2・エリスとの時間、平穏な日々

 俺には、エリスに拾われる以前の記憶が無い。

 薬師である彼女にも原因は分からない。数年前にこの地で起こった戦争のことや、他の様々な国のこと、現在までの情勢等その他諸々、必要な知識は彼女から教わった。


 記憶を無くす以前の俺はその手の職についていたのか、雇われ兵としての協力や殺しに抵抗は無く、傭兵稼業は割とすぐ板についた。


 記憶を取り戻したいと願ったことは全くと言って良いほど無い。現状に不満は無かったから、記憶を無くす以前の自分を知る事が少し怖かったから。それでも、雇いで次第に各地に飛び回るようになり、経験を重ね、見聞を広めるごとに、胸の奥深くに、小さくぽっかりと空いていた穴が埋められていくような気がした。


 しかし、穴が埋められていく要因はそれだけでなく、彼女と過ごす時間によるものが殆どだろう。


 エリスは俺が目を覚ました時から甲斐甲斐しく世話をしてくれていた。


 彼女の少し子供っぽい言動や、発せられる暖かな雰囲気。戦闘においての剣筋の良さ、薬や植物に対する知識の膨大さ。「アスタはわたしに拾われたんだから、立場的には孤児を保護してるような感じだよ」と本人は笑っていたが、下手すると兄妹にしか見えないような接し方に、俺の胸の、記憶の欠落による冷たい空虚は、徐々に暖められていった。


 とはいえ、日がな一日顔を突き合わせたりしている訳ではない。日が高くなるまで惰眠を貪った後は、昼からエリスは作業部屋にこもり、俺は訪ねてくる人の注文を受けたり、「お遣い」に街を走る。材料調達のために二人で森に入ったり遠出することはあるが、基本的に一緒に居られるのは、食事をしたり、今のように、こうして身体をくっつけて眠る時くらいなものだ。


 故に一緒に過ごす時間は俺にとっては大事なもので、他愛ない会話でみせる無邪気な笑顔、ちらと後ろを振り返る仕草、隣で猫のように丸まって静かに寝息を立てる姿は見飽きることがなく、俺を不思議な気分にさせる。


 自身の胸中を理解するのに大した時間はかからなかった。

 要するに俺は、彼女に対してなんの違和感も警戒心も持たず、無条件に恋に落ちていたのだ。






 今日は珍しく日の出とともに目を覚ましたーーのだが、結局いつものように、エリスと二人して、ぐうたらと粘るだけ粘り、ようやくベッドから這い出した。


「ふふふ……」

 俺は顔を洗い、先に朝食の準備をしているエリスの元へ忍び寄る。片手には蛇口から捻り出された春の恵み。


 そして充分に接近すると、呑気に鼻で歌をうたっている彼女の服の襟を背後から空いている手で引っ張り、冷水を流し込んだ!

「わわあぁっ!?」

 まさしく不意を突かれたと言うべき地声の悲鳴が上がる。


 ここら一帯の森の更に北には天高くそびえ立つ山があり、雪解け水が地中を絶え間なく潤す。この時期の井戸や川は、夏を迎えるまでは凍えるように冷たい。


 彼女の様子に笑っている俺をキッと睨みつけ、

「今日は朝ごはん無し」

「うわ、腹が減ってて具合が悪いんだよ、勘弁してくれ」

「ふーんだ」

 そう言いつつも、卓上にはきちんと二人分のおかずが並べられていく。一通りの支度を整え席に着く。


 いただきますの挨拶をし、昨夜しわすれた報告を伝えるタイミングを切り出すべく俺がちらちらと顔色を確認していると、向こうから喋りかけてきた。


「それで、色々聞いてきたの?」

「……何をだ?」

 冷水攻撃のせいもあって、まだ少し不機嫌そうにスプーンで目玉焼きをつついている。

「オルクのおじさんの所に居たんでしょ。あの人、軍の人と知り合いだから、何か面白い話でもしてきたのかなって」

「そうだな……」


 隣国のリアーナからオルクの工房への注文が来ていること、俺達の暮らすここハピルで軍が人探しの隊を組んだこと、昨夜の雑談の内容を話して聞かせる。

「ふぅん……街で隊が聞き込みか……最近何かあったっけ?」

「さあな……俺にもさっぱりだ。ちなみにお尋ね者にされてるのは一人だけだそうだ」


 最近、城下町に出歩く事もあったが、それらしい集団は見かけなかった。思ったよりずっと小規模での活動なのだろうか。

 彼女が興味を示したかのように俺の顔を見る。

「なんでも、国の裏切りがどうこうとか」

 そこまで言うと、向かいの椅子からズイと身を乗り出してきた。

「ね、アスタ、この間引っ越したいなぁって言ってたよね」


 冗談半分で言ったわけでは無さそうな口調に、俺は逆に戸惑いながら身を引く。

「あ、あぁ……そんなこと言ったような気も……しかし、何でまた藪から棒に」

「えっ、う、ややっぱり何でもない。また今度!今度ゆっくり話そ?」

「なんだ、自分から振った話題だろうに」


 いきなりあたふたし出したのを横目に、俺はうーむと唸った。

「リアーナでなら、政府や軍が何をしててもなんとなく理解出来るんだが……確か戦争の復興途中で、王子失踪の件も片付いておらず、未だ混乱状態にあるんだろ?」

 エリスがスプーンを指先で回しながら答える。


「うん、そう……四年前、リアーナがハピルを侵略しようとしたのは教えたよね?」

「ああ、聞いたな」

 俺はそのまま言葉をつぐ。

「リアーナはハピル中心の都市まで攻め入り、都丸ごと城を火の海に沈めた……」


 考えたくもないほど大規模な火計である。ハピルの地は広大だ。しかし準備さえ整えば、各所に散って細々と戦闘を行うよりかは手っ取り早い殲滅作業だ。


「リアーナの兵は連携と粘り強さがウリだから。数もそれなりだし、不可能では無かったのかもね」

「しかし火計に気を取られすぎて、王子様がどっかにいなくなってたのか。間抜けな話だな」


 王子失踪の件は瞬く間にリアーナ中に広まった。政府は捜索網を展開し、ある者は革命団を結成し、王子を名乗る人間が大量に城に押し寄せた。戦争の復興作業も重なり、政府は政治どころではなくなった。国は混乱を極めた。


 王子は寝室から忽然と姿を消していたらしく、争った形跡や血痕なども無かったそうだ。殺されたのではなく攫われたと考える線が強い。


 常識的に考えれば戦の混乱に乗じた火事場泥棒の仕業なのだろうが、何故、どうやってと言った疑問が残る。そもそもそんな糞度胸の盗っ人が存在するのだろうか。


「やっぱり、ハピルの軍の連中が何かしたと考えるのが妥当だな」

 俺はそう結論付けると、肉厚のベーコンに噛り付いた。

 エリスも茶を啜りながら言う。

「今回のお尋ね者のこととは関係無さそうね」

「断言はできないだろ。さして年月も経ってないしな」


 彼女は何か言いたげにこちらを見つめていたが、ふと思い出したように言う。

「あ、じゃあ同盟のほう」

「レタラモシリとのか?」

「ん、それ」


 去年、ここハピルと「レタラモシリ」の間に友好関係が結ばれた。

 レタラモシリは遥か北方の大陸「ランザッド」の更に奥、凍えるような大地にある国だ。そんな辺境の国と、特になんの前触れも無く行われた会合に国中が困惑した。

 確かに気になる話題ではあるが、それも恐らくお尋ね者の件には無関係だろう。


 その他に幾つか薬の処方を受けた旨を伝えて、俺達は後片付けを始める。

 ふと、俺は皿を拭きながら、側で泡の中に手を突っ込んでいるエリスに話しかけた。

「その隊の連中、国中聞きまわってるらしいんだ。この森にも入ってくるかもな……」

 うへえ、と心底嫌そうな顔をされる。


「やだなあ、ただでさえお仕事断ってるんだし、空気読んでよね」

 ふいとそっぽを向いた。

「わ、悪い」

 それを見ながら俺は頭をかく。


 エリスと俺は、傭兵として様々な方面から雇われる身だが、俺は彼女がハピルからの依頼を引き受けるところを見たことがない。彼女は「自国でくらいはひっそりと暮らしていたい」と言っていたが、あまりその話題には触れようとしない。あまり掘り下げようとするのもどうかと思い、俺自身大して気にしていなかった。


「ね、アスタ」

「……ん?」

「痛み止めの材料が足りなくなりそうなの。この森の奥で集められるから、後で手伝ってくれない?」

 そのお願いに俺は頷く。


「構わないさ。ただそっちのほうはからっきしだからな……」

「分かってるよ。ちゃんと教えてあげるから」

 エリスそう言うとふふ、と微笑んだ。


 俺達の朝はゆっくりと過ぎていく。

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