第4話 ジャバウォック

 ザリ、ザリ、と80年代ロックに不快なノイズがかぶさった。

 いや、それはただのノイズでは無かった。

 数百、数千もの和音が奏でる情報の嵐だった。人間の可聴音域など端から無視した一方的かつ莫大な音の洪水。

 だが、耕平はそれを理解した、理解してしまった。


 真っ黒な世界、情報の大瀑布の中、耕平は黄金の扉の前にあった。

 耕平はその扉に手をかける。

 そこには、幾重の鎖に縛られた、鈍色の騎士がいた。


 身の丈は2mを優に超える騎士だった。

 肩当ては大きく左右に張り出し、前腕は太く長く、その先から伸びた手にはまがまがしいかぎ爪が光っていた。

 スリットから覗く目は真紅に輝き、怒りと憎しみに燃えていた。

 呼吸穴から洩れる息はどす黒い憤りにあふれていた。


 耕平は、その騎士にそっと触れる。

 それと同時に騎士を戒めていた鎖は一斉にはじけ飛んだ。


 耕平はいつか見た一冊の本を思い出す。

 幼き彼が、寝物語に好んでリクエストした本だ。

 その本の名はアリス・イン・ワンダーランド。

 その中に出て来るモンスター。

 耕平はその名を呟いた。


「ジャバウオック」

「ルアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!!」


 騎士は耕平の魂を揺さぶる雄たけびを上げる。

 それは、歓喜の叫びだった。

 それは、決意の叫びだった。

 それは、狂喜の叫びだった。


 騎士の体から洩れこぼれる、マグマのような闘争心。

 人面獅子など比べ物にならないようなこの凶悪な騎士悪魔を前にして、耕平は赤く染まった目をしっかりと見返して頷いた。

 何かがカチリと当てはまる音がして、騎士の情報が耕平の脳裏に飛び込んできた。


 ジャバウオック/Lv1

 HP:43

 MP:6

 力:10

 魔力:2

 体力:6

 速度:8

 スキル:―――


「行くよ……行くよ! ジャバウオック!」


 ★


 豪風が吹き荒れ、耕平にのしかかっていた重さが消える。

 人面獅子は、ジャバウオックの一撃によりおもちゃのようにはじけ飛ばされベンチのひとつに激突した。


「行ける……行け! ジャバウオック!」


 耕平は、体の奥底から吹き荒れる闘争心のおもむくまま、肋骨の折れた痛みを無視して、高らかにそう叫んだ。

 ジャバウオックは、大きく右手を振り上げながら、人面獅子に向かって飛びかかった。

 人面獅子は、先ほどのダメージにより、よろよろとした足取りでそれをかわそうとしたが、ジャバウオックの爪はその回避を許さなかった。

 人面獅子の体を真っ二つにしてなお飽き足らず、地面に深い亀裂を刻みその一撃はようやく停止した。

 だが、ジャバウオックの攻撃衝動は、それだけでは収まらなかった。

 人面獅子の手足をもぎ取り、内臓を引きずり出し、その肉片に食らいつく。ついには敵の存在が消滅してもジャバウオックはなお猛る攻撃衝動を持て余した。

 ジャバウオックは次なる敵を求めんと、天に向かって高らかに雄たけびを上げる。


「もういい! もういいんだ! ジャバウオック!」


 耕平の度重なる叫びに、ようやくと平静を取り戻したのか、ジャバウオックの姿はさらさらと溶けるように消えていった。


「ぐ……」


 平静を取り戻したのは耕平も同じであるが、それと共に、耕平の体の中から何かがずるりと抜けおちた様な感覚があった。

 それはまるで、大量の血が抜けた様な、体温が一瞬で抜き取られた様な、そんな感覚だった。


「あ……やば……」


 その急激な貧血に似た感覚に、耕平の意識は遠くなり、糸の切れた人形のようにどしゃりと地面に倒れ伏した。

 消えゆく意識の中で時計の針がカチリと進んだ音がした。


 ジャバウオック/Lv1→2

 HP:43→52

 MP:6→7

 力:10→13

 魔力:2→2

 体力:6→8

 速度:8→10

 スキル:―――


 ★


 耕平が意識を取り戻したのはベッドの上だった。

 それと同時に、電子音声がその事をナースステーションに伝え、耕平は看護師が来るのをのんびりと待つことにした。


 そして、待ち時間を潰すためにふと窓の外を眺めてみると、その景色は、自分の記憶にあるものとは違っていた。


「あれ? 病室変わってる?」


 自分がいたのは4人部屋だったはずだが、今いるのは個室のようだった。

 おまけにすでに日が昇り切っている。少なくとも半日以上は過ぎている。


「なんで、変わったんだろ?」


 まさか、少女を救った見返りとして、個室が与えられたなんてことはないだろう。

 耕平がそんな事を考えていると、ナースコールを押してから随分の時間があって、ようやくと病室のドアがノックされた。


 だが、病室に入って来たのは予想していた看護師では無く、スーツ姿の二人組だった。


「失礼。大原耕平君だね」


 二人組のうち目つきの穏やかで年配の男性がそう言ってきた。

 もう一方の若く目つきの鋭い女性は、わずかに黙礼をしただけで、耕平の方を油断なく観察している。


「あ、はい」


 耕平は、不穏な予感を感じつつも、そう言って頭を下げる。


「我々は、こう言ったものだ」


 男はそう言って胸元から一冊の手帳を取り出した。

 その金色の紋章がデカデカと刻まれた革製の手帳には耕平は見覚えがあった。それはあの日の事故のおり、散々と見せつけられた手帳だった。


「警察の……方ですか……」

「ああ、私の名は木下雄一きのした ゆういち、そしてこいつが本田由紀花ほんだ ゆきかという」


 耕平はそう言って差し出された名刺を、黙って受け取った。


「あの……警察の方が、どうして?」

「警察の方が、どうして。

 ふみ、君の疑問はもっともだ。だが、我々の方としても、この問題を誰が扱っていいものか、極まっていない状況でね。便利屋として我々が派遣されたわけだ」


 木下と名乗った年配の刑事は、頭をポリポリとかきながらそう言った。


「悪魔の事ですか」

「うむ、話が早くて助かるよ」


 寝ぼけた頭にようやくと熱が回ってきて、ようやくとその事に気が付いた。

 少し考えてみれば当然だ、年配の刑事はともかく。若い刑事がピリピリしているのは悪魔を警戒しての事だろう。


「目撃者には事欠かなくてね、証言はより取り見取りなのだが、やはり本人からも一言二言もらっておかなきゃ、報告書を仕上げられなくてね」


 木下はやる気なさそうにそう笑った。


「そう言われましても、僕も何が何だか……」


 白昼夢のような出来事だった。

 記憶はあやふやで、いまも今一体に力が入らない。

 ただ、胸の鈍痛が、あのことが確かな事だと教えてくれるだけだ。


「そうかい、まぁそりゃ当然だ。じゃあこっちから質問するから君は分かる限り答えてくれ」


 木下がそう言うと、本田はメモを取る準備をした。

 耕平はひとつ大きく息をすると、ずきりと痛む肋骨に顔を歪めた。


「ははは、そう緊張しなくていい。こんな訳の分からん事態なんだ、多少の記憶のズレはしょうが無い」


 木下はそう言って、人懐っこい笑みを浮かべる。


「では、君の体調もおもんぱかって、質問は手短に済ませるとしよう。

 君はそこの中庭で悪魔と戦った。これに相違ないね?」

「え……ええ」


 耕平は、人面獅子の生暖かい息を思いだし、ブルリと背筋を震わせた。


「ふむ、素晴らしい。いや、簡単にそう言っていいものかと言われれば、そうでもないんだろうが、君は自己犠牲精神を大いに発揮し、か弱き少女を助けるために、単身悪魔に立ち向かったと」


 木下はそう言って大仰に手を広げる。


「いえ、ただ無我夢中だっただけです」

「いやいや、そう謙遜することはないよ。人間そう言った時こそその人の本性が出るものだ。私が君くらいの年だったら、腰を抜かしてひっくり返ってるだけかもしれないね」


 木下はそう言ってハハと笑った。


「でだ、聞き込みによると、その場には人面獅子の悪魔ともう一体の悪魔がいたというんだ。何か覚えているかい?」


 木下は、ニコニコと目を細めながらそう言った。だが、その細めた瞼の奥には、油断ならない光が輝いていた。


「ええ、ジャバウオックです」


 あの黄金の扉の向うで出会った騎士の勇士を思い出しながら、耕平ははっきりとそう言った。


「ジャバウオック。童話――鏡の国のアリスに出て来る化け物だね。

 証言では、君はそのジャバウオックをあやつり、人面獅子を退治したと上がっているのだが?」

「あやつり……というのが正しいのかは分かりません。ただ、あれは……」

「あれは?」

「あれは……僕の中に、いました」


 耕平は自信無さげにそう言った。

 その答えを聞き、木下は否定するでも肯定するでもなく、ただやんわりと笑みを浮かべる。


「大原君。君は今ここで、そのジャバウオックを出すことが出来るかね?」


 木下がそう言ったのを受け、背後に立っていた本田がびくりと背筋を固まらせた。


「今ここで……ですか?」

「ああ、私も人命救助に協力してくれた人と会っておきたくてね」


 そう言われて、耕平は……


「あれ?」


 と、首を傾げた。

 ジャバウオック。あの騎士は確かに自分のうちから生まれ出た感覚はある。だが、どうやってと言われても、さっぱりその方法は思い浮かばなかった。


「どう……するんでしょう?」

「ふーむ」


 木下はそう言ってポリポリと頭を掻いてこう言った。


「大原君。先ほども言ったが私は君の善性を評価しよう。いざという時に身をていしてか弱き者を助けに行けるものは、そういない。

 だが、君が悪魔を使えるとなれば話は違ってくる」


 木下は柔和な笑みを止め、真剣な面持ちでそう言った。


「この悪魔騒動が一過性のものか、慢性化してしまうのかは、いち公僕である私ごときにゃ分かりはしない。

 だが、事によっては銃器を超える危険性を持つ悪魔を、いや、悪魔使いを、放置できるほど呑気に構えてはいられない」

「悪魔……使い……」

「そう、悪魔使いだ。実のところはね、君のようなケースはこれが初めてという訳じゃないんだ」


 木下はどこか遠い目をしてそう言った。

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