31・義は我に

「……って、アスタ!どうしたの、ねぇ!アスタ!」

 突然倒れてしまったアスタを抱き起こし、声をかけるが、返事は無い。


「一緒に生きてくれるって言ったばっかりじゃない……死んじゃやだよ!目を覚まして……!」


 慌てて首筋に手を当ててみる。どうやら脈も呼吸もあるようだ。気が抜け、その場にぺたりと座り込んでしまう。予想もしない出来事が次々と襲いかかってきた事で、疲労が頂点に達したのだろうか。


「そうだよね、保護者なんだから……しっかりしないと」


 彼の頬をぺちぺち叩き、意識が戻らない事を確認して背におぶる。とにかく、少しでも遠くへ……


「……貴様」


 不意に、背後から声がかかった。振り向かずに返す。

「やっぱり……敵との口約束なんて、所詮その程度だよね。わたしを斬るんでしょ?今なら無防備だよ」


「戦友との約束を破ると……そのような事、出来るわけが無いであろう」

「どういう風の吹き回しなの。ついさっきまで、わたしを殺そうとしてたのに……?」


 ゆっくりと振り返る。ホノカは俯き加減に立っていた。刀は腰に収められたままだった。


「アスタ殿は、二度も私の窮地を救ってくれた。一度目は不埒な輩から。二度目は迫る瓦礫から……其々状況は違えど、私はまだその恩を返しきれていない」

「わたしには関係ないことでしょ」


 疑念の眼を向け続けるエリスへと、ホノカは更に言葉を重ねた。

「大切な人だ、命の恩人なのだと。ヨモルにて剣を交えた時、アスタ殿が申していた。己の意志で、友の恩人を斬ろうとは思えぬ」

「…………」


 彼女の言い分は本音なのだろう。端々から滲み出る真剣さは、エリスの耳へ届いていた。


 それに真偽に関係なく、この状況で新たに戦力が加わるのは大きい。彼女の戦闘力を鑑みても、素直に力を借りるのが得策である。

 エリスが口を開こうとすると、さらなる事実が告げられた。


「指揮官殿が……お亡くなりになられたのだ」


 声に出しこそしなかったが、その報告に軽い衝撃を受けていた。長年わたしを良いように使ってきた、海に落ちても、毒を用いても倒れなかったあいつが……


「あの方の意志を仰げぬ以上、貴様を斬っても意味が無い……そして私は、指揮官殿を撃ったあの者を許してはおけぬのだ」

 ホノカの語気が強まる。


「何時かはアスタ殿に恩を返し、ノエルとやらを倒す……なればこそ、貴様に助力致そう。異論は無いな?」

「……分かった」


 利害が一致し、互いに頷き合う。肩を貸そうとホノカが言い、気を失っているアスタを間に挟んで、二人は走り出した。


 息を切らしつつホノカが喋った。

「しかし……この状態で逃げ切れる自信はあるのか?恐らくすぐそこまで追手が迫っているのだぞ」


「む……自信はって、あなたが皇女さまを逃しちゃったんでしょ」

「うぐ……黙れ」

 その様子にエリスが溜息を吐く。しかしそれを気に留めず、結った黒髪を揺らしながら彼女は走り続ける。


「……予想外な事があったのだ」

「……?」

 ホノカがにわかに信じがたい事を呟いた。


「あの女、人の記憶に干渉出来るらしいのだ。しかもその他にも何やら隠しているようだったが……」

「聞いた事もない技だけど、それは……術法なの?それとも、」


「いや、まず術の効果であろうな。だが奴め……指揮官殿をどれだけ愚弄すれば……!」

「それには同情するけど、落ち着いて。今はこれからの事を考えないと……」

「ぬ……すまぬ。だがあの戦況からでは増援を呼ぶ時間は無かった筈……恐らく私達が広間に現れた事は想定外だったのだ……」


 彼女を横目に、エリスも思案する。確かにホノカ達が居なければ、あの兵の数で充分二人を捕らえることは出来ていた。更に、直ぐに援軍を駆り出すのは難しいであろう事。白鎧の巨躯を沈めた程の腕、ほんの短時間ではあるが感じられたノエルの執念深さ、口振り……全て推測ではあるが、今の絶望的な状況には寧ろお似合いの判断材料か。


「ねえ、ホノカ……さん」

「……ホノカで良い」

「じゃあ、ホノカ。……賭けに乗ってみない?」




「はぁ……っ、はぁ…………」

 既に全速力だった歩調はのろのろとした歩みに変わり、ぬかるんだ地面や木の根に何度も足を取られる。それでも、エリスは必死に林の中を縫って進んでいた。先程まで隣に並んでいたホノカの姿は見当たらない。


「……アスタ……もう、ちょっとだから……頑張ってね……」

 呼吸を整えようとしながら、目を覚まさない彼を背負い直す。と、前方から、微かに人の気配を感じた。


「っ……!」

 熱い咆哮とともに打ち出された弾丸が、足元の地面を抉り飛ばした。こちらに歩いてくる人影は徐々に大きくなり、汚れひとつ付いていない薄青の衣装と、さされた小さな傘が眼に入る。回り込まれていた……エリスは小さく歯噛みした。


「あらあら、迷子かしら。舞踏会場は反対方向ですわよ?」


 ノエルは歩みを止めず、ゆっくりとこちらに迫る。

「苦労しましたのよ?貴方達、思っていたよりもずっと遠くへ居るんですもの。別隊を向かわせようかとも考えましたけど、やっぱり止めたわ。陛下の身に何かあったら大変だものね……」


 恐らくは広間でアスタに術を放った隊の事を話しているのだろう。彼女が単身追ってくるという予想は正解だった訳だ。


 銃口をエリスに向けて、ノエルが言う。

「さあ、陛下をこちらに……ふふ、悪いようにはしませんわ」

「く……」


 言葉を返す気力も残っていない。おぶっているアスタを庇うようにして、じりじり後退していく。

「逃げられると思っているのかしら……はぁ、私も随分と甘く見られたものね」

「…………」


「良い?貴方のような女と陛下では不釣り合いじゃありませんこと?やはり陛下と結ばれるのはこの私でなくてはならないのよ」


 彼女は言葉を駆使してエリスを嘲り、蔑む。奴の挑発に乗ってはいけない……なんとか距離を取ろうとするが、人ひとり背負ったこの体制で下がり続けるのは少々厳しい。逆に間を詰められ、次第にノエルの表情がはっきりしてくる。


 エリスの疲弊しきった様子とは対照的にノエルは愉快そうに顔を歪め、

「もしかして貴方、陛下を盾にしていれば撃たれないとお考えなの?それなら」


 ドウッ!!

 破裂音が響き、アスタの身体と重なっていなかったエリスの膝が、いとも簡単に撃ち抜かれた。


「ぐ……う……っ!!」


 経験した事のない痛みが彼女を襲った。殺し屋の経験を活かし傭兵として生きていく中で、銃火器を保有する軍や兵と戦った事は何度もあったが、それらと真正面から対峙した試しは一度として無かった。


「まさか、どうして私が犯人だと分かるの!?なんて言わないで頂戴な?とうに調べはついていた。それに貴方が陛下を連れて下品に笑っている姿を見ればお察しよ」


 歯を食い縛り、己を叱咤し、どうにか踏み止まる。ここでアスタから手を離してしまっては、これまでの全てに意味など無かったことになってしまう。


 けたけたと笑い声があがった。

「なす術なく貰う玉のお味は如何かしら?南方の大国に頭を下げてまでして造った一品なのよ」


 酷い耳鳴りがしていた。穴の開いた左脚の感覚は既に失われ、限界を迎えているエリスの身体に、ノエルの声だけが異様に大きく鳴り続けている。


「忘れられないわ……あの時受けた辱しめも、貴方が陛下を貶めたせいなのよ?結果的に罪の無い民まで巻き込んで、」

「ふん……それは、そっちも……でしょ」


 思わず口を開いてしまうと、銀の髪の下で彼女の眼が輝いた。


「やっとその臭いお口を開いてくれたのね。残念ながら外れよ、私はハピル侵攻については何も知らない、していない……」

「……」


「私はその後に絶対的な力を得た。……何処の誰が引き起こしたのかなんて興味も無いけれど……あのラヴェスケープの輝きは正に、この薄汚い醜女を不気味に可哀相な姿に晒しあげ、高らかに陛下を取り戻しなさいという神からの尊い御告げなのよ!」

「うるさい……」


 そのラヴェスケープを起こした当人のエリスはぼそりと言う。アスタという獲物を連れて自ら敵地に入り込み、その上、過去には敵に塩を送るような真似までしていた自分の不甲斐なさに情けなくなる。どれもこれも、己が引き起こした現状だったのだ。だからこそ、ノエルの言葉を聞きたくなかった。必死に頭を振って、自分の中の殻に逃げ込もうとする。


「貴方のせいでリアーナは滅びた、陛下は姿を消してしまった……私は決して愛国心が強い方では無かったわ。けれど、折角の火計を潰されて、軍が事実上の戦闘不能に追い詰められた時のお父様の顔は今でも鮮明に思い出せますの」

「うるさい……」


「あ……そうだわ、あの大男さんを殺しちゃう前に、色々と面白いお話を頂けましたの。ねぇ貴方、あの男の×××だったそうじゃない?」

「…………!」


「捕らえられてからというもの、良いように弄られていたそうね?確かに貧民街でひもじい思いをしているよりはずっとましかしら。いっぱいいっぱい良くなれちゃうんですものね、私も人生で一度は体験してみたいものだわ……」

「うるさい!」


「思い出して声が大きくなっちゃったのね?でもお薬のお陰で体は綺麗なままでいられたのでしょう?ねえ、一体どんな感覚だったの?恥ずかしがらずに私にも教えて下さいな」

「うるさいうるさいうるさい!!」


「やっぱりそうよ、穢れた中古品に陛下は不似合いですわ。私の城で汚い豚共の介護をお願いできるかしら、そちらの方がお似合いだわ。産まれたゴミは私が処分しておいてあげるから……どう?子猫さん?」

「黙れええぇぇぇぇ!!!」


 気付いた時には飛び出していた。支えを無くしたアスタが背後で倒れる音がした。


 短剣を引き抜き、ノエルに飛びかかる。あいつを殺したい。しかし意志とは裏腹にいつまで経っても刃が届くことはなく。


 愛剣が何度も空を切る。当然刃が届くことはなく。


 しめたとばかりに銃弾が放たれ、身体のあちこちに絶望がのしかかる。わざと急所を外して遊ぶかのように、四肢が穿たれるのが分かった。


 出来損ないの玩具のように腕を振るう。足を前に出す。


 アスタの言葉だけがエリスの原動力になっていた。植え付けられた愛と知って尚それを本心と叫び、一緒に逃げようと言ってくれた。四年前、森の中の住まいで彼が初めて目を覚ました時の寝惚けた顔を、今更のように思い出す。


 遂に膝がくずおれ、大地が一気に持ち上がる。その様を眺めて楽しげに笑う影が見えた。それは得物を撫で回し、構え、引き金に指をかける。


 このまま殺されるのだ。安い挑発にまんまと乗せられて、過去に振り回され、大事な人すら守れずに。


「ごめんね?アスタ」

 もごもごと唇が動く。口から血が溢れた。


 ……どうして謝るんだ?……まさかもう菓子を……

「ごめんね」


 ……あのな、あの街まで買いに行くのにどれだけ掛かると思う?少しはこっちの苦労も……

「馬鹿だよね、わたし」


 ……確かに菓子を食う事に関しては、人一倍凄いな

「む……」


 ……はいはい。今回だけだぞ。あとは当分買ってこないからな。分かったな?

「ん……えへへへ」


 開いた口に銃口が突き込まれる。

「あら、近くで見ると案外可愛いじゃない。……ふふ、最期に面白いものが見れたわ」


 誰にともなく、エリスは笑っていた。

「……えへへ」


 すると、それに応えるかのように。


「醜いのは貴様の心だ、下衆女め!今度こそ逃しはしない!」


 警戒を怠ったノエルを手刀が刺し貫き、ドレスを引裂き、肉を割って腹から指先が飛び出る。


「っ…………!!」

「ーーおおおおおぉぉぉぉっっ!!」


 ホノカを中心に、世界が白く煌く。絶対零度の輝きが青のドレスを包み、銀髪を白に染め上げ、発せられた冷気は春の大地を凍てつかせた。


 辺り一帯が冬に逆戻りしたかと錯覚する程に気温が下がった。物言わぬ氷塊と化した女帝から手を引き抜き、エリスを抱え起こす。


「よく耐えた……!貴様の賭けは成功したぞ」

「えへへ……う、げほっ」

「もう良い、静かにしていろ」


 ホノカが馬を引っ張り、その場に連れてくる。


 夜を越えてやってきた陽光が、三人を僅かに照らす。馬の背に揺られながらアスタを抱きしめ、エリスはえへへと笑い続けていた。

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