30・誠意と嘘と
少女の背中の動きに合わせて、俺の身体も揺らされる。
外に敵影は見当たらなかった。会場の状況を見て撤退したのか、或いはそこまでする必要はないと踏んでいたのか。
つい先程まで晴れていたのが嘘のように、垂れ込めた暗雲から雨が降り始めた。
「……雨だな」
「…………ん」
エリスは俺を背負って、必死に足を引きずっている。打ちつける水滴の異常な冷たさが、朦朧としていた意識を無理矢理に覚まそうとしてきた。
「な、やっぱり俺も歩けるから……」
「だめ」
雨足が強まる。気づけば郊外を更に抜け、何処とも知れない林に踏み込んでいた。
「流石に冷えるな……」
「……ん」
彼女の息遣いが荒い。一体どれだけ進んだのかそれさえも定かではなく、彼女の体力の限界が近い事だけを明確にしていた。
これから何処へ向かおう……あの森の中の家に帰る?それは出来ないだろう。そもそも俺達は、何故ノエルと名乗った皇女様から逃げているんだ?俺の過去について知っている風な口振りだったが……いや、それはエリスも同じか。
「なあ、エリス」
「……」
「お前は……俺が、記憶を無くす以前は皇帝さまでしたって言ったら、信じるか?」
「あはははっ」
ぬかるみに足をとられ、二人まとめて泥まみれになった。隣で少女がごろりと仰向けになる。
「あーあ」
「せっかくの宴が台無しだな」
「ほんとだよ……どうしてこんなになっちゃったのかな……」
「それは……」
お前がよく知ってるんじゃないのか?
言いかけた寸前で、言葉を飲み込んだ。エリスが呟いた。
「私、死んじゃうかもだね……」
「……まだ分からんだろ」
「……恨んでる?私のこと」
「見当もつかないな」
その返答をどう受け取ったのか、細く息を吐き出す。
「結局こんな事になっちゃうなら……キミなんかほっといて逃げてれば良かったんだ」
「……?一体どう言う……」
泥の上で寝転がったまま、時間が過ぎる。追手が心配だが、ここは真っ暗な林の中。しかもこの悪天候だ。見つかるにしてもそれなりに掛かるだろうか。
化粧も落ちて、へどろですっかり薄汚れてしまった唇を動かして、エリスは話した。
「……本当は、わたしはアスタのこと、これっぽっちも好きじゃないんだ」
「昔のわたしはね、簡単に言うと、所謂殺し屋だったの」
「とある戦争でね。あの男に……あいつに捕まって、それからはあいつの言う事を聞き事しか出来なかった」
「幾らか年が経って……突然、仲の悪かったリアーナが、こっちに……ハピルに攻めてきたんだ」
「敵うわけ無かった。その頃は軍事国家なんて言われてて……兵力から何から何まで、向こうの方が上手だったもの。それにハピル中に火なんか着けちゃって」
「そんな時、わたしはあいつに命令されて、キミの寝てるところに忍び込んでいったの」
「キミが死んじゃえば、戦争は終わるはずだったの。お父さんもお母さんもお兄ちゃんも、リズ、エリアスに、それにフィリだって……みんな助かるんだって。でもね、」
「キミ、まだまだ子どもだったんだ。うちの宰相も知らなかったみたい」
「馬鹿な話だよね……強行軍にしたって、あんまりにも情報不足だった。」
「でも、やらなきゃ。 失敗したら、私はすぐに殺されちゃうから」
「でもね。キミ、死ななかったんだよ」
「わたしね、キミを殺すのに毒を使ったの。それなら外傷はつかないし、手で触れなきゃ分かりっこないから。あれ、作るの大変だったんだからね?」
「わたしの薬物人生の中でも、あれは特別凄い毒……それを飲み込むと、頭の中が滅茶苦茶になって、記憶とか思い出とか……全部が溢れ出してきて、心をぼろぼろに壊して、人を一生、動かない人形みたくする毒」
「注射とかじゃなくてね、傷を残さないように、口移ししたんだよ。初めてだったんだから」
「それでね……それで、わたしね。馬鹿みたいに緊張しちゃってて」
「自分の心臓の音しか聞こえないくらいに緊張してて……そしたらね、」
「目の前が虹色になって、光がどんどん溢れてくるんだもん。ついにわたし、おかしくなっちゃったって、」
「そしたらね。面白いんだよ、アスタ、いきなり起き上がってね、わたしにキスしたら、また眼を閉じちゃったの」
「作戦は失敗。ハピル自体も敗北寸前……わたしは、キミを連れて逃げる事にしたの……討手から……白い鎧のあいつから。今日みたくして、その重い体をおぶって」
「毒がね、一生効果が切れない惚れ薬になっちゃってたんだよ?」
「あの光のせいだってすぐ分かった。そんな信用の無いものでも、ちゃんと効果は発揮してるし……」
「だから。……だからキミのわたしに対する気持ちは、愛はニセモノ。嘘のものなの」
「まさかあいつも、わたしが国元に居るだろうとは考えないかな、って……あんな森の奥に隠れて、キミと暮らして」
「見つかりそうになったから、遠くに引っ越そうかな、なんて言って」
「せめてもの罪滅ぼしに、なんて勝手に思って……キミのために、頑張っておめかししたけど」
「多分だけどね、キース達は皇女さまとくっついてたんだよ。蔵の中で貴重な毒花を見つけて、想像通り、お酒に毒を盛られて……」
「結局こんな事になっちゃうなら……キミなんかほっといて逃げてれば良かったのに」
「本当は、アスタはわたしのこと、これっぽっちも好きじゃないのに」
「ばかだよね、ばかだよ、ばか…………」
少女は静かに泣いていた。約四年もの間逃げ隠れして、今この瞬間、結局命を落としかけている自分を嘲っているのだろうか。それとも……。
その横顔を見つめる。彼女なりに決意を固めて話してくれたのだろう。広間でノエルが言った事の意味も理解できた。しかし、それ全て信じることは、今の俺には難しい。
再びエリスが口を開いた。
「ね、アスタ」
「なんだ?」
「私を殺して。それで、キミはそのまま今の皇女さまのところに行けば……」
「何を言って……」
「そうすれば、キミが、アスタが幸せに過ごせるから……だから……お願い」
その一言を聞き、俺は起き上がって彼女を引っ張り立たせた。そのちいさな両手を握り、眼を合わせる。
「ここで死んで、全部投げ出すつもりか」
「だって……だって、キミは悪いことは何もしてないんだよ?一緒に逃げる必要も無いんだよ。今からでも戻って、」
「だが、お前は俺の保護者なんだよな。俺を拾った責任があるんだろう?」
「でも、それは……」
「見当もつかないな」
「え……?」
唐突な台詞に、彼女の表情が一瞬強張る。
エリスの話や、ここまで起こってきた出来事全てを信じてしまうことはまだ難しい。信じたところで、これからどう生きていけば良いのか想像すら出来ない。確かに、そういう事ならば、今すぐ踵を返して皇女さまとやらの下へ向かえば全て解決するのだ。ノエルと懇ろになり、皇帝の地位に復し、リアーナの復興に精を出し……
「どうしてその程度で恨まれると思ったのか、俺には分からない」
「どうしてって……」
今、全てを信じることは難しい。だが一つだけ、はっきりしている事がある。
「俺がエリスに好いてるのは、超強力な薬の所為だって言ってたな?」
「けどな、記憶も思い出も……全部無くした俺からすれば、例えそれが植え付けられたものだとしても、嘘偽り無い本心なんだ。胸に空いていた穴を埋めてくれた拠り所なんだよ」
「だからこれだけは信じられる。俺はエリスに恋をしている。お前が居ない世界に、生きる意味なんか見出せない」
「だから見当もつかないんだ。お前がどうしてそんな事を考えてたのか」
「アスタ……」
「恨んでなんかいないさ。だってお前は、俺に愛をくれたんだからな」
俺より頭ひとつも低い、華奢な身体を抱きしめる。
我ながら、顔から火が出るほど小っ恥ずかしい台詞ではあったが、これで想いを伝えることは出来たはずだ。
すっかり泥で汚れた髪を撫でてやりながら、エリスに話しかける。
「一緒に逃げよう。皇とか国とか戦争とか、知った事か。俺にはその記憶が無いんだからな」
「うん。うん…………」
涙でぐしゃぐしゃになった顔をあげ、彼女は心地良さそうに笑った。
「……何処に引っ越すか、全然決めてなかったね」
「アルマにでも行くか?毎日温泉通い出来るぞ」
「もう……とにかく、そうと決まれば急がなきゃ」
頷いて同意する。どれ程時間が過ぎたか把握出来ないが、追手がすぐそこまで迫っているのは確かだろう。
ぬかるみから足を踏み出した時……
「……って、アスタ!どうしたの、ねぇ!アスタ!」
身体が沈む感触と共に、ぷつんと意識が途切れてしまった。
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