第9話 いってらっしゃい

 次の日から、僕の放課後は訓練の時間になった。

 潤一さんの指導の元、宮家側の訓練所で基礎的な運動、体術を学ぶ。時間ややっていることだけを見れば、放課後に武道系の部活に入ったのとあまり代わりはしない。ただ、内容の過酷さは比べ物にならなかった。自分を磨くために体を鍛えるなどという名目はなかった。あやかしだろうと人だろうと本気で殺せるように動く、当然相手も殺すつもりの動きをしてくる。潤一さんはおろか、護衛官になって一年目という僕とあまり変わらないくらいの年齢の少年にも、容赦なく吹き飛ばされていた。


「た、ただいま」

 僕はやっとの思いで家へとたどり着いた。もし杖があったら本気で杖に寄りかかりながら歩いていたかもしれないというくらいにはよろめきながら玄関を開けた。

「お、おかえりなさい。あなた」

 割烹着姿の姫さまが廊下をぱたぱた音を立てながら歩いてきて出迎えてくれた。この放課後の訓練生活も数日が経過して少しは慣れてきてくれたけれど、やはりぼろぼろになっている僕の姿を見て驚いているようだった。今日は実際怪我もしていたからなおさら心配したのか目に涙を少し浮かべながら、抱きついてきた。

 これくらいの怪我で大げさだなと思いながらも、姫さまからしたら普段の訓練で怪我をすること自体が信じられないことなのだろう。さすがにそこは箱入り娘なのだなとそっと頭を撫でてあげた。

「大丈夫ですよ。潤一さんも部隊の先輩もちゃんと手加減してくれていますから」

「ほ、本当ですか。何かあったらすぐに言ってくださいね」

息がかかるくらいの距離で僕の顔や体を眺めていく姫さまは、まるで子犬のようだった。

「はい。お腹がすいたので早くご飯が食べたいです」

「あ、ごめんなさい。今すぐ用意します」

 やっと、姫さまは僕から顔を離れてくれて、慌ただしく廊下を戻っていった。

 ちゃぶ台に座り僕は姫さまが用意してくれた夕食を子供の時のようにがっついて食べていた。本当に体が厳しい時は食欲さえなくなってしまうものだけれど、そこまでではなく姫さまの料理はいつもよりさらに美味しく感じながら飲み込んでいた。

「おかわりください」

 僕は姫さまに茶碗を差し出した。姫様は、ちょっとびっくりして目の前に差し出された茶碗に目の焦点をあわせるのに少し時間がかかっているようだった。

「蓮君はいつもは小食な感じでしたのに、お腹がすいているのですね」

 ご飯をよそった茶碗を僕に手渡すと、姫さまは両手の上に頬をのせて、しばらく僕の顔をじっと見ていた。

「どうしました?」

「いえ、美味しそうに食べてくれる人がいるのは幸せですよね」

 ちゃぶ台の向こう側で、目を細めて微笑んでいた。

「そんな目で見つめられると……照れます」

 思わず僕は目を伏せてご飯の白い米を一つ一つみつめながら、箸ですくっていた。




「足をお揉みいたしますね」

 風呂からでて居間に戻って、ちゃぶ台に肘をかけながらほっと一息ついて座っていると、食器を洗い終わった姫さまが割烹着を脱いで着物姿で僕の足元に座ってきた。

「え。そんな……」

 申し訳ないですと遠慮をしようと思ったけれど、言おうと思った瞬間に姫さまのほっぺが膨れて厳しい目で見上げてきたので僕はそれ以上は何も続けられずに足を投げ出した。次の瞬間には足首は姫さまの両手に包まれていた。ちょっとくすぐったくはあったけれど、さっきまで洗い物をしていたからかひんやりとした指で足の裏を押されると凝り固まった足がほぐれていく気がして気持ちがよかった。

「まあ、こんなところにも傷があるではないですか」

 姫さまの手は僕のふくらはぎまで上ってきていた。ズボンを少しめくられて傷を軽く指先で触られて確認をされていた。

「大丈夫です。痛くはないです」

「本当ですか? 無理しないでくださいね」

 投げ出した僕の足の横に座りながら、心配そうに僕を見上げる姫さまの顔はとても美しいと思ってどきりとしてしまう。僕のふくらはぎを揉んでくれていて、手を伸ばせば頭を撫でることができる距離にいるのに、どこか別の世界の人間のように見えてしまった。

「あの……姫さま」

 姫さまの手が僕のふとももまで上がってきていた。座る場所も少し近づいていい匂いがするのはいいのだけれど、一部が興奮してしまいそうなくらいにくすぐったくて思わず姫さまの手を止めた。

「『姫さま』は禁止と言ったはずです」

「あ」

「今さら遠慮など不要ですのに」

 姫さまは、完全に膨れて横を向いてしまった。

「では、腰をお揉みしましょう。はい、早くうつ伏せになってください」

 これ以上、機嫌を損ねるのが怖くて僕はすぐに言うとおりに畳の上の座布団をお腹で抱きしめてうつ伏せになる。姫さまがそっと僕をまたいで太ももの上に乗ったのが分かった。腰を丁寧に揉まれるのも気持ちよかったけれど、太ももと太ももがこすれあうの感触が天国にいる気分だった。

「あの……蓮君」

「はい」

 腰を揉んでいた姫さまの手が背中まで移動してきたところで、手を広げて優しく押すだけになった。

「どうして、あやかしのものの部隊などに入ったのですか?」

 背中ごしに声が震えている気がした。本気で心配してくれているという思いは伝わってきた。

「その……将来、ひめ……亜子と本当に結婚してもおかしくないくらいになれればと……思って」

「まあ」

「普通の軍隊だったら出世するのは無理でしょうが、特殊な部隊です。肩書きだけなら佐官にもなれると聞きました。そ、そして佐官なら水鬨や大府の宮家の娘でも結婚した例があります。だから……その……」

「ありがとうございます」

 それ以上の返事はなかった。やはりそれ以上の話を聞かせてはもらないのだろうかとちょっと諦めた気分になる。

 姫さまは、泣いているのだろうか、意外に泣き虫だからなと思って頭だけ振り返ろうとしたら勢い良く肩を揉まれてしまう。諦めてされるがままになっていたら、そのまま背中いっぱいに姫さまの体がぴたりとくっついた感触がした。

「えへへ。私の旦那様は蓮君だけですよ」

 笑っているようだけど、実際には泣いている気がした。しばらく姫さまは僕の背中に顔をうずめてはもぞもぞと動いていた。動く度に、柔らかい胸の感触も伝わってきてしまう。

「あーもう」

 僕は難しいことを考えるのをやめて跳ね起きた。

「え、あ、あの」

 姫さまは、僕がいた座布団の横で転がっていた。ちょっと驚いて見上げた顔と、はだけた足元がとても色っぽかった。僕はそのまま左手を姫さまの膝の裏に、右手を首に回してそのまま持ち上げた。

「え? え? あの……蓮君?」

「亜子。寝室にいくよ」

「は、はい。あ、でも私、まだお風呂に入っていませんので」

 姫さまは落ちないように僕の首に両手を回す。

「そんなのいいよ。気にしない」

「私が気にします」

 僕は顔のすぐ横で抗議する姫さまの言葉を無視して、そのまましっかりと抱きかかえて寝室へと運んでいった。



 その夜は、お互いに忘れられない夜になったと思う。僕には、まだ細かいことは分かっていなかったけれど、きっとこの生活の終わりが近いことを感じていたからなんだろう。


 夜のうちに少し雨が降った気がした。

 車がやってきた時もぬかるんだ道の水をはねる音を聞いた。玄関の真ん前に止まる黒い車は、間違いなく宮家のものだった。

 玄関を少し開けて着物を羽織った姫さまが応対しているのを、僕は少し離れた廊下から見ているだけだった。外は雨のせいかもやがかかっていて見通しが悪かった。姫さまと話しているのはいつもの警備の偉い人だったけれど、二人の会話よりも、朝もやの中で車の横にじっと立っている村重さんの姿が気になって仕方がなかった。

 心はここにあらずという感じでじっと立ったまま、曇った空を見ていた。雨が上がりきってはいないのか、彼の髪に水滴がついていた。その仕草はどこか泣いているのではないかという気がした。

 あんな最強の戦士が泣くはずもないと思いながらも、僕にも姫さまにも全く興味がなくなってしまったかのようなその視線はやはり異様だった。

「蓮君……あの、蓮君」

 僕の方が姫さまに興味をなくしてぼーっとしていたかのようだった。姫さまに声をかけられてやっと目の前の姫さまに視線をあわせた。

「叔母が亡くなったそうです」

「そう……ですか」

「申し訳ありませんが、実家にしばらく戻りますね」

 姫さまは伏し目がちに言った。

(駄目だ。行かせない。行かせちゃいけないんだ)

 悪い予感がして、心の中ではそう叫んでいた。でも、叔母さんが亡くなったというのであればさすがに表立って反対することはできなかった。

すぐに制服に着替えた姫さまは、僕の横をすり抜けると玄関を出て行った。

「いってまいります」

 姫さまは外に出たところで、一度だけくるりと振り返ると僕の方を向いた。一瞬だけ僕と目を合わせた。僕の顔を焼き付けるように、そして姫さまは僕に普段通りの笑顔を覚えてもらいたくて無理に笑おうとしている気がした。

「いってらっしゃい」

 僕は静かに姫さまが乗り込んだ車が水しぶきを上げながら立ち去るまでをじっと見ていた。



 予感したように。

 予感したとおりに、姫さまがこの家に帰ってくることはなかった。

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