第二話

 人混みですし詰めになりながら電車を乗り継いで、ようやく落ち着いてボックス席に座れたと思ったら、向かい合った神崎が突然とんでもないことを切り出したので呆れた。

「今日来てもらったのは他でもない。俺のある試みに協力してもらうためだ」

「そこだよ!」

 鋭く跳ねっ返してやったので、逆に神崎が面食らったらしい。

「なんだよ」

「本音と建前! お前は非常に体裁の良い良さげな建前をペラペラ並べるくせに、蓋を開ければいつもろくでもない本音を隠しているじゃないか」

 少々の間リズミカルな車輪の音が僕らの間に響いた。神崎は言い訳を始めた。

「本音がろくでもないのは皆一緒だ。見かけだけでも綺麗に整えれば親が喜ぶし物理教師も文句を言わない」

「確かに、未だにイメージを浮かべられない僕も悪いとは思うが」

「そんなのは問題じゃないんだ、三好、あのな」

 神崎は小さい前習えのときのように両手を身体の前に持ち上げて、

「ぶっちゃけ」

と格好つけ、続けた。

「イメージなんていずれ湧いてくるし、間に合わなかったら無理にでも練習させて描かせるからたいした問題じゃないんだ」

「聞いただけでゾッとするが」

「俺は探していたんだよ、アレを実行するのを手伝ってくれる相手を」

「一体何なんだ」

 神崎は立ち上がって網棚に置いたリュックサックを降ろした。列車がカーブにさしかかったために車体が揺れ、つられてややよろめいていたが、中から数学のドリルを取り出すと、よせばいいのに覚束ない足取りですぐ網棚に載せた。

 ようやく座った彼があるページを開くと、何やら茶色くなって大変傷んだ半紙が出てきた。四つに折りたたんであるのを開くと、元は朱色だったと思しき赤茶けた墨で何か書いてある。

「読めるか?」

「いけそうだ」

――夏ノ夜零時迄此処二於イテ漬物石ト千度唱エシ者其ヲ得ルベシ――

 最初の文にはそう書かれている。

「なんだよこれ」

「わかんないけど、中一の冬休みにじいちゃんちの物置で見つけたんだ。確か、正月飾りを運ぶときにどっかに挟まっていたんだ」

 僕は荷物置きに左肘をついて窓の外に目をやった。都会を抜けたと思ったら、延々と拓けた住宅地が続いて、時折スーパーの看板が大きな文字をこちらへ向けていた。

「それで、これをやろうと思う」

「でたらめだろうそんなの」

「だが気になって仕方がないんだ。なあ頼む。俺はどうしてもこれを試してみたい」

「たぶん、何もないぜ。真夜中にしいんとして終わるぜ」

「構わない」

 顔を車窓に向けたまま、一瞬目だけで神崎を一瞥した。

「万一本当だったとして、漬物石なんてどうするんだ」

「ばあちゃんにやればいい」

 僕はため息をつき、今度は姿勢を戻して、こちらの顔を伺って申し訳なさそうに微笑む神崎の目を見た。

「もし、頭の上から降ってくるのだとしたらどうする? その紙は呪いかもしれない」

「だからお前を呼んだんじゃないか」

 神崎は満面の笑みで王手をかける。

「危ないことがないように、しっかり注意して見ていてくれ」

 やられた。返す言葉を失った僕は、潔く降参した。


 乗り換えのときは時刻表とメモを片手に右往左往し、何度か乗り遅れた。迷子にならなかったのが不思議なくらいの危うい道のりだった。最後の列車は鈍行で二時間半も乗っていなくてはならず、あまりに暇なので神崎と“三十と言ってはいけないゲーム”だの“しりとり”だの“しりから二つ目とり”だの、呼称が分からない指遊びなどをやって遊んだ。トランプでも持ってくれば良かったと後悔した。

 ようやく着いた頃にはもう午後だった。神崎の祖父母に挨拶して家に上がった。家は漆喰の壁の匂いがした。茶の間に通されて、少々の間お茶を飲んだ。神崎のおばあさんは嬉しそうに神崎を眺めていた。そして僕にも話しかけた。

「司は小せえけどあんたは背が高いねえ。あんた、アレにそっくりだよ、アレ、ほら、ときちゃん。ときちゃんっつうのは」

 おばあさんは神崎の腕を軽く叩いて続けた。

「これの父ちゃんが子どもの頃さ遊んだ子だよ。ねえ。アレにそっくりだっぺよ」

「坊主頭だったの?」

 神崎が尋ねると、おばあさんはうなずいた。

「昔はみんな坊主だっぺ?」

「ほんとだ。友だちは背え高くてときちゃんみてえだ。でも二人とも細いなあ。いっぱい食べなきゃあだめだあよ?」

 おじいさんは煙草を吸いながら、僕らの顔をしげしげと見つめて感想を述べた。


 海はすぐ近くだった。僕らは使い切りカメラ三つ(これだけは部費で調達できた)を携えて浜辺を散策した。湿った真っ黒い砂浜の上には無数の足跡が付いていた。さびた看板に「遊泳禁止」と書かれている。

 海は雄大で果てしなかった。絶えず生まれる波には何らかの恐ろしい意思があるようにすら思えた。潮の匂いが空気に充満している。ここに来たからには何かを得なければならないのだと、僕は瞼を引き締めて辺りを見回す。

 神崎は写真を撮っている。まぶしそうに目を細めながら被写体を探してシャッターを切る。僕は自分だったらどの景色を切り取ろうかと考えながら人差し指と親指で長方形を作ってみた。

 それでもしかし、心の中には何も生まれていなかった。

 有料の展望台にも上ってみた。急で狭いらせん階段を上がって上がってようやく上まで辿り着いた。望遠鏡のレンズには遙か彼方の水平線が映っている。何かが引っかかるのではないかと期待したが、獲物は一つもかからなかった。

 そうこうしている間に日が傾いてきた。赤く染まり始めた海岸を並んでとぼとぼ歩いているとき、神崎は恐る恐るといった様子で僕に尋ねた。

「どうだった? ヒントはもらえたか?」

「僕の心はポンコツで何も感じることができないらしい。自分で自分に失望している」

 神崎は返事をせず、海の方へ目をやった。やがて

「うーみーはーひろいーなーおおきいーなー」

と歌い始めた。僕は仕方なく

「つーきーがーのぼるーしーひがしーずーむー」

と続けた。


 見知らぬ街を歩くのは不思議だった。全然知らないのに、店も道路の造りもそれらが醸し出す雰囲気もいちいち地元の景色を彷彿とするのであった。

 出し抜けに神崎が

「この辺の女子高生もルーズソックスを履くのか?」

と言い出した。

「履くんだろう。あれは全国的な流行らしいから」

 相棒はしばらく黙った後目を伏せてつぶやいた。

「全然いないな女子高生」

「夏休みだからな。女子は苦手なんだろう?」

「別に苦手じゃない。ただいないのかと思っただけだ」

 僕は呆れながら、町並みからインスピレーションを得られないものかと躍起になり、きょろきょろと気に入る景色を見つけようとした。

 しかし何かを得るどころか、目にしたものを覚えることすらままならなかった。

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