ザ・ネクストシンギュラリティ-憎しみの果てにー

松平 眞之

第1話 ザ・ネクスト・シンギュラリティ‐憎しみの果てに‐

 韓国外交部との七十二時間以上にも及ぶ討議を経て、今ここ外務

省アジア太平洋州局内に居る局員は、皆が皆一人残らず憔悴し切っ

ていた。

 度重なる韓国側からの駄目出しに倦じ果てた私もまた、皆と同様

疲労がピークに達している。

 外務省入省以来ここ迄纏まらない案件に携わった事は未だ嘗てな

いし、恐らくこれからもないように思う。

 それもその筈で、我々はネクスト・シンギュラリティの権利を得

んが為に、日韓共同で日本統治時代を背景にした映画の製作に取り

掛かろうとしているのだから、当然と言えば当然の帰結と言える。

 しかも今はまだ互いに出し合った候補原案の選別段階なのだ。

 それでこれなのだから、始末に終えない。

 先ずは韓国側から候補原案が十数件提出されたが、総ての原案が

反日の精神を重視し且つ歴史事実を軽視したもので、とてもではな

いが我が国政府の公認を出せる代物ではない。

 次いで我が国からも候補原案を十数件提出したが、韓国側も我々

同様了承出来るものは未だ無いらしく、最早最後の候補原案に対す

る審判を待つ段階に迄進んだ。

 この最後の候補原案が韓国側に拒否されれば、もうその後は無い。

 そうなれば、事はアジア太平洋州局長の私が辞表を出して済む問

題ではなくなってしまう。

 外務省の、否、日本政府自体の面目が丸潰れとなり、ネクスト・

シンギュラリティの権利を剥奪された日本人は、韓国人と共に所謂

旧人類と呼ばれる特定保護人類に成り下がるのだ。

 何としてもそれだけは避けなければならない。

 その為に我々はろくに睡眠も取らずに準備して来たのだ。

 それに現在韓国側が検討中である最後の候補原案を通す為に、障

壁となる問題点は既に検討済みで、それ相応の犠牲を政府には払っ

て貰うつもりだし、大臣にも総理にもその確約は取り付けてある。

 但し、それは最後の一点を除けば・・・・・の、話ではあるが。

 国連に設置されたネクスト・シンギュラリティ委員会から言い渡

された、候補原案の提出期限は告知日から僅かに一ヶ月。

 愈々あさってその期限がやって来る。


『日本統治時代を背景にした日韓合作映画の二年以内の製作と、完

成後全世界での上映を実施する事を最終目標とし、両国国民が共感

し合え尚且つ両国政府が公認を出せる候補原案を、告知日から一ヶ

月以内に提出する事』


 日韓両国に言い渡されたネクスト・シンギュラリティの権利を得

             - 1 -





る為の条件が、それである。

 何故そんな実現の可能性が低い条件を彼等は出してきたのか。

 太平洋戦争終結に依る日本の朝鮮半島の統治終了後、一世紀以上

に亘って和解出来ていない両国が、果たしてそんな難関をクリア出

来るとでも思っているのだろうか。

 何を企図して日韓両国にこんな無理を強いて来たのか。

 これでは我々に対して、貴方達にはネクスト・シンギュラリティ

の権利を永遠に与えません、と、言っているようなものだ。

 我が省の特命分析官は国連の狙いはそこにこそ有って、米国と中

国やロシア或いはドイツとフランス、と言った国々が既に和解した

今、先進国の中で最後迄和解出来なかった日韓両国の国民を、特定

保護人類として残そうとしているのではないかと言う意見だった。

 つまり特命分析官曰く、人類がネクスト・シンギュラリティの権

利行使に依って生まれ変わる、所謂新人類と呼ばれる進化型人類だ

けになるよりも、旧人類と呼ばれる特定保護人類を意図的に残そう

としているのではないか、と。

 しかしよくよく考えれば、それもこれもネクスト・シンギュラリ

ティを経た進化型人類が考えた事なのだ。

 彼等ネクスト・シンギュラリティ委員会のメンバーも、遺伝子操

作とゲノム編集を駆使し、既に進化型人類に生まれ変わったIQ値

四百を越える新人類なのだから、旧人類の我々に彼等の考えている

事など理解出来よう筈もない。

 たとえ優秀な特命分析官と言えど、ネクスト・シンギュラリを経

ていないのだからそれは同じ事だ。

 半世紀前シンギュラリティをAIが人類の英知を越える特異点と

捉えていたあの頃、そのシンギュラリティが実現して僅か数年で、

再びAIの英知を人類が抜き返す事など、誰が想像し得たろう。

 ネクスト・シンギュラリティと言う、突拍子も無い夢物語が現実

のものになろう事など・・・・・。


 二○六十八年の現在に到っては、日韓両国と一部宗教上の理由で

その権利を行使出来ない国を除いて、実に全世界で9割を越える国

の国民が進化型人類に生まれ変わった。

 言い方を替えれば、先進国の中でネクスト・シンギュラリティの

権利を行使出来ていない国は極僅かであり、それが日本と韓国の二

カ国のみに限られると言う事だ。

 無論日本人や韓国人の中にも、ネクスト・シンギュラリティの権

利を行使して新人類に生まれ変わった者も居る。

 しかしそれは日本や韓国の国籍を捨てて、米国籍を得たり欧州籍

を得たりした者に限っての話だ。

             - 2-





 つまり日本人や韓国人でなくならない以上は、ネクスト・シンギ

ュラリティの権利を行使出来ないと言う訳だ。

 何故なのか。

 それはネクスト・シンギュラリティ委員会の出した、唯一のネク

スト・シンギュラリティの権利剥奪事由にある。


『権利行使の時点に於いて戦争中の国家とその国民、または過去に

戦争をして和解出来ていない国家とその国民、並びに過去戦時下に

植民地政策が為された統治被統治両国家のうち、和解出来ていない

国家と国民からは、ネクスト・シンギュラリティの権利を剥奪する。

 何故ならネクスト・シンギュラリティの権利行使で得た能力を、

戦争や人と人が憎しみ合う行為に使ってはならないからである。

 たとえ遺伝子操作やゲノム編集が為されても、人の記憶から憎し

みが消えないと言う事は、既に学術的にも証明済みである』


 と、言うのが、唯一法制化されたネクスト・シンギュラリティの

権利剥奪事由だ。

 とは言え戦争は十年以上前に地球上から無くなり、過去に戦争を

して和解していない国家も昨年無くなった。

 その過去に戦争をして昨年最後に和解した国家と言うのが、他で

も無い我が国と中国であった。

 それに因りネクスト・シンギュラリティの権利を得た中国は、三

十年前に共産党政府が瓦解した事も相まって、今や民主主義を謳歌

する進化型人類達の象徴的国家となった。

 ところがもう一方の我が国ときたら、嘗て植民地支配をしていた

韓国との関係が未だ修復出来ておらず、何時まで経ってもネクスト・

シンギュラリティの権利を得る事が出来ない特定保護人類達の旧型

国家、と、言う不名誉な烙印を押されてしまう有様であった。

 事の発端は昨年ネクスト・シンギュラリティ委員会に提出する際

の和解条約の公文書に、韓国政府が追加条件を出して来た事にある。

 韓国政府の主張のうち和解金五十兆円の支払いと、内閣総理大臣

に依る韓国国民への正式な謝罪を認めた我が国であったが、『日本

政府は従軍慰安婦像と強制就労に従事した青年の像を、韓国政府と

その関係者が世界中の何処に設置しようとも、これを承認しその設

置費用を応分に負担する事』、と、言う追加条件はさすがに呑めな

かった。

 但し今回はその無理を通して貰わなければならない、と、そう外

務大臣と総理には釘を刺してある。

 そこ迄は確約を取れているのだが、どうなることか・・・・・。

 今思い返せばこの案件で日韓両国が足並みを揃えたのは、後にも  

              - 3-





先にも国際裁判所に提訴した、あの時だけだった。

 両国が揃って、『ネクスト・シンギュラリティの権利獲得の為に

出された本条件は、日韓両政府とも履行不可能と判断する。

 依って日韓両政府はネクスト・シンギュラリティ委員会に対し、

本条件の撤回と実現可能な新条件の提示を要求するものである』

と提訴した半半年前だけが、唯一両国の見解が一致を見た瞬間であ

った。

 ところが残念な事に国際裁判所はこの提訴を即座に棄却。

 そして現在のこのような最悪の事態に陥る破目になった。

 つい先日の事、我が国を代表する映画制作各社の提出原案の中か

ら文化省が厳選して十数件の候補を出して来たのだが、文化省の担

当官が、「どれもこれも共感出来るどころか、喧嘩の種になる題材

としか言いようがありません」と、溜息混じりにファイルの束を差

し出して来た。

 恐らく彼もこうなる事を予測していたのであろう。

 しかし直後それとは別のもう一つのファイルを差し出しながら、

「もし可能性があるとしたら、これです。他の候補は恐らく否決に

なるでしょうが、これならば何とか・・・・・兎に角ご一読を」と

告げて去って行った。

 それこそが今こうして韓国側の審判を待つ最終候補原案の、『原

爆投下の悲劇と日韓の友情』である。

 老舗の映画制作会社『帝映』の提出原案で、我々の最後の切札だ。

 広島で被爆し薨去した旧日本公族、雲峴宮李公鍝(うんけんきゅ

うりこうぐう)殿下を主人公にした作品であった。

 ありとあらゆる人物を題材にし、反日映画を製作してきた韓国映

画界に於いても、この李鍝公の作品だけは未だ製作の陽の目を見る

事がなかった。

 それもその筈で李鍝公は韓国側に取って憎むべき日本皇室に殉ず

る旧日本公族として、つまりは日本人として身罷られたのだから、

反日映画を作ろうにも作れないと言うところか。

 そう言う意味で韓国側に提出した資料には、敢えて韓国語読みで

雲峴宮李鍝(ウニョングン・イ・ウ/운현궁이우)殿下、と、して

ある。

 無論日本人としては、日本語読みで雲峴宮李公鍝(うんけんきゅ

うりこうぐう)殿下とお呼びしなければ、それこそ不敬である。

 しかしながらそこは歴史事実を二の次にして、飽く迄も韓国側の

見地に立って韓国語表記を用い、作中では李鍝公を日本公族として

ではなく朝鮮王族として扱ったのだ。

 何れにしてもこの候補に関しては、これしか無いと言う程の手応

えを我が国陣営が感じていると言う事もある。

              - 4-





 歴史事実に固執するが余り、韓国側の不興を買うような事態だけ

は避けたいところだ。


 終戦間際李鍝公の配属された第二総軍は、連合軍の沖縄上陸六日

後の昭和二十年四月七日に結成され、広島市にその司令部を置いた。

 また第二総軍の動員に携わった陸軍省や参謀本部と言った所謂陸

軍中央の参謀等は、徹底抗戦を主張する者が殆どであった。

 況や彼等が動員を決定した第二総軍の参謀等将校の面々が、本土

決戦派で大部分を占めていた事は言う迄も無い。

 違う言い方をすれば天皇に奏上の必要な司令官を除けば、本土決

戦派でない将校は第二総軍に配属されないと言う事になる。

 畢竟第二総軍教育参謀の任に就いていた李鍝公も、彼等と志を同

じくする本土決戦派であったと言わざるを得ない。

 それは戦後百二十三年が経った今だからこそ、明かせる事実であ

った・・・・・。


 御前会議に於いて梅津参謀総長が反対したとされる、潜水空母を

用いた米西海岸への細菌新兵器の散布。

 ところがその作戦が形を変えて極秘裏に決行されようとしていた

事が、先頃ネクスト・シンギュラリティを経た日系米国人等の主催

する、『太平洋戦史解明委員会』に依って明らかになった。

 当時日本海沿海に展開していた米艦隊に対し、細菌新兵器の散布

を敢行しようとしていたと言う歴史の裏側に隠された真相であった。

 夜陰に乗じて潜水空母で出撃、洋上にて搭載の爆撃機『晴嵐』を

発進させ、これまた夜間に細菌新兵器を米艦隊の上空から散布する

作戦を立てていたと言うのだ。

 その細菌新兵器と言うのは今で言うボツリヌス菌で、当時七三一

部隊に依って開発されたもので、その作戦完遂に依り制海権と制空

権を取り戻す予定だったと言う。

 その作戦の策定に際しては陸軍中央の本土決戦派と、海軍軍令部

の本土決戦派の参謀等が裏で通じ合っていたらしい。

 無論司第二総軍の参謀等も彼等と通じ合っていた。

 帝國政府が仮に負けを認め終戦の結論に到った場合、第二総軍は

兵力をして東京に攻め上り天皇を擁して新帝國政府を建てる。 

 それが司令官を除く、第二総軍参謀等の総意でもあった。

 そうしておいて第二総軍の兵力を二つに割り、一方を東京へ、も

う一方を海路朝鮮の釜山(ふざん)へと上陸させる。

 無論釜山に上陸する第二総軍の兵は李鍝公が率い、また彼の手に

は勅状が握られている。

 その勅状には彼の率いる軍と朝鮮軍、並びに作戦地域を朝鮮迄南

              - 5-





下させた関東軍の一部とが合流した軍を朝鮮総軍と呼び習わし、司

令部を京城に置いた上で、暫定的に司令官を京城に転進中の秦関東

軍参謀長とし、参謀長を李鍝公にする旨が記される予定であった。         

 また追っ付け新政府から李鍝公にもう一通の勅状が届く。

 内容は締結済みの日ソ不可侵条約を拡大させ、ソビエトと新たに

軍事協定を結び、彼の国と地続きの満洲帝國の領地を総て彼等に差

し出し、同時に満洲帝國皇帝愛新覚羅溥儀を擁し、新たに北平(北

京)を都とした北支那帝國を建国すると言うものであった。  

 その際居残っていた関東軍は満洲を去って北支那帝國に転進し、

元々駐屯していた北支駐屯軍と合流する。

 最終的に山海関の西に駐留するこの軍を、新たに関西軍と改名す

る予定だったと言う。  

 これ等の事から、当時の本土決戦派が満洲帝國の消滅に因って連

合軍を解体させ、米国に戦争遂行の大義名分を失わせようとしてい

たのではないかと言う推論が成り立つ。 

 本土決戦派は日本の本土で米軍と戦って玉砕すると見せ掛けて、

その実こうした現実的な作戦を展開しようとしていた。         

 作戦が完遂されれば、米国もボツリヌス菌を本土にだけは散布さ

れたくないだろうし、ソビエトを仲立ちに和平交渉も可能になると

言う訳だ   

 その際朝鮮の地に於いて宰相の座に就いた李鍝公は、李王世子垠

を皇帝として日本より迎え、愈々悲願の大韓帝國復辟を果たす。    

 そのように李鍝公が本土決戦派になったのは、再び朝鮮を独立し

た国家にする為だったのだ。

 彼は徒に日本を刺激し抗日運動をしたところで、当時の朝鮮が何

も変わらないと言う事を誰よりも分かっていたのだ。

 そんな事をするよりも、彼は日本の知己と共に現実的に大韓帝國

の復辟を果たそうとしていた。

 しかし彼の夢も、或いは本土決戦派の夢も、原子爆弾の投下に依

って、総て吹き飛ぶ事になるのだが・・・・・。

 

 今回韓国側に提出した候補の原案にも引用されているのだが、つ

い数年前に解明された、陸軍省軍務課の参謀と李鍝公の遣り取りし

た手紙の一文にあった文章は、何とも印象的であった。


「朝鮮王族として生まれて来たことで、貴様が如何に苦労してきた

かを俺は誰よりも知っている。

 しかし貴様が誰であったとしても、俺は貴様の友だ。

 何としても大韓帝國を復辟しろ」


              - 6-





 これを書いた陸軍省軍務課の参謀は李鍝公と陸士の同期であった

が、本来殿下と私であるべきところを貴様と俺で呼び合っていた。 

 そして李鍝公もそれに応える。  

              

「貴様が誰であったとしても、俺も貴様の友だ。

 貴様が日本を救い、俺が大韓帝國の復辟を果たした暁には、一晩

中掛けて朝鮮の焼酎を二人で酌み交わそう」、と。


 これは暗号文で遣り取りされていたもので、一見すると何の変哲

も無い時候の挨拶や自身の近況に終始している手紙だったそうだ。

 これもまた、『太平洋戦史解明委員会』の暗号文解読班が解読し

たもので、李鍝公と親友であったその陸軍省軍務課の参謀は陸軍士

官学校と言う軍人を純粋培養する特殊な機関の中で、日本人も朝鮮

人もなく互いを陸軍士官として認め合って行ったのだ。

 皮肉にも彼等は戦争と言う人類最悪の行為の遂行の為に、親交を

深めて行ったと言える。

 それは彼等に取って余りにも不幸な出来事ではあるが、しかし現

在の真っ向から意見の喰い違う日本人と韓国人に照らし合わせれば、

有り得ない僥倖であるとも言える。


 そしてここからが本題なのだ。

 仮にこの李鍝公を題材にした候補を韓国側が認めたとしても、最

後の最後に問題になって来るのは、彼を当時の慣習で靖国に合祀し

た件だ。

 とは言え軍人として被爆し、間も無く薨去した公族を靖国に合祀

するのは、当時の日本としては至極当然の事である。

 翻って被爆に因り薨去した李鍝公を靖国に合祀しなかったとあれ

ば、それはそれこそ不敬の極みとなる。

 が、しかし、今回はそれが仇となるのだが・・・・・。

 韓国側は恐らく最後に合祀の取り消しを要求してくるだろうが、

我が国憲法に於ける宗教分離の大原則がそれを赦しはしない。

 そこをどうやって切り抜けるか、だ。

 

 そうして私は考えを巡らしては溜息を吐いていた。

 遂には疲れ果ててデスクの上で頭を抱える自身の耳に、「関根局

長お電話です」と、繰り返し耳鳴り迄聴こえて来る始末。

 やがて独りごちるように、「まったく」と呟いた刹那、私は肩の

上で蝶が羽を折り畳んだかのようなごく僅かな動きを察知した。

 ふとそちらを見遣れば、そこには秘書の橘和奈津子の指先が触れ

ていた。

              - 7-





「関根局長、電話が掛かっているみたいです」

 やはり橘和奈津子の声だった。

 どうやら先程のあれは耳鳴りではなく、実際に音波コールが私を

呼んでいたようである。

 アンチエイジング手術を受けて二十代の肉体を手に入れたとは言

え、私も脳は百五歳の爺さんのままなのだ。

 やはり音を音波に変換して相手の脳に直接伝える音声変換装置の

音波コール音は、昭和生まれの私にはどうもしっくりと来ない。

 殊に疲労が限界に達している今、それは最早耳鳴りにしか感じら

れないのだ。

 十数年前から全世界に普及した音声変換装置の出現は、聴覚ハン

ディキャッパー達に取っては非常に喜ばしい事だと思う。

 否、と、言うよりも、音声変換装置の存在する今、聴覚ハンディ

キャッパー等存在しなくなったと言う事は非常に喜ばしい、と、で

も言うべきか。

 兎にも角にも政府の官僚や政治家など、国家に携わる仕事をする

者は脳の若返り手術を受けてはならないと法に定められているのだ

から、外務官僚である私は当然昭和生まれの脳しか持ち得ない。

 従って音声変換装置の創り出す音波コールや音波での会話音がし

っくりとこないのは、致し方のないところだろう。

 それもこれも我が国がネクスト・シンギュラリティの権利を得て、

私を含めた日本人全員が進化型人類となれば、総て解決される事だ。

 究極の知能と共に永遠の命も手に入るのだから。

 そうして大きくひとつ肯き受話スイッチを押そうとした私だが、

考え事をしているうちにまたも時間が無為に過ぎてしまい、橘和奈

津子に機先を制される事になってしまったようだ。

 視線の先には彼女の細い指先があった。

 それは美しい二十代の女のものであったが、彼女も私同様アンチ

エイジング手術を受けている。

 とてもではないが、その実年齢には当て嵌まらないものだ。

「任(イム)次官補からです」

 そう告げてヘッドセットを渡そうとした彼女であったが、私は会

話をオープンにするようにと返した。

 局長室を出て他のスタッフ達と同じ、局内のオープンスペースに

居るのだ。

 最早他のスタッフにも聴いて貰った方がいちいち内容を伝え直す

よりも話しが早い。

 やがて任次官補のオートトランスレート装置を通した完璧な日本

語の声が、音声変換装置の発する音波となって辺りに居る総てのス

タッフの脳内に響き渡った。

              - 8-





(通りましたよ、『原爆投下の悲劇と日韓の友情』が。

 しかし主人公である雲峴宮李鍝(ウニョングン・イ・ウ/운현궁

이우)殿下の・・・・・)

 直後任次官の次の言葉を、私が一瞬早く奪い取った。

(靖国合祀の件ですか)

 任次官補も低い声音で即応する。

(ええ、やはり関根局長もご承知でしたか。

 間も無く外務省の前に着きます。

 大丈夫我々には考えがあります。

 安心してそちらでお待ち下さい)

(承知しました。お待ちしています)

 電話が切れる少し前から歓声が沸き起こっていた。

 合祀の話が出た時は起こりかけた歓声が一瞬掻き消えたが、任次

官補の安心してと言う言葉が出るや、再び歓声が沸き起こったのだ。 

「皆、喜ぶのはまだ早いぞ!」

 浮かれ出すスタッフを私が令する声音で制した直後、任次官補が

ドアを開け勢い良く飛び込んできた。

 彼はオートトランスレート機能付のヘッドセットを装着している。

「関根局長、今から私が言う事を直ぐにそちらで図って戴きたい。

 合祀の取り消しではなく、合祀が無効だった事を証明するんです。

 過去の貴国の判例から、宗教分離の決まりに抵触する合祀の取り

消しは、たとえ外務大臣や総理が了承しても実行不可能でしょう。

 しかし合祀自体を無効にすれば、我が国も合祀の取り消し請求な

どする必要がなくなります」

 顔を紅潮させ口角泡を飛ばす任次官補に、私は訝る声音で問うた。

「無効・・・・・とは?」

「靖国に合祀された軍人は皆軍神に成る訳でしょう。 

 そして軍神とは戦死した軍人の事を指す。

 ならば原子爆弾の投下で亡くなった軍人の死を、戦死と認めなけ

れば良いのです。

 あれが戦闘行為ではなく、人体実験であったと主張すれば良い。

 被爆に因る死亡が戦死ではなく人体実験に因る死亡と言う事にな

れば、靖国への合祀は無効になるんじゃないですか」

「それはそうですが、米国の手前今更そんな事は言えないし、それ

より何より・・・・・」

 落胆する私に任次官補は畳み掛ける。

「どう考えてもあれは戦闘行為では無い。

 あれは米国が敢行した、原子爆弾に依って放射能を浴びた人間が

どうなるかを知る為の、人体実験であった事に他ならない。

 それに米国の情報機関は、陸軍中央や第二総軍の本土決戦派将校

              - 9-





達が何をしようとしていたかを察知出来ていなかったのだから、あ

の時点で日本に原子爆弾を落とす必要性がない。

 そこを訴えれば、既にネクスト・シンギュラリティの権利を得た

米国なら、恐らくは否定しない筈」

 任次官補の高揚した声を聴きながら、私は自身の胸中から感情と

言う感情が剥落して逝くのを感じた。

「任次官補、貴方は何も分かっていらっしゃらない。

 貴方の仰る通りネクスト・シンギュラリティの権利を得た米国政

府が、今更原爆投下を正当化しようとはしないでしょう。

 しかしそうとなれば李鍝公だけでなく、原爆投下に因って死亡し

た第二総軍の兵達は元より、その他原爆投下に因って死亡した夥し

い数の日本兵の死を戦死とは認めないと言う事になる。

 今更どの面下げで遺族達にそんな事を言えと言うんですか」

 そう言い放った私を、任次官補は眦を決して正面に見据えた。

「ちょっと待って下さい。

 貴方は貴国と我が国との和解よりも、原爆投下に因って亡くなっ

た旧日本兵の立場の方が大事だと仰るんですか」

 私は首を振って抗う声を上げた。

「そうとは言っていない。

 言ってはいないが・・・・・それを言うなら、貴国も我が国との

和解よりも、李鍝公の靖国合祀の件の方が大事だと言う事になる」

 そう吐き捨てた私が唇を噛んでいるのを見て取った任次官補は、

肩をがっくりと落とし歪めた口元から諦念の言葉を吐いた。 

「結局は無理なんですね。 

 日韓両国が和解する事なんて・・・・・。

 ネクスト・シンギュラリティなど、夢のまた夢だ」

 最も聴きたくなかった言葉を聴いた私は、自嘲を禁じ得なかった。

「そう言う事になりますか。

 これ程に互いが憎しみ合えば後には何も残らないし、また何も得

る物はない、と、言う事でしょう」

 自嘲と共に吐き出した私の言葉に、任次官補もまた自嘲を禁じ得

ないようである。

「しかし本当に、馬鹿げている。

 私も貴方も、否、韓国も日本も」

 やがて互いの自嘲が、日韓両国への嘲笑に変わって行った。

 どうやら任次官補も同じ心境らしい。

 彼と眼が合い、一頻り嗤い合った。


 と、次の刹那、聴き知った声が私達の耳朶を打った。

「お二人共漸く分かって戴けたようですね。

              - 10-





 あなた方の母国がどれだけ馬鹿馬鹿しい事をして来たか。

 互いに憎しみ合い、罵り合い、嘲りあって、そうした憎しみの果

てには何が待っているのか。

 その事をあなた方二人は心底理解してくれた。

 本当に良かった。

 これで日韓両国は、ネクスト・シンギュラリティの権利を得る。

 おめでとう」

 それはネクスト・シンギュラリティ委員会のフランツ・ワイトマ

ン委員長であった。

 メインモニターに映し出されたワイトマン委員長の顔を、私は任

次官補と二人で訝し気に見詰めた。

 呆気に取られる私達をよそに、ワイトマン委員長が諭す声音で淡

々と続ける。  

「今迄のあなた方の遣り取りや、日韓の擦れ違う様、或いはどんな

に互いが努力しても最後には見解に齟齬を来してしまう虚しさ。

 そうした今迄の経緯を具に記録させて貰いました。

 しかし我々もこうなる事は、或る程度予測していました。

 ですから日韓両国で共感出来る日本統治時代の映画作品など、端

から製作出来るとは考えていませんでした。

 だからこそあなた方にこのような無理を強いたのです。

 兎にも角にも、貴重な映像をありがとう」

「貴重な映像・・・・・それは、どう言う意味です?」

 私と任次官補の二人で声を合わせた問い掛けには応じず、ワイト

マン委員長はメインモニター越しに顎をしゃくった。

 直後壁に掛けられていた鏡が横にスライドし、中からカメラを握

ったロボットアームが出現した。

 事ここに到って漸くフランク委員長の、『貴重な映像をありがと

う』と言う言葉の意味を理解した私達は、余りの馬鹿馬鹿しさに皆

で顔を見合わせて笑った。

 今度は自嘲や嘲笑と言った類のシニカルな嗤いではなく、心の底

から笑い合ったのだ。

 私も任次官補も秘書の橘和奈津子も、各々が口々に、「そう言う

事だったんだ」、「そうだったのか」、などと言って大笑いした。

 無論ワイトマン委員長もである。

「それでいい。憎しみ合うよりも、笑い合った方がずっと」

 そう言葉を紡いだワイトマン委員長が、メインモニター越しに溢

れんばかりの笑みを振り撒き、続けざまに甲高い声を上げた。

「はい、カーット。

 ドキュメンタリー映画、『ザ・ネクスト・シンギュラリティ‐憎

しみの果てに‐』、オールクランクアップ」       (了)

             - 11-

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