しながら辛うじて残る意識の中で「だからこの人は怖いんだ」と呟いて、意識を失った。
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