33・邂逅

 大きめの岩に腰掛けて獲物を待つこと約半刻。俺の隣に立てかけられた竿は微動だにしていない。茂みの向こう側でぱちゃぱちゃと水遊びをしているのはエリスである。


「アスタ、そろそろ釣れた?」

「……お前が水遊びしてるから、魚が逃げてくんだぞ」

「おなかすいたよぉ。早くしないと死んじゃうよー」

「むう……」


 頭上からは夏を迎えて活性化した日光がじりじりと照りつけ、こちらの体力を著しく消耗させていく。

 澄み切った川の流れは緩やかで、林の中から飛び立った野鳥が水面に突撃しているのを見る限り、本格的に魚がいないというわけではなさそうなのだが。


「暑い、釣れない!やめやめ!」

 ついに俺は試合を放棄し、木陰へと転がり込んだ。仰向けになり、目を閉じる。早く早く、とろくに準備もせずに宿を発ったのが裏目に出てしまったらしい。


 ニルグレス大陸最北端の国「ガラド」を経ってから一週間。軍事国家リアーナを避けるように大きく東へ逸れつつ、俺達は南端の湾岸都市へと歩を進めていた。


 数日前に少女と共に逃げることを約束したのだが、俺と彼女はこれからどうするべきか、明確な答えを見出せずにいた。エリスの素性や記憶に存在しない「俺」の過去、リアーナ、そしてハピルの事、彼女の引き起こしたという謎の現象……エリスの前では格好をつけてみたものの、考えなければならないことがあまりにも多すぎる。


 今までのような日々に戻ることは不可能だろう……両国からの討手がそこまで迫っているのは明らかで、その上、現段階で最大戦力であろうホノカとはまだ合流出来ていない。これ以上エリスに危害が及ばないよう、とにかく今は逃げるしかなかった。


「もお、飢え死にしちゃうってば」

 そんな事を考えていると、ぺたぺたと足音が近づいてくる。水浴びを終えたエリスが戻ってきたようだ。身体を起こし、声のするほうへ視線を向ける。


「いや、今回の成果は散々だけどな、昔はドラゴンを釣り上げたことだって……」

 言いかけ、一糸まとわぬ彼女の姿が突如として視界に広がった。


「おわっ!あのな、今度人気のある所で同じ事をしてみろ。俺が御用になるんだぞ」

「世知辛い世の中になってしまったねえ……あ、じゃあアスタと喧嘩した時はその場で脱ぐようにするからね」

「……」


「あはは、うそうそ。ね、ちょっと手を出して?わたしが捕まえてこよっか」

 そう言って手を差し出す彼女の意図を察し、なるほどと頷いた。


「よし。どうか俺達をこの食糧難から救ってくれ……」

「うむ、まかせなさい」


 水に濡れてひんやりとした彼女の手を握り返し、意識をそこに集中させた。そうすることでエリスの運動能力を底上げする。


「ありがと!……とぉっ!」

 先程まで腰掛けていた岩の上から、彼女は見事な飛び込みを披露してのけた。


 リアーナでの戦闘の傷はもうすっかり癒えていたようで、雪のように白い肌を、夏の日差しが更に美しく引き立てている。盛大に水しぶきを上げたエリスを待つこと数分、沢山の魚と、満足げな笑顔をぶら下げて帰ってきたのだった。




「お腹いっぱい……今日は晩ご飯いらないかも……」

「同じくだ。それにしてもそんな才能があったなんてな」

 えへへと笑う。


「でしょー。わたし、昔は海の女だったのかもしれないよ?」「素潜りのか」「手掴みだしね」「すげえな、かかるのは自分への人件費だけか」「あはは」


 いつの間にか服を着ていた彼女との他愛もないボケあいが始まった。しばらく笑いあった後、無言のまま時間が流れる。事態は緊迫しているはずなのに、それを一切感じさせない程の時だった。


 膝を抱えていたエリスがぽつりと喋った。


「コルリアに逃げられたら、二人で漁師さんになろっか?」

 口元の表情は見えない。


「すっごい我儘かも、なんだけどね。わたしは、……逃げたい。自分で引き起こしたことなのは分かってる。わかってるよ。けど、勝てないよ。怖い……」


「……」


「でもね、一個だけ、言い訳させて。……昔は、自分を守るために、みんなから、アスタから逃げてた。でも今は、キミを守るために逃げたい……前とは違うの……」

「エリス……」


 いつの間にかこちらに向けられていた視線に、俺は喉元までせりあがっていた感情を飲み込む。


「追手は、俺達が北部の航路からランザッドに渡っていると考えているはずだ。あの辺りは商船は少ないし憲兵らの巡回は緩いしで、身を隠すにはうってつけだからな……今のうちに南下しきって、ホノカと合流出来るようにしておくぞ」


 立ち上がり、木陰につないでいた馬を引っ張ってくる。

「漁師になるのはまだ当分先の話でいいだろ。な?」


「……わかった」

 目を細めて言う彼女を抱き上げて馬に乗せ、俺達は林道へと足を踏み入れた。


 柔らかく道を吹き抜けていく風が心地良い。俺の脚の間にすっぽりと収まっている少女の金髪を見下ろし、問いかける。


「……さて、エリスの案内に従って進んでるつもりなんだが、今俺達はニルグレスのどの辺りにいるんだ?」


「んっとね、ハピルの東の国境を過ぎたくらいかな?……この調子で進めば、あと五日もすれば海が見えてくるはずだよ」


「ふうむ。やっぱり時間がかかるか……あの時ガラドに逃げたのはまずかったかもしれんな」

 少々不服そうな顔をする。「あれが最善策だったんだもん。リアーナから遠ざからなきゃならなかったし」


 彼女の言う通りか。幸いにも、ここまでで追手に居場所がバレるようなことは起こっていない……このまま幸運を引き続けるしかないか。


 さらに数時間が経過した。一度小休憩を挟み、馬に乗る俺達の影が伸び始めてきた頃。

 エリスが、不意に前方へ目を凝らした。


「なんだろ、あれ。人影……?」

 つられて俺も凝視する。夕陽を背にしているためよく見えないが、ふらふらと揺れながら近づいてくるそれは人間の姿である。身長から判断するに、子供だろうか。


 はて。

「なあ、エリス」

「ん、東の国境は凄い広い沼地になってるの。近くに街や村はなかったと思うけど……」


 そうこうしているうちに、徐々にその姿がはっきりとしてきた。深紅の生地に、黒のレースで飾られた丈の短いドレス。山吹色の髪を後ろで束ね、勝気そうな瞳でこちらを見ている。果たして、少女が可愛らしいお辞儀とともに声を発した。


「お兄ちゃんお姉ちゃんっ、こんにちは!」

「……あ、おい」


 すると、エリスがするりと馬から降り、少女の側へと近寄って行った。エリスよりも大分幼そうではあるが、身長に大した差はないようだ。


「こんにちは。わたしはエリス。後ろの人がアスタだよ」

「あたしはレオナって言うの!お姉ちゃん、エリスお姉ちゃんなんだね」

「.....?」

「うん、そうだよ。一人でお散歩してるの?」


 ドレスの裾を弾ませながら頷く。「うん!いいお天気だったから探検してたの!」

 小さな女の子が、こんな林の中を一人で散歩か……猛獣にでも襲われたらどうするつもりだったのだろうか。


「探検してたんだけどね、探してたものがぜーんぜん見つからなかったの。使用人さんには、夕ご飯までには戻って来てって言われてたのに……」


 そう肩を落とす彼女の頭を優しく撫でた。

「明日また来れば見つかるかもしれないよ。……もう直ぐ暗くなってくるし、わたし達が送って行ってあげよっか?」


 そこまで聞いて、俺はちょっとした違和感に気付く。


「見つからなかったって事は、探し物はもういいんだな?」「……アスタ?」

 地面へ飛び下り、エリスを後ろに下がらせた。


「うん、全然見つからなかったの。でも、もう大丈夫だよ」


 こちらが長剣を抜きざまに放った一撃を、飛び退って難なく避ける。


 少女は驚いたかのように眉をあげると、次いでにこりと笑った。それは到底淑やかなと呼べるものではなく……獣のように濡れた歯茎を見せた、凶悪な笑み。


「早くしないとディナーが冷めちゃうんだから。さっさと死んで頂戴、エリス・アルメリア!」

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