24・渓谷にて
隣国とはいえ、ここからリアーナまで向かうには馬でも数日かかる。
夜が明ける頃にハピルの国境を越え、両国間にある渓谷へと足を踏み入れた。舗装も何もされておらず不便極まりないのだが、この河沿いに進んでいく道が一番近い。両側を切り立った崖が走り、昼間でも薄暗い。細く流れる川のせせらぎが渓谷に落ち着きを与えていた。
俺は車から身を乗り出し、馬を御しているエドワードに声をかけた。
「なぁ、ここいらって猛獣の類が出たりするんじゃないのか?」
「そうですねぇ、時期も時期ですし。そろそろ山から降りてきていると考えて良いかと」
振り返ってそう答えた。
「なら交代したほうが良くないか。俺が手綱を引くから」
若干不安そうな俺に、例の如くにこやかに微笑んで手を振った。
「いえいえ、それには及びません。こう見えても私、中々やり手の術師なのですよ?」
「自分で言うのか」
「この場には証人が居ませんので。それよりも、お嬢様の面倒を見ていて頂けませんか。長旅で疲れていらっしゃるでしょうし……」
「いや……」
渋る俺の背後では少女二人が談笑……もとい、恋愛話に華を咲かせていた。
「ね、キースはどんな人が好みなの?やっぱり顔から入る感じ?」
「いえ……私は外に出たことなんて殆ど無いので……」
「あなたくらいの子だったら、縁談もひっきりなしだと思うんだけどなー」
「まさか。そんな事は……」
「じゃあお屋敷に奉公に来ている男の人とか……気になる子とか居ないの?」
「ううん、余り……」
「むむ、それならさ……」
頑なに防衛線を張る少女にエリスが苦戦しているようだ。
女性は恋話が好きだと相場が決まっているが、徐々に白熱していく過程で乙女の口からは出てはいけない言葉がバンバン飛び交っていた。この中にどうやって入り込めと言うのか。
やがてぎゃあぎゃあ騒ぎ始めた女衆の宴を覗き、彼が苦笑いする。
「詰めれば二人座れそうですね……どうぞ、こちらへ」
窓からそちらに飛び乗る。とっくに春も深まってきた時期だが、外の空気は肌寒い。
空には雲一つなく、黒天井に水色の亀裂が走っているかのようだった。
「この辺りはまだ冷えますね……確か毛布など積んでいたはずですので……」
「……いや、大丈夫だ」
態々あの中に戻る必要は無い。改めて周囲を見回す。
「この気温なら、獣もここまで来てはいないでしょうね。のんびり行きましょう」
「そうだな……っと、あれは……」
そんな事を話しながら進むと、何やら前方に黒い影が蹲っているのを発見した。この話題が出た時点で何となく予想はしていたのだが……。そいつは馬車の揺れる音で目を覚ましたのか、のそりと起き上がり、その巨体をこちらへと向けた。
隣で手綱を握るエドワードが呟いた。
「……いましたね、熊」
「やっぱりいるのかよっ」
ここは河と崖に挟まれた砂利道だ。迂回路などある訳もなく、慌てて車へ剣を取りに戻る。すると彼が俺の服の裾を引っ張って止め、手綱を渡してきた。
「ここは私めにお任せを」
ニコリと微笑む。
「貴方がたに頼んだ場合、別途代金を支払わなくてはなりませんので」
「いや、別に気にしなくて良いんだが……」
言い切る前に彼は馬車を降り、こちらを見つめている熊の方へと歩いて行った。それに反応した熊が二本足で立ち上がる。
両手を広げて吼えるその姿はゆうに三メートルは超えるだろうか。しかしそれに怯むこと無く、彼は悠々とその巨躯に向かっていく。
「おい、流石に……」
「まぁまぁ、見ていてくださいね」
そう言うと彼は両の掌を打ち合わせ……
「な……!」
一瞬にして、深い毛に覆われた熊の身体が業火に包まれる。それを見て満足そうに頷くと、こちらを振り向いてニコリと笑った。
「内側から綺麗に発火させましたので、調理の手間が少しだけ省けましたよ」
火の手が弱まると、大熊はブスブスと煙を上げながらその場に崩れ落ちた。あの威力に加えて、炎の出現位置を制御することができるのか。
こいつが敵じゃなくてよかったなどと考えつつ、俺も熊の回収を手伝う。
「さて、今夜は熊鍋にしましょうか」
暫くするとすっかり日が落ち、辺りを闇が包む。
俺たちは谷間を流れる川の側に火を熾して、先刻エドワードが退治した熊の肉に舌鼓を打っていた。
汁椀を両手で包んだキースが話す。
「この調子なら、明日の夕刻にはリアーナへと到達するはずです。最近ようやく検問が緩くなってきたところなので、割と楽に入国できますね」
「てことは最近まで何かあったんだな?」
「えぇ、貧民街の民衆が暴動を……」
そこからはエドワードが言葉を継いだ。焚き火で道化服の紅白がてらてらと光る。
「ハピルとの戦争から既に四年近くが経ちますが、未だ国の混乱は収まってはおらず……今回のように暴動が起こることも別段珍しいことではないのです」
それについては俺も幾らか把握している。前皇帝の直系にあたる皇子が世間から姿を消してしまっており、それが混乱の最たる原因なのだが……
すると、ここまで黙って話を聞いていたエリスが問いかけた。
「でも、居なくなった皇子様の代等になる人が現れたんでしょ?それで解決したんじゃ……?」
向かいに腰を下ろしている彼がかぶりを振った。
「ところが、そう言うわけにもいかないのです……簡単に申しますと、新皇は独善的な政治を敷くことに精を出しておりまして。混乱も相まって不満が募るのも早く」
「むぅ。……好き勝手するにはもってこいの環境だしな」
視線を落とした彼らに問いかける。
「因みになんだが、その皇さまの名前は?これからお世話になる国なわけだし」
彼は一呼吸置いてから、その名を告げる。
「ノエル・デア・ザルフェダート女皇陛下……です」
「女だったのか」
「今は亡き宰相様の一人娘だとか……」
「成る程。だからと言って、そう簡単につける地位じゃあ無いとは思うんだが……」
隣のエリスと顔を見合わせていると、道化が立ち上がって手を叩く。
「明日は早いですので、今日はもうお開きにしましょうか。熊も出ましたし、夜襲の警戒も怠らずに……」
その晩は馬車から天幕を貼って野営することにした。
二人一組で、交代で見張りに立つ。初めは俺とエリスが車から出、番を受け持つことにした。
「わ、さぶ……」
彼女が腕をさする。雪のように白い肌は、この闇の中でも色彩を保ち続けていた。
「場所が場所だからな……多少は仕方ないだろ」
言葉を返しつつ、弱く爆ぜていた先刻の残り火に枝を折って放り込んだ。
仕事場から寝床まで、普段から共に過ごしているだけあって、他愛のない話を幾らか繰り返すとすぐに話題が尽きてしまった。何処からともなく、遠慮がちな遠吠えが響いた。
ふと、膝を抱えて揺らめく火を見つめていたエリスが口を開いた。
「アスタ」
「ん……?」
「……ラヴェスケープって、聞いたことある?」
聞き慣れない単語ではあるが、知っている。
「何だ、いきなり。確か生物の持っている理がひっくり返る光……だとかなんとか」
彼女が少し曖昧に頷く。
「うん……でも、光を浴びたもの全部の概念がひっくり返ってるわけじゃなくて」
そう証言されて少しばかり興味を惹かれる。唐突に出てきた話だが、何か理由があってのことなのかも知れない。
「まぁ、言われてみればそうだよな。普通なら、生きてる生き物がそんなのを浴びたら死ぬしかないもんな」
「私にもよく分からないんだけど……」
「分かんないのかよ」
「大体の人は、幸せを不幸に変える嫌な光だ……って言うけど。でも、長く続いた戦争を終わらせた希望の光……って言う人もいるの」
「ふうむ。……つまりどういう事だ?」
彼女が少しつかえながら答える。一語一語、選びながら声に出していくのが分かった。
「えっと、済し崩しで……ハピルの人達は、戦に勝った、って喜んでるけど……リアーナは内政が混乱してて、下手に動けないだけだと思うの」
「今の平和は、所詮は休戦状態でしかないって言いたいんだな」
両国間の戦争は、ラヴェスケープの光によってどちらも兵を退き、収束したと聞いている。しかし正式に勝敗宣言したという話は無い。向こうの民がどう考えているかまでは予想し難いが、あくまで敵国に入るのだ。用心するに越した事は無いだろう。
こちらの顔をちらりと伺い、エリスが再び話を切り出した。
「だからね……はい、これ」
「おう?」
傍に置いてあった、大きな布を差し出してきた。広げて確認すると、かなり深いフードの付いたマントで、濃い黒のスカーフをくるんでいたものだった。
「向こうに着いたら、ね。余所者だってバレたら面倒くさそうだから」
「こりゃ助かる……んだが」
丁度肌寒かったので、早速マントを羽織りながら問いかけた。
「宴に出席する約束も立てちゃっただろ?あまり意味なく無いか、これ」
「大丈夫だよ。仮面を着けて踊るんだし、誰も人の顔なんか細かく見ないから。それにキース達の代理っていう立派な名目があるんだし」
心配しいだなぁ、と笑われては納得するほか無い。……エドワード達も、分かった上で俺達を連れてきていると信じたいところである。
ううむと一人で唸っていると、彼女がマントの中に潜り込んできた。いくらエリスが小柄だからといって少々無理がある。
「えへへ。あったかいねぇ」
「急にどうした。狭いだろうが……っ、自分のを持ってこい」
「わたしが小さいんじゃなくて、キミが大っきいの」
「車に毛布が積んであったな。取ってくるから待ってろ」
「なんで?くっつくのは嫌なの?」
「ぬっ」
「キミ、昔より凄い大きくなったよねー……まだまだ成長期なのかなぁ」
「知るか。お前は俺の親戚の叔母さんか」
「……保護者だけど?」
軽口の応酬を繰り返し、二人でおしくらまんじゅうを続ける。やがてこちらが根負けし、マントの中での同居を許可した。
「えへへ。あったかいねぇ」「……そうだな」
そこいらに落ちていた木の枝で焚き火を突っついている。「ふ、ぁ……」眠たそうにとろんと下がった瞼が小さく震え、欠伸が漏れた。
淡い金色の髪の少女は、普段よりも幼く見えた。
ゆっくりと時間が流れる。
どの位そうしていただろうか……こつん、と、彼女の頭が肩に乗せられた。
それを合図にして、緊張の糸が切れたかのように、二人目の見張り番の俺も眠りについてしまった。
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