漬物石
文野麗
第一話
学校には既に美術部があるにもかかわらず神崎司がわざわざ絵画・イラスト同好会を立ち上げたのは、もちろん美術部が根暗な女子たちの悪口並べ愚痴吐きスナック菓子食べパーティーと化しているからであって、決して彼が恥ずかしくて女子のなかに混じれないからではない。同好会設立条件のクラブ員五名のうち彼以外四名は言われるまま名義貸し同然にサインしただけの幽霊部員、活動しているのは実質神崎部長だけだなんてことに気づかず「初心者歓迎! 一から指導します」の文字を真に受けてスケッチブックと鉛筆を手に部室のドアを叩いたのは全くもって僕の過失であった。
部長以外誰もいない部室に唖然とする僕を、頭の先から爪先まで視線でなぞりながら
「へえ、この同好会にねえ、入りたいの、ああそう」
と組んだ指に顎を乗せて眼鏡越しにニヤつく神崎は正直大変気持ち悪かった。
一通り失礼な観察を終えてから、神崎は頭を指して
「野球部と兼部?」
と聞いてきたから、ようやく次の声を発することができた。
「そんなまさか」
「ああそう。坊主頭なのに、野球部じゃないの。野球部じゃないのに坊主頭なの。ふうん」
人をニヤけ顔で珍しがるこの無遠慮な男と、妙に仲良くなって普段から遊ぶまでになってしまったのは、僕の過失であったのか、功績であったのか。
僕が描けるようになりたかったのは漫画風なイラストだった。神崎は自分の絵を描きつつ僕を指導した。まずはつけペンの使い方から習った。指導方法は全くの自己流であったらしいが、彼が上達するために用いた練習方法を実践していると、僕の絵も少しずつまともになっていった。
五月にクラブに入り、一ヶ月半経った頃から、神崎は僕にオリジナルのイラストを描くことを強く勧めるようになった。僕はそう言われる度に困った。
漫画本のページをめくって模写する絵を選んでいると、神崎は鉛筆を置いて立ち上がり、僕の手元を覗いてきた。
「次は誰を描くつもりなんだ」
「今探している」
「決まったら教えてくれ。ポーズを決めてやる」
「いや描いてあるのをそのまま写すから」
「オリジナルで描いてみろって言ってるだろ? キャラクターデザインは真似して良いから一枚自分で描け」
僕は神崎の顔を見て、自信がないんだ、と小声で打ち明けた。彼は表情を変えず、僕のスケッチブックに何事か書き付けた。
“何事も練習”
そう言われても、とため息をつくと、神崎は席に戻った。突然エナメルバックのファスナーを開いたと思ったら、何か紙を取り出した。
「これを見てみろ」
手渡された紙には、上の方に「○○年文化祭の計画」と手書きで記されている。
「分かるか?」
「文化祭の計画?」
「そう文化祭の計画が、見ての通り白紙だと言うことだ」
僕は口を閉じた。たった今頭の中で組み立てている最中の考えとそっくり同じことを神崎がしゃべり出した。
「文化祭は十月だけど、夏休み明けには内容をまとめて学校と実行委員会に提出しなけりゃいけない。絵を展示することになるだろうけれど、夏休みの間にできるだけ進めたい。しかも今みたいな漫画本の模写ってわけにもいかないから、逆算するとそろそろ自分の絵を描けるようになってもらわなきゃ困るんだ」
「なるほど」
僕はスケッチブックを見返した。だがやはり、目の前には固い壁が立ち塞がっていて、そこを通り抜けられる気がしない。
「何を描けばいいか分からないんだ。見たとおり写すならできるけれど、自分で考えようとしても全然形にならない」
「困ったな。打開する方法を探さなきゃな」
神崎はそう言うと、眼鏡を外し息を吹きかけて拭いた。掛け直して笑ったが、困ったときの顔だった。
雨を予感させる重い風が部室を吹き抜けた。
次の日僕らはジャージ姿で校庭の端に並んで座り、トラックの周りを走っている男子陸上部員たちを眺めていた。
神崎の行動力には舌を巻く。身体の動きを見れば描きたいものが分かるだろうと言って、陸上部に見学を申し込んだのだ。
あちらの顧問は終始バインダーに挟まれた紙を険しい顔で凝視しながらめくっていて、聞いているのだか聞いていないのだか分からなかった。神崎が話し終えると
「記録してねえ奴がいるな」
と独り言を言って舌打ちした。しばらく唸った後、思い出したかのようにこちらを見て、
「見学するならジャージに着替えてこい。邪魔にならないところで見ろよ」
とそれだけ告げた。
ここ数週間断続的に降りつづける雨にもかかわらず土は乾いていて、部員が走ると軽く砂煙が上がった。石灰の尖った匂いが鼻を刺し、喉にまとわりついた。焦点をずらせば彼方に重そうな丸っこい雲が居座っているのが見えた。雲はほとんどが純朴な白でできていたが、下部には見てはいけないような陰を含んでいた。あちらのほうが絵に描きやすそうな気がしたが、輪郭がはっきりしない雲が僕の手に負えるわけがなかった。
足音が目の前で響いた。僕は本来の目的を思い出した。何も思い浮かばない。心は空虚で、感じ取ろうとしたイメージは掴もうとすればするほど細切れに崩れ、思考の波に流され消えていった。
陸上部に挨拶をして、僕らはグラウンドを後にした。薄暗い玄関で靴を履き替えるときに、神崎はこちらを向いて、僕が視点を合わせるのを待った。
「描くべきものはつかめたか?」
「なしのつぶて」
神崎は僕を責めなかった。そういうものだ、芸術だから、と訳知り顔で澄ましていた。
以来神崎に連れられて各部を回った。どこの部に行っても僕らは大して関心を示されなかったが、断られもしなかった。しかし水泳部だけは別だった。プールサイドに上がろうとしたら止められ、うちの部の、いつもは活動の様子を見に来ることもない顧問にこっぴどく叱られた。女子部員の水着姿を覗こうとしたと思われたらしい。
僕は(ことによると神崎も)久しぶりにうなだれて、叱られる体勢をとった。大柄で骨格の良い物理の教師に頭の上から怒鳴られて、骨と筋の間に振動が響いた。それにしても、
「女子の水着を見ないと絵も描けないのかお前らは」
という言葉に
「人間の身体は芸術の模範ですから」
などと返した神崎は、いやはやさすがだと感服した。僕は黙っていることしかできなかった。
更に驚いたのは説教が一通り済むやいなや、彼がとある計画の許可を得ようとしたことだ。
「あの、夏休みの活動について話があるんですが」
「夏休み? 何かするのか?」
「一度二人で合宿をしたいと思います」
「宿泊できるほど部費があるわけないだろう」
「いえ、泊まるといっても、俺の祖父母の家です。そこなら海が見えるので、インスピレーションが湧くんじゃないかなと思いました。文化祭の展示物の内容を考えたいんです、俺ら」
物理教師は拍子抜けした様子で、二つ返事で承諾した。しかし驚いたのは僕も同じであった。そんな話は初耳だったからだ。
予定を決めて(といっても二人だけであったから数分で済んだが)一応日程を細かく決め、紙に書いて提出した。犬のキャラクターの「見ました」という判子一つが返ってきて、合宿に行くことが決定した。
こうして一学期は終わった。絵は上達した。自分の絵はまだ描けない。
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