第7話 最後の日常
それは、僕らのいつもの光景だった。『最後の』いつもの光景。
「これは非常事態ね」
草壁イリーナは、勢い良く机を押すようにして立ち上がった。女性にしては高い背たけは立ち上がると独特な威圧感があった、肩までの美しい金髪が荒々しく一度大きくはねるとその後も波のように揺れていた。
「仕方がないので、今回、蓮君にはこの首輪をつけてもらうわ」
いつも通り、生徒会室の隣の部屋で、机をあわせて僕らは会議をしているところだった。イリーナと向かいあって真琴、僕がすぐ横にいて、姫さまは議長席のように一机分挟んだところで僕の真正面に黙って座るのがなんとなく定位置になっていた。
強力なあやかしのもの対策を話しあっている席だった。……はずだ。
「ちょ、ちょっと待って。何を蓮君に怪しい物つけようとしているの」
真琴が慌てて椅子を尻で吹き飛ばして立ち上がると僕の側に飛んできた。イリーナは、どう見ても犬につけるものにしか見えない革製の黒い首輪を、すでに僕の頭上にまで持ってきているところだった。いつも元気で可愛らしく小さな真琴が、今のイリーナに突っかかっていくと手に持った首輪のせいもあってまるで真琴がイリーナの飼い犬のように見えてしまった。
「邪魔しないでくれるかしら。これは今回のあやかしのもの退治で必要なものなのよ」
「うーそーつーけー」
座っている僕の頭上で、イリーナと真琴は問答することもなく、手を組みあって力比べで押し引きしているようだった。きっと二人はすごい形相になっているので、僕はといえば上を向く勇気はなくてなすがままに真っ直ぐ前を向いて座ったままだった。
右の頬にイリーナ、左の頬に真琴の胸が当たっていた。まあ、真琴の胸は柔らかさを感じることができるほどふくらんではいないとか口に出したら刺されてしまいそうなので何も言わずに感触だけを楽しんでおいた。
「魅了されてしまう人間を助けるために、あえて蓮君には魅了されてもらうわ。これはその時のための保険」
相変わらずイリーナはさらりと怖いことを僕の頭の真上で説明をした。
「大丈夫、これがあれば絶対に見つけられるし、闇に取り込まれたりしないわ」
イリーナの『信じて』の言葉がくれば、僕も真琴も姫さまも迷うことはなかった。これもいつものことだった。
「そこは疑ってない。あんたを信じてるわよ」
真琴はちょっと僕からも離れて腕を組んだ。イリーナに素直な信頼を伝える照れ隠しの態度なのだろうと僕は感じていた。姫さまも同じ思いなのか、いつも文句を言い合いながらすっかり信頼関係を築いている二人を、優しい視線で追っていた。
「でも、また余計なおまけがついているんでしょ。あんた以外の女の子に触れると首が締まるような……」
「うっ」
知的でいつも鋭いイリーナらしからぬ。間抜けな声があがった。
「え、図星なの? またそんな……」
呆れた顔をしたあとで、僕の上を睨みつける真琴の形相は怖かった。
「いえ、違うのよ。対魅了対策のためには、誰かと主従契約をするのが一番確実で……」
「では、私と主従契約でもいいですわよね」
イリーナの言い訳をさえぎったのは、姫さまだった。イリーナは答えに窮したのかしばらく無言のままで真琴と姫さまの視線に耐えているようだった。
「もう時間がありませんので!」
イリーナは強行突破を試みた。つまり無理矢理に、僕に魔法の首輪をはめようとした。
「させるか!」
真琴が猫科の動物のように飛びかかってくる姿が見えた。次の瞬間には、僕が椅子から転げ落ちてもみくちゃになっていた。
「ちょっとイリーナってば」
「真琴もくっついちゃ駄目だって」
さっきの話からすれば、首輪をつけたまま、真琴が密着してきたりしたら首が絞まってもげてしまう。僕は床に転がり二人に挟まれながらもがいていた。
『あれ?』
何か変だと僕は思う。
いつもなら止めにきてくれる姫さまがいつまでも来てくれなかった。何故だろうと思い、倒れたままで横を向いて姫さまが座っている席を見ようとした。
夢から覚めた僕。その目に映ったのは視界いっぱいの姫さまの顔だった。驚くことではないはずだった。朝食を作り終えた姫さまは、セーラー服にエプロンをつけたままで、僕の布団の上に四つん這いになって起こしにくるのが、ここ最近の朝の習慣だった。
ただ、今日はいつもより顔の位置が近い。
毛布越しでもわかるくらいに姫さまが圧迫してきていた『さっきの夢の最後はこれか』と一人納得していた。
「おはようございます。何やら楽しそうな夢を見ていたみたいですわね」
「おはようございます。え?」
姫さまの目が全く笑っていなかった。口元だけ笑おうとしているのかちょっと端が釣り上がっているのがなおさら怖かった。
「イリーナちゃんや、真琴と何をしていたのかしら」
「いえ、ほら……夏のあやかし退治の時に酷い目にあった時の夢で」
「ああ、あの時のことを夢に見ていたのですか……」
つい最近の出来事だ。姫さまも思いだして理解をしてくれたのだと思って軽い調子で説明をしようとした。
「ええ、もうあやかしのものと戦う以前に何回か死にかけて大変でした」
「……二人に抱きつかれて楽しそうでしたね」
僕の話を聞いてくれず『ほほ』と笑った顔はどこか怖かった。
随分遅くなってしまった朝食を二人でとりながら、僕は改めて姫さまの可愛らしい顔をじっと見つめていた。ちょっと不機嫌そうだったけれど、黙々と漬け物やご飯を箸で口に運ぶ姿さえどこか優雅だった。
「どうかいたしましたか?」
僕の目の前にいるのは、どこからどう見ても不機嫌なのだけれど、なるべくいつも通りにしようとしている姫さまだった。
「昔から思っていましたけれど、やきもちを妬いている姫さまはかわいいなって」
「ん!?」
不意打ちは作戦以上に決まってしまったようだった。姫さまはまずは照れて真っ赤になった。そして次にはちょっと怒ったような表情をみせようとしたけれど、のどにご飯が詰まったのか苦しげに変な声をあげた。
「大丈夫ですか、姫さま」
「だ、大丈夫です」
ちょっとむせる姫さまだった。背中をさすってあげようかと近づいたけれど、それは不要と拒否をされた。そして僕を見上げながらちょっと睨むように厳しい視線を向けた。
「前から言おうと思っていたことがあります」
「はい」
思わず僕は正座をして、姫さまの言葉を待った。
「今日から二人きりの時も『姫さま』は禁止です」
「え? じゃあ、家でも『委員長』?」
「馬鹿ですか。馬鹿なのですか、蓮君は」
姫さまにとっては、最大限下品な罵詈雑言なのだろうけれど、可愛らしくてその言葉は心地よいくらいだった。
「亜子って呼んでください」
「亜子……様」
僕のその言葉には露骨に横を向いて、すねて返事をしてくれない亜子姫さまだった。
「亜子」
「はい」
僕は彼女の頬に手を伸ばして言い直すと、今度はすぐにこちらを向いてくれた。満面の笑顔とはこういうことを言うのかといういい表情で、返事をしてくれた。朝の食卓の上での口づけは味噌汁の味が微かにした。
「あ、蓮君。ちょっと生徒会室によっていっていいでしょうか」
何もない学校生活の放課後に僕らはそれが自然なことであるかのようにすうっと自然に並んで歩き出していた。
「はい」
学校でも、『委員長』ではなくて、『亜子』と呼ぶようにしたことでさらにお馬鹿な級友には冷やかされることになったけれど、もうあまり気になることでもなかった。
囃し立てる声が少しあったけれど、姫さま――亜子は堂々としていた。今までの真面目なだけの委員長という演技をやめてしまったかのようだった。
「あ、先輩こんにちはー」
反対側の校舎にある生徒会室に入ると、現生徒会長の向井彩音が出迎えてくれた。元気いっぱいの声は、僕らがいた頃と何も変わらなかった。
「何か事件ですか? 真琴先輩はまだ帰ってきていないみたいですけれど」
背は高く、短い髪と凛々しい顔つきは、真琴よりも名門武家出身の少女剣士という肩書きにふさわしいものだった。ただ、しっかりとしているのだけれど、僕らに対しては時々甘えたような声を出す。真琴の妹分的な立場は変わっていなかったし、変えようとも思っていないみたいだった。
「今日は私物を持ち帰りにきただけよ」
「残念です。私たちじゃ、あやかし退治はできないですからね」
「学生が倒そうとしようとしなくていいのよ」
優しいお姉さんという感じで亜子は微笑んでいた。自分は率先して倒しに言っていたことはなかったかのようにして、一人で頑張っている後輩に無理することないと労っていた。
「何かあったら、私に相談しにくればいいわ。宮家のあやかし専門家に相談してあげるから」
「はい」
生徒会の中でもこの彩音ちゃんだけは、亜子の正体が宮家の姫であることを知っていた。
話し込んでいる二人を横目に、僕は生徒会室の横にある部屋への扉をそっと開けて中を覗きこんだ。もともとはただの物置だった部屋は、廊下にも繫がっていない部屋だった。窓はあるけれど、誰にも使われなくなったその部屋はカーテンが閉められたままでひんやりとした空気が流れているようだった。
ふと、今朝見た夢の景色と重ねてみる。一番、奥の机に亜子姫さまは座っていた。それはいつもの定位置。そこから、イリーナと真琴が喧嘩をしはじめたら止めにでてくるまでがいつもの流れだった。
「……でも、あの時は止めにきてくれなかったんだよな」
誰もいない薄暗い部屋に向かって、ぼそりと僕はつぶやいた。
姫さまはあの時、いつものように止めにこようと思ったのに来るのをためらった。何となく『自分はもう一緒にいられないから』譲ろうとしているのだと思った。だから、時計台に呼び出された時はお別れを言われるのだろうと思っていた。
それなのに……。
明るい生徒会室の方を向いてみれば、何も以前と変わらないように姫さまは後輩と楽しそうに話していて僕は軽く混乱してしまう。
「亜子は、もう用事は終わった?」
少し考えたけれど、特に持ち帰るものもなかった僕は、生徒会室にも別れを告げようとした。
「はい、これくらいです」
亜子は靴を片手でぶら下げながら、僕の目の前に持ってきた。ちょっと羽根のようなひらひらとした布がついたカラフルな靴で、とても普段履くような靴ではなかった」
「文化祭の演劇の時の靴? もう使わないでしょ」
「蓮君が作ってくれた靴ですから、私のために作ってくれた靴ですから」
別にその布をつけただけなんだけどなと思いながらも、そう言われると捨ててしまえとも言いにくく戸惑っていると、彩音は僕らを交互に見ながらちょっと楽しそうな顔をしていた。
「何?」
「先輩たちが、一緒に暮らしているって話、本当なんですね」
「うっ」
僕は動揺したけれど、姫さまは落ち着いたもので余裕の笑顔で応じていた。
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