3・不穏

「おおお〜ーい、はやくぅ〜ー」

 はるか彼方から俺を呼ぶ声が聞こえている。

「ちょ、ちょっと待ってくれ……」

 もっと手前で止まってくれたっていいじゃないか。


 いつもは何だかホワホワとして捉えどころのないエリスだが、本日はやたらとご機嫌の様子である。二人でこんな樹海のような森を散策するのがそんなに楽しいのか、それとも。


「もぉー、男のくせに体力ないなぁー」

「なぁ、やっぱりちゃんと謝るから許して欲しいんだ……」

 ケラケラ笑う声が聞こえてくる。

「聞こえないふりー」

「づ……」

 思わず力の抜けた息が漏れた。

「乙女の柔肌を弄んだ罪は大きいのだよ……」

「どんな罪だ」


 木の根に足を取られながらようやく追いつくと、琥珀色の瞳が俺を見上げてきた。

「国境まで行くのかよ、俺」

「明日の朝、しっかり並んできてね」

「はい……」


 こう言うと語弊があるかもしれないが、俺達は先刻の皿洗いから更に発展する事に成功した。朝食前の冷水事件を未だ根に持っていたエリスが、俺に流水攻撃を仕掛けてきたのだ。互いに割と本気で水を掛け合い、台所は浸水。俺はそのお詫びに、明日の朝早くからパン屋列に並ぶ羽目になった。


 ハピル国境にあるパン工房「カナリア」は、早朝の開店から僅か数時間で全種パンが完売してしまう超人気店だ。

 俺は明日、そこの新作「職人が命を賭して採取した黒王バチの純正蜜をふんだんに使った黒蜂蜜パイ」を、夜明け前から成形される長蛇の列に並んで買いに行かなければならない。


 因みに、当のエリス本人は「カナリア」に直に赴いたことはない。

 彼女はハピル城下や近辺の村々に顔を出す事が全くと言って良いほどない。


「あはは、大変そうな顔」

「確かに、水遊びの代償にしては大きいな」

「アスタがもっとちっちゃな子だったら、大目に見てあげたんだけど」

「む……」

 俺は、ふと湧いた疑問を投げた。


「なあ、エリス」

「どうしたの?」

「そう言えば、お前って一体いくつなんだ?」

「あれ、こんなに一緒に暮らしてて、教えたこと無かったかな」

「いや……」


 数年も共に暮らしておいて歳も知らないのかと言われれば、それは確かにそうなのだが、彼女へのこの手の質問はよくはぐらかされる。

 乙女心というやつなのだろうか。


「ん、19とか、20?多分、その辺」

「自分より幾つか上と言っていたが……」

「私はそんなに幼く見えるの?」

「いや、そういう訳じゃ」

 となると、俺は18か19そこらになるのか。


 俺には過去の記憶がない。自身で歩んできた歴史も綺麗さっぱり忘れてしまっている。

 改めて確認する俺を横目に見ながら、彼女は歩みを止めた。

「この辺りでよさそうかな……?」


 そう言いながら自身の周囲を見回した。

 薄手の戦闘衣に短剣を帯び、淡い金色の長髪を後ろで纏めただけの簡素な出で立ちは、逆に彼女の可憐さを引き立てている。


 日は高く昇りきり、葉の隙間から差す僅かな光が、常に薄暗い鬱蒼とした森に、優しい雰囲気をもたらす。

 台所が浸水した丸太小屋から南に歩き、俺達は森の更に奥深くに足を踏み入れていた。


 春先でも深い緑が生い茂っているのは、ここいらの土地の植生は一年中葉をつける木々が主だからである。

 また、針のように細い葉を茂らせる種は少なく、密に生え並ぶせいでまともに日が差す事はまずない。

 偶に大型獣の姿も見かけるため、日々消費する肉には事欠かず非常に助かっている。


 そもそもエリスの薬屋自体、そこまで儲かる職ではないのだ。客は限られているし、傭兵としての仕事も、暫く遊んで暮らせる程の額が舞い込むことは稀だ。


 俺はその場で大きく伸びをして、彼女に尋ねた。

「どんなのを集めれば良いんだ?痛み止めと聞いていたが……」

「えっとね」

 おとがいに指をあてながら、つらつらと教えてくれる。


「タボンの根っこに、シシの葉かな。どちらも鎮痛作用があって、シシには気分を落ち着かせる効果も期待できるから」

「なるほどな。結構近所にもそういうのが生えてたりするんだな」

 俺に大きめの布袋を渡してきた。

「タボンは紅色の目立つ花が咲いていて見つけやすいから、お願いね。わたしはシシを探してくるから」

「ああ、了解」


 木々の間に姿を消すのを見送って布袋を担ぐと、何やら既にものが入っているようだ。

 軽く袋を振ってみると、中からカラカラと当たる音がする。

「……気にしなくても大丈夫か」

 採集のための道具かもしれないし、態々危険物を渡してくる筈もないだろう。

 袋を担ぎ直して、俺も採集に取り掛かった。




「これか……」

 さほど時間もかからずにタボンの花は見つかった。

 木が倒れ出来た空間を、陽光が暖かく照らしている。その中心に群生し、鮮やかな光景をつくっていた。花弁の暗めの紅色は森の緑と対称的で、なるほど中々に目立つ。


 根を切らないよう慎重に掘り起こし、花ごと袋に入れていく。

「ここはこんなもんか……」

 独りごちて、腰を伸ばしていると。


「…………」

 見られている。

 背後から人の気配を感じた。

 周囲は異様に静まり返り、遠くから鳥の鳴く声が、かすかに耳に入ってくる。

 エリスが悪戯を仕掛けてくるつもりかと思ったが、彼女ではなさそうだ。


「ふぅ……」

 何気ない風を装い、俺は腰の長剣の柄に触れながら、ゆっくりと振り向いた。

「む……」

 俺の立つ空間から外は相変わらず鬱蒼としており薄暗く、見通しが悪い。


 目を凝らして周囲を警戒するが、どうやら気配は消えているようだった。

「なんだったんだ……?」

 気味が悪い。

 ここはハピル郊外にある小さな町から、更に更に離れた森の奥だ。他に人がいたとは考え難い。

 熊の類だったのかもしれないが、ひとまず俺は彼女の元へ急いだ。




 来た道を戻りエリスの姿を探していると、突然、近くの茂みがガサゴソと動き始めた。

 先刻の事もあり、俺は反射的に茂みの方向を向くと鞘から長剣を抜き、構える。


「……?」

 しばらくその体勢を維持していると、それはひょっこりと顔をだした。

 エリスは自分に剣が突きつけられているのを見ると、怪訝そうに俺の顔を覗き込んできた。


「えっと、どうしたの?」

「なんだ、脅かすなよ……」

 俺は慌てて剣を収める。

「わたしの台詞だよ、もう」

 そう言いつつ茂みから這い出してくる彼女の手には、軽く膨らんだ布袋が握られている。


「袋、もう一つ持ってたんだな」

「二個ないと大変でしょ?」

 俺に中身をあけて見せる。

「すごい量だな。……悪い、思ったよりも採れなかった」

 彼女はかぶりを振った。

「わたしもそんなにだよ。摺るとすぐに無くなっちゃうし」

「そんなもんか」

「それとごめんね、渡す袋を間違えちゃった」

 袋の中に何か入っていたのはその為か。


「そう言えば既に中身があったな……」

 うん、そうねと頷いた。

「あれね、護身用なの」

「護身用……?」

 いきなり出てきた単語に少々面喰らう。

「熊とか猪用とか、そんな感じ」

「ふうむ、しかし、お前の腕ならそんなの必要ないんじゃないか?」


 俺は傭兵として、エリスと共に幾度と死線を潜り抜けてきた。彼女の突出した運動能力も知っているつもりだ。

 エリスはふふ、と笑うと俺に言った。


「こんな人里離れた所の大型獣じゃ、さすがに分が悪いかな。だから、護身用」

「ふうむ……」

 俺が護身と言う単語であの気配のことを思い出し、切り出す機会をみていると、

「ちょっと疲れちゃったね、帰ろっか?」

 彼女はくるりと半回転し、先に歩き出す。


「そうだな、一旦戻るか……っと」

 俺も後を追い、数歩踏み出すと、

「……アスタ」

「ああ、居るな」

 先の気配が、また戻ってきた。


 二人で背中合わせになると、それぞれの得物を抜く。

 辺りに視線を配ると、今度は簡単に見つけることが出来た。エリスもこちらを向いて構える。

「なんだ……?」


 先程とは様子が違う。相手に姿を隠す気はないらしい。薄暗がりに浮かぶ真っ黒な外套、片手には細身の剣。フードが目深に降ろされており、顔は口元以外は把握できない。


「……」


 奴は一言も発さず、ただ殺気だけが伝わってくる。

 しばしの膠着。


 ふと、エリスが何かに気づいたかのように「あっ」と声を上げた。

 なんとか視線を追うと、奴の剣を握るグローブに日が当たり、何やら紋様が光る。


「あれは、」

「ハピルの……!」

 その瞬間奴は地を蹴り、俺達めがけて刃を振り下ろした。

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