第三話

 深夜十一時。自分の吐息の音だけが聞こえる。蛍光灯を落とした部屋は真っ暗だ。目に入ってくるのは敷き布団と畳の曖昧な境界だけ。部屋に入ったときから藺草の香ばしい匂いがずっと鼻について離れない。相変わらずの呼吸音。音をたててはいけない。僕らが起きていることを知られてはならない。

 神崎は障子のそばで耳を澄ませている。彼の背中は特別に陰が濃いから自然と視線が集中する。ずっとこんな光景が続くのかと思うといたたまれなかった。緊張して、胸が苦しくてたまらない。

 唐突に場の均衡が破られた。彼と目が合った。右手の親指を突き立てて、オーケーの合図をしている。

「大丈夫だ。完全に寝た。いびきが聞こえる」

「どっちかが起きてるってことはないか?」

「二人ともいびきを立てている」

 小声で確認しあってから、顔を見合わせ、立ち上がった。いよいよ決行のときだ。

 用意をし、気づかれぬよう細心の注意を払って庭へ出た。泥棒はこんな気分なのかと考えた。嗚呼、悪いことというのは、どうしてこう恐ろしいものなのだろう。恐ろしいはずなのに、血が騒いで、どんな瞬間より真剣になるのだ。


 夏の夜中の空は吸い込まれるように高く、庭木も水道も塀も気が狂うほど不気味だった。人工的な水道管の音だけは呑気で、唯一の救いだ。人がいなくなった街を夜風が支配している。昼の暑さはどこへ行ったのか、半袖のTシャツでは身体が冷えた。

 神崎の後を追って見覚えのない敷地内を進んでいった。正直怖くてたまらない。誰にも内緒で夜中に見知らぬ場所を歩いているから僕は大変心細かった。全ての選択が間違いであったような気がした。

 それでも神崎が待ち望んだときはやってきたのだ。


 物置小屋は古い。大昔から建っているようだ。中には大きなスコップやバケツや箒が仕舞われている。端には引き出しがあり、サイズごとに分類された釘やネジやペンチなんかが集まって同じ顔を並べている。ペンキの匂いが薄く充満していて、道具に近づくとその匂いが強くなる。人の目に触れているときよりも静寂と暗闇のなかにあるほうがよほど長い空間だ。

 僕らは手分けして小屋の中の物を片付け、真ん中に二人で座れるだけのスペースを作った。神崎が見つけてきたぼろ布を敷いて二人で向かい合ってあぐらを掻いた。引き出しの上に懐中電灯を置いて照らせば神崎の顔から肩のあたりが見える。

 例の紙切れにはいくつかの条件が記されていた。水を入れた湯飲みを用意すること、「漬物石」と千回唱えるまでの間は他の言葉を発してはいけないこと、決して数を間違えないことなどだ。

 湯飲みにミネラルウォーターを注いで懐中電灯の横に設置すると神崎が真剣な顔で話し始めた。

「お前は例の言葉を俺が何回唱えたか数えてくれ。十回言うごとに右手の指を折って見せてほしい。五まで行ったら裏返す。そうすれば片手で十回数えられる。それで、右手が一杯になったら左手で同じように一つ数えるんだ。右手は十の位、左手は百の位だ。できるか?」

「やる」

「じゃあ始めるか。声を出すんじゃないぞ。絶対だぞ?」

 神崎は表情を引き締めた。僕は目を伏せた。

 漬物石、漬物石、漬物石……と神崎は早口で唱え始めた。しょっちゅう口がつっかえる。坊主の念仏を想像していたが実際は子どもが面白がってたくさんの数を言うような聞きづらさがあった。回数を覚えておくのは僕の責任だから集中して耳を澄ませる。気が狂いそうだった。この世の全てが消え去って“漬物石”という言葉しか存在しないような感覚になる。他の言葉があったことを思い出そうとすれば数が分からなくなりそうになり、断念する。

 狂気の念仏もどきがいつまでも続くのかと思った。

 しかし違った。

 二百三十二回目までいったとき、神崎は突然立ち上がり、大声で

「漬物石ー!」

と叫んだ。

 僕は危うく数を忘れるところであった。とうとう頭がおかしくなってしまったのかと、もしかしたら呪いなのかもしれないなどと数秒の間に様々な考えを巡らせた。

 しかし神崎は“ほらお前も立ち上がれよ”

というイントネーションで

「漬物石漬物石」

と僕に向かって言い、右手を掬うようにして招く素振りをした。そこでやっと僕は、彼が不気味さと退屈さを払拭するために、散々ふざけることにしたのだと理解した。

 僕は立ち上がり、まずは即興劇を行った。僕にしたら黙劇であり、彼にとっては「漬物石」のみ台詞の劇である。

 まず彼は嘆き始めた。片手を目に当て、うつむいて

「漬物石……つけ、も、の……いし」

などと嘘泣きしている。

 すがるような目つきで僕の方を見るので、僕はちょうど二百五十回に達したことを、勝ち誇った悪い顔つきをしながら手で見せつけてやった。すると神崎はより一層悲しがった。

 やがて悲嘆は怒りへと変わったらしく、握った両拳を身体の前で振りながら僕に何か訴え始めた。

「漬物石、漬物石!」

 するとやはり鼻持ちならない僕は歪んだ笑みを浮かべて二百六十回であることを知らせる。神崎はここで怒って退場する。退場した振りだが。

 そのような感情の起伏が激しい即興劇を一通りやってかなり数を稼いだ。最後はカーテンコールまで行い、客席(などないのだが)に向かって頭を下げた。

 以後二人で色々な出し物を行った。神崎が歌う民謡の音頭に合わせてでたらめに踊り回ったり、童話なんかを元にした劇を行ったり、並んで校歌を歌ったりした。校歌と言っても、僕の方は声を出していないし神崎も「漬物石」としか言わないが。

 あるとき神崎は漬物石売りの少女になり、路上で重い漬物石を売るため通行人一人一人に声を掛けた。僕は非情にもそれを断ったのだ。

 またあるとき神崎は漬物石爺になってその辺のガラクタに漬物石を咲かせ始めた。お殿様たる僕は優雅に扇で顔を仰ぎながらその様子を見て喜び、何も言わずに微笑んで褒美を与えた。

 そしてまたあるとき神崎は泉の精になって僕の正直さを試した。僕は欲張って金の漬物石が自分のものだと言ってしまったらしい。怒り狂った泉の精に散々説教された。最後に精は漬物石を三つ重そうに抱えて泉へと帰っていった。

 神崎が先の漬物石将軍、漬物石公になって、家紋が入った漬物石を頑張って掲げて見せたとき、悪代官たる僕はその場にひれ伏して、そしてそのまま両手を挙げ、全ての指を立てた状態で表裏見せ、例の言葉が10×10×10になったことを示した。

 相棒の反応を空気越しに感じ取った僕は立ち上がった。一気に真剣な面持ちに戻った神崎は恐る恐る口を開いた。

「千行ったのか?」

「……ぴったり行った」

「そうか、じゃあ」

 僕らが息を吸った一瞬後、物置の扉が開いて、真っ黒い人影が姿を現し

「ばあっ!」

と大声を出したので、僕と神崎は悲鳴を上げて腰を抜かした。

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