5・蜂蜜パイと鍛冶屋
世界は、主に三つの大陸と二つの海から成り立っている。
一つは、東西に長く伸びた地形で南方に位置し、数多の民族や宗教がひしめく灼熱の大地「コルリア」。熱気に包まれている上湿度が高く、コルリア固有の生態系や極彩色の作物がウリだ。
また国や地域同士で和平を結んでいる例は少数で、宗教・民族間での紛争が度々起こる。
一つは、一年中雪が降りしきり、大陸全土が雪と氷に覆われた「ランザッド」。気温はほぼ毎日氷点下を下回り、雲が空一面に垂れ込めている。
しかし厳しい環境とは裏腹に、鉄鋼業や観光での集客で栄える国が点在し、人口は多い。「銃火器」の大量生産に成功した三大陸有数の国、「ランザッドの秘境」と呼ばれる温泉地を持つ国など。またその最北部には、気高き蛮族達の国と揶揄される「レタラモシリ」が存在する。
そして俺とエリスが住まう「ニルグレス」だ。
紹介した二大陸と比べると穏やかな気候で、豊かな土地面積を持つが、大地の大半を山地や大きな森が占めている。
西側いっぱいを深緑の国「ハピル」が陣取り、北には「リアーナ」が構える他には幾つかの小国があるのみで、四年前のハピル侵攻以降はどこもひっそりと静まっている。
ハピルの城下は森に呑まれるようにして存在している。リアーナがハピルの都を火にかけた際、「ラヴェスケープ」の光が上空から降り注いだ。全てを燃やし、焦土に帰す焔のコトワリが反転し、突如として木々が湧き立ち、城や家々を覆い尽くしたそうだ。
ハピルが「深緑の国」たる所以である。
復興が進んでいる今は、民も上手い具合に木々を利用して生活しており、その暮らしも以前とほぼ変わらない。
そんなニルグレスの西側、ハピルの城下からさらに郊外、国境にある小さな街のパン屋さん前の通りで、俺は長蛇の列の最後尾に立ち尽くしていた。
明朝。なんとか睡魔を退治し、馬を街の入り口前まで走らせた俺は、そこからは徒歩で噂の工房を目指した。
朝のひんやりとした風が頬を撫でていく。職人達は現場に向かい、たった今店仕舞いした酒場の店主が眠そうに目を擦る。普段は寝ているためお目にかかれない光景に、俺は早起きしたことを少しだけ心地よく思っていた。
しかしそんな気分も瞬時に砕かれる。噂の工房のある裏通り近くに差し掛かった時、俺は視界に飛び込んできた光景に唖然とした。早朝だというのに、行列は既に裏通りを折れ曲がり、橋を越え、一軒の果物屋の前まで続いていた。
恐る恐る、最後尾に並んでいる女に声をかける。
「あ、あの……」
「……なによ」
不機嫌そうである。当然だろう。俺だってこんな列に並ばされ、しかもそれが最後尾ときたらこうなる自信がある。
「これ、カナリアの列……なのか?だって店はずっと奥にあるはずだよな」
「…………そうよ」
「そ、そうなのか」
女は素っ気なく返事をすると、それきり振り向いてこなくなった。俺はその後ろにそっと並ぶ。
通りに人の行き交う姿が多くなる。朝の活気に満ちつつある街の片隅で、俺はそっと溜息をついた。しばらく待機していると行列が前進を始めた。
「や、やっとか…」
しかし安堵したのも束の間、大して進まず列はまた停止してしまう。これでは遅々として進まないではないか。
日は刻々と高く昇っていく。
そろそろ正午も近く、順番を待ちながら目を開けて寝るという高等術を新たに習得してしまった俺は、いつの間にか更に増えていた待ち人達にぐいぐい押されながら、なんとか店舗前まで辿り着いたのだった。
つい先程まで俺の介護を強要され、心底迷惑そうにしている御婦人に会釈しながら、ついに従業員に話しかけることに成功する。残された体力を振り絞り、俺は声を張り上げた。
「職人が命を賭して採取した黒王バチの純正蜜をふんだんに使った黒蜂蜜パイ、を六つ!」
「……お客さま、大変申し訳ありません……先程の方で最後になっておりまして……」
「六つ……」
「夕方までお待ち頂けるようでしたら、新しく焼き上げることも出来ますが……如何致しましょう?」
「ねぇ、今ので最後ですって」「あら、折角ここまで並んだのにねぇ……」
後列の人々が落胆の声を漏らしている。俺も流石に待っていられるほど暇ではないつもりだ。
俺はとぼとぼ歩きながら、今頃帰りを待ち構えているだろう彼女をどう宥めるかだけを考えていた。
「やってられるか!」
赤々と燃え盛る炉の中に、火箸で掴み上げた鋼の塊を放り込む。
「おわっ、テメ、何しやがる!」
作業工程を台無しにされたオルクが食って掛かる。「し、師匠!いけねぇですぜ、ここで暴れちゃあ!」その後ろから弟子が止めに入り、巨漢を何とか引き留めた。
「理不尽に遣いっ走りさせられる苦労がお前に分かるか!」
「うるせぇ、言いながら満更でもなさそうな顔しおってからに!」
彼は投げ込まれた鋼を急ぎ取り出してみる。
「お前さんのせいでやり直しだ。……それによ、漢ならこんなとこで文句垂れてねぇで、さっさと帰って〝ごめんよ〟って一言謝って来なや」
「ぐ……」
「ま、何だ、これも仲睦まじい夫婦になる為の試練だろな」
「俺はいつからあいつとそんな関係になったんだ」
「はっは」
適当に笑い返された。
パイを買いそびれた俺は直帰する気にもならず、隣街にあるオルクの工房に入り浸っていた。傍では、このオヤジの下で修行している男がふいごで風を送っている。
オヤジが手拭いで汗をぬぐった。
「だがなぁ、もう……3年以上経つんだろ?エリスの嬢ちゃんに拾われてからよ」
そんなに経つのか。そう言われて改めて実感する。
「いい加減……事に至っても良いんじゃねえのかい?」
「勝手な事を……」
「嬢ちゃんなあ……ありゃ良い子だわな、薬学に精通していて、仕事も結構もらえる兵士さんで、その上可愛い〜ときたもんだ」
何やら危険な匂いがするのは気のせいだろうか。
実は彼女を連れて、何度かここを訪れた事があるのだ。またオヤジとエリスとは、俺がここに顔を出すようになる以前からの知り合いらしく、彼の妻が、鼻の下を伸ばして接客するオヤジを工房奥へと引きずっていくのが毎度のことらしい。
「俺もリアーナの鍛冶場に暇を出されてから長いが……嬢ちゃん、俺がお前さんと知り合いになる少し前にな、ひょっこりここに現れてきよったのさ」
俺は唐突に語られる彼女の過去に強い興味を示した。
「……と言うと」
「ありゃ3年くらい前だったかな、国はずれの森の奥に、腕の立つ薬師様がいるそうだって近所で急に話題に上がっててなあ」
ふと、オヤジ背後の戸が開かれ、女が一人、こちらに向かって進んでくる。
「今までそんな噂はこれっぽちも聞いた事が無かったからな、嬢ちゃんとお前さんの事だって知った時は驚いたもんさ。まるでお忍びでこの世にやって来た妖精さんみてぇだなってーーーーちょっ、おい、待ってくれ!今回は俺悪くねえだろっ」
止める間もなく、巨漢は妻の手によって引きずられていった。俺は心中でそっと十字を切った。工房内が急に静まる。
オルクの話に焦点を当てて組み立ててみると、エリスは行き倒れて目も覚ましていない俺を担いで、ハピルの辺境へと引っ越した事になる。だが彼女は小柄で、俺より頭一つ分程は身長差もある。幾ら何でもそれは考えられないだろう。俺を拾った事によって食い扶持が増えた為、薬屋を開業したと考えるのが妥当だ。
「ふうむ……」
俺の知らなかった彼女のことをまた一つ知れたのだ、と少しむず痒いような気分を感じていると、背後から、彼の弟子に声をかけられた。
「……師匠どこか行っちゃいましたし……、僕がそこまで送りましょうか?」
またいらして下さい、と律儀に頭を下げるお弟子さんに見送られ、工房を後にする。
「……あ」
道すがら、すっかり忘れ去っていた蜂蜜パイの件を思い出した。
日は既に天高く昇り切っている。かなり長々と居座ってしまった。買い物失敗に加え、大遅刻の刑だ。朝食も摂らずに馬を飛ばして来ていた為、エリスの機嫌次第では今夜は断食生活を送る羽目になりそうだ。
何と言って謝るか思案しつつ、俺は街はずれの厩舎に向かった。
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