第6話 学生新婚生活
僕らのはじめての休日は穏やかだった。
秋の日差しが入る部屋の中で、ゆったりと荷物の整理整頓をして僕の時間は流れていく。姫さまも僕の視界の片隅で僕よりも少しだけ忙しそうに片づけをしている姿が映る。時々、こちらを向いてにっこりと微笑んでくれると家の中が暖かい空気に包まれる気がした。姫さまが普通の生活をしたいと希望してこちらに歩み寄っているというのもあるのだろうけれど、特に姫さまと生活習慣で大きな問題は起きてはいなかった。
ただ、片づけを手伝っていると高価そうなお皿やグラスがあって移動するのに怖じ気づいてしまうけれど姫さまは『気になさらず』と言って、ぞんざいに扱って昼のご飯にはそのお皿に漬け物を載せていた。
「家ではいつもこんな感じだったのです」
午後からは姫さまは着物に着替えていた。ちょっと昔の町娘が着ていたような茶色の着物は地味に見えるけれど、その実はとても良い素材でできている感じがした。何より僕の目の前でくるりとまわって見せたその姿は似合いすぎていて僕は目を細めるのだった。
「僕は、誰かと一緒に寝てもらった記憶がないんですよね」
天井を見つめながら僕はそうぼそりとつぶやいた。昨日と比べるとすっかり落ち着いた僕たちは夜の寝室で布団を並べてしばらく話をしていた。
横になった時に思い出すのは、子どもの頃の記憶だった。
貧困街の中で一応、屋根のある家ではあったけれど、誰が侵入してきてもおかしくいない寝室で、周囲の子どももある日いなくなってしまうこともよくあることだった。誰にさらわれてもおかしくなかった。殺してから運んだ方が楽な需要もあるらしい。噂だけではなく、大人はみんな信用できなかった。母親でさえも。
「はい」
「だからちょっと落ち着かないんですよね」
僕は素直な気持ちを口にした。もちろん、姫さまが綺麗すぎてどきどきしてしまうからということもあるのだけれど、どこか寝ている時に人の寝息でも聞こえるのは落ち着かなかった。寮生活の中で少しずつ慣れてはきたけれど、まだわずかな音でも目を覚ましてしまう習慣があった。
「大丈夫です」
「え?」
天井を向いたままの姿勢でチラリと横目で見ると、姫さまは顔をこちらに向けた。
「私が落ち着かせてみせますから」
いつもの根拠はないけれど、自信ある宣言だった。それはどんな時でも、僕に勇気をくれる魔法の言葉だった。そのまま、姫さまは布団から手を伸ばして僕の布団の中に入れてきたのが分かった。
「手を繫ぎましょう」
「え、はい」
それまでずっと上を向いていた僕も、ちょっと慌てて姫さまの方を向いた。恐る恐る僕も姫さまの手にあわせて手を差し出すと、姫さまはぎゅっと握りしめた。
得意そうににっこりと笑いそのまま『おやすみなさい』と言い残すと、そのまま天井を向いて目を閉じてしまった。
(落ち着かないですけどね)
寝ながらつなぐ手と手の感触はどこか落ち着かない。姫さまの手を僕の手で包み込んでしまうと、寝ている間に強く握ってしまったりしそうで怖かった。指と指を絡めてみると指の関節に重みを感じてしまい気になって落ち着かない。
姫さまもきっと落ち着かないんじゃないのかな。そう思って横を向いてみると姫さまはすでにすやすやと寝息を立てていた。
「落ち着いてくださるのは嬉しいですけどね」
でも、僕自身は姫さまの方を向いてしまったことを後悔した。息を吐き出している唇に視線が向くとそのまま首筋から胸元まで舐めるように眺めてしまう。昨晩の感触を思い出しては僕は興奮してしまいすっかり目が冴えて眠りにつくことができなくなってしまった。
「おはようございます。蓮君、朝ですよ」
手の感覚がやっと気にならなくなってきて眠りに入れそうと思った次に認識できたものは、制服にエプロンを着た姫さまが僕の布団の上に覆いかぶさっている姿だった。お上品な姫さまが何も考えずに僕の体に全体重をかけてきたりということはなかった。でも、上手に僕の布団の上で僕の手足を避けながら四つん這いになって僕の顔を覗きこんでいる姿は、もう裸で完全に覆いかぶさってくれた方がましなのではと思うくらいに扇情的だった。
「もう朝ですか」
「ふふ、意外とお寝坊さんなのですね。今日は学校がありますよ」
姫さまに見とれていたので眠れませんでしたと正直に言いたいところだったけれど、にこやかな笑顔で勝ち誇っている姫さまは、そんな話をしたらますます僕の上からどいてくれなくなりそうなので黙っていた。
体育祭も終わった学校はもう行事は卒業式を残すのみの、特に何もない日々になっていた。けれど学校にはまだ毎日授業があった。もうすぐ冬の休みに入ってしまえば、そのあとは自由登校になる。そうなれば、クラスのみんなとも会う機会もほとんどなくなってしまう。そのことを考えないように、何でもない学校生活をあえて送っている毎日だった。
僕と姫さまは、制服姿で向かい合って座りちゃぶ台の上のご飯と味噌汁と漬物を黙々と口にする。
すでに普通の学園生活ではなくなってしまっていると漬け物を噛みながら思うのだった。
「変装をやめちゃだめ……でしょうか」
「だめです」
通学前の玄関で並んで僕らは靴を履いていた時のことだった。姫さまの要望を僕はあっさりと却下した。
そんなことを許したら、僕が警備の人や村重さんに殺されてしまいそうだった。
最後くらい穴守亜子として通いたいという気持ちは全く分からない訳ではなかったけれど、その先に巻き起こるであろう騒動を想像すると僕はただ青ざめるしかなかった。
「ここで姫さまと一緒に暮らしていることが世間にばれたら、大騒ぎで静かにここで暮らすことなんてできませんよ」
「そうかしら……そうよね」
残念そうにうつむいたあとで、諦めたかのように姫さまは変装用の眼鏡をかけた。
「では、仕方がないですね。こうして学園にいきましょうか」
姫さまは僕の腕に腕を絡めてきた。
「え? あの姫さま?」
「大丈夫ですよ。私は普通の女の子ですからね。腕くらい組んだって騒ぎにはなりませんよ」
姫さまはにっこりと笑った。それは嬉しくてするときの笑顔ではなくて、『私の言うことを聞きなさい』というときにする笑顔だった。僕はその違いをよく知っている。こうなったらもう何を言っても説得なんてできないこともよく知っていた。
「なあ、委員長とつき合ってんの?」
クラスで机にうつ伏せている僕に、案の定、クラスの何人が群がってきた。前に住んでいた寮と同じく貧民用の寮で暮らす何人かが、今日腕を組んできた僕と姫さまを見て、不躾な質問をしてきたのだった。庶民というより貧民な集まりであるその級友たちは、遠慮なんて言葉は知らない。恋を見守るとか何となく察するとかそんな行為とは無縁な連中だった。馬鹿だけど気さくな人たち、気さくだけれど馬鹿ばかり、そんな連中が、配慮なんてしてくれるはずもなく興味津々の様子で聞きにきていた。
(影でお上品に噂されるよりはいいか)
遠くでもどちらかと身分の高いご子息の何人かが『委員長について』話題交換をしているのが耳に入った。
学校ではお姫さまであることは内緒だった。宮野亜子と名乗って、眼鏡で変装して通っているのだけれど、学級委員長がはまり役な感じなので男子からも女子からも『委員長』と呼ばれていた。
「つき合っているわけじゃない……こともない」
さすがに、腕にしがみついて教室まできてしまった僕らを見ている彼らをごまかすのは無理だと諦めて成り行きにまかせた。
「いいなあ」
「いいよなあ。あの胸とお尻」
唯一の常識人である納谷君だけが素直に羨ましがってくれるけれど、その他はお馬鹿な集団らしく、露骨に姫さまの方をじろじろと見ては体のラインを上からなめるように眺めていた。
「やめろよ」
周囲の女子から露骨に嫌な顔をされてしまって、まるで僕が助平な話題の中心人物のように思われてしまっていた。
「なんだよ。もうあの委員長のお尻もおっぱいも俺のものってか。くう、うらやましい」
「ほんと、うらやましい。でも、真琴さまはどうなったんだよ?」
「どうって、いや……どうなったわけでも」
「都に行っている間に寂しくなったか」
豪快に笑いながら冗談ぽく言われた言葉を、あまり僕は笑えなかった。真琴が僕に積極的にアプローチしているのは、学校中でも有名な話だった。
「でも、本命はイリーナさんなんだと思ってた」
普通な納谷君による、普通の視線からの普通な意見は、僕の胸にちくりとしたものを突き刺した。
「もしかしてイリーナさんは、振られたから帰国しちゃったの?」
「いや、そんなことはないよ。関係ないよ……きっと帰ってくるよ」
「そう、よかった。まあ、じゃあ帰ってきたら僕らにもイリーナさんとチャンスがあるんだ」
納谷君は、嬉しさを隠しきれないような表情だった。
(納谷君はイリーナのことが好きだったのか)
しばらく納谷君が周りの馬鹿たちと話している横顔をじっと観察していた。今まで、三人の女の子に振り回されてばかりで考えもしていなかった周囲の人間関係がちょっと見えてくる。
「よーし。お、俺にもイリーナさんの胸やお尻を揉むチャンスが」
「お前にはねえよ」
「えー。じゃあ、小さいけれど真琴さまでいいや」
「『いいや』ってなんだよ。お前みたいなのは真琴さまが相手にするわけないだろう」
「いや、今なら、何かの気まぐれで付き合ってくれるかもしれない。一回やれればそれでもう本望だ」
ますます下品になっていく会話の中で、僕らに対する女子の視線はより一層冷たくなってきていた。
「蓮君」
放課後、僕の机まで子犬の様に駆け寄ってくる姫さまの姿があった。
「はい。帰りましょうか」
にっこりと笑って僕は鞄を抱えると後ろに姫さまを従えて廊下へと出て行った。一部男子からやっかみの目はあったけれど、それほど気になることはなかった。きっと朝の納谷君たちの会話を聞いても真琴派とイリーナ派の方が多くてむしろ安心しているのかもしれないと想像していた。
ちらりと僕は中庭を挟んで見える生徒会室とその横の小部屋を見た。
(もう、用はないしな……)
まっすぐ帰宅の途につくことに僅かな寂しさを感じながらも、横によりそって肩越しに伝わる姫さまの暖かさに満足していた。
「そう、晩御飯の食材を買っていかなくては」
校門をでてからしばらくして、姫さまは軽く両手の手のひらをあわせてそんな言葉を口にした。
新居から北の商店街は大した距離ではないので、寄って帰ることに問題はなかった。
「そうですね。一緒に買いに行きましょうか」
「ありがとうございます」
姫さまはにこにこと笑っていた。
「これからは、寄って帰るのが日課になるかもしれませんね」
「そうだと嬉しいです」
更には腕にしがみついてくる姫さまだった。買い物をして帰るのことが、何でそんなに嬉しいのか僕には分からないままにされるがままになって歩いていた。
「このきゅうり。お安いのでしょうか?」
姫さまは八百屋を見つけるなり手を頬に当てながら悩んでいた。『大丈夫ですか? 買い物をしたことあるんですか』と聞いてみたら、ちょっとふくれてしまった。確かに二年間、学生として問題を起こしたこともないくらいには庶民の生活にも対応していたのだから、さすがに箱入り娘扱いしすぎたと頭をかいて反省した。
「あら、お嬢さん見ない顔だね」
「はい。先日引っ越してまいりました」
八百屋のおばさんは、野菜を見ながら真剣に悩む姫さまを見かねてか声をかけてきた。姫さまは良家のお嬢様のように丁寧なお辞儀をしながら返した。実際には良家どころの家ではないのだけれど、そこは丁寧すぎず上品に振る舞っているようだった。僕は何となく気まずくて二人の様子を窺いつつ、店先で突っ立って待っていた。
「それじゃ、これもサービスしとくよ」
「ありがとうございます」
すっかり八百屋のおばさんとなじんだ姫さまは二つの袋を抱えて店からでてきた。僕は『荷物、持ちますよ』と片手を伸ばした。
「これからもご贔屓に。あら、そちらは……弟さん?」
感謝の言葉とともに袋を一つ僕に渡した姫さまは、八百屋のおばさんに声をかけられて振り向くと、こう言った。
「いえ、主人です」
ちょっと誇らしげな顔の姫さまだった。
「ちょっと目立ってしまったのではないでしょうか」
「ごめんなさい」
家までのわずかな帰り道で、ちょっと僕は姫さまをたしなめていた。
田舎では十代で結婚することはそれほど珍しくない。穴守の都が田舎か都会かと言われると難しいところだけれど、やや都会よりでいいのだろう。田舎であっても学生同士の結婚は稀だった。
八百屋のおばさんは、僕らを一回ずつ交互に眺めたあと、いかにも『何か訳ありなんだね』という顔で激励してくれてさらにきゅうりをおまけにつけてくれた。
「でも、近所の女性に蓮君が言い寄られないように、宣言しておきませんと」
姫さまは、わりと本気で言っているようだった。
「そんな心配しなくても……僕は格好良くなんかありませんし」
「はい?」
野菜をいれた袋を両手で前に持ちながら、姫さまは怒ったように僕の方を向いた。
「ちょっと目を離すと女の子を助けて仲良くなっていますよね。蓮君は」
「そ、それは単に事件の時に助けてあげたら、感謝しもらうってだけで……」
「ふーん。この夏だけで、真琴とイリーナちゃんを除いて何人に告白されました?」
「ふ、二人だけですよ」
袋をもったままで腕を組んでぷいとふくれてみせる姫さまだった。
「真琴とイリーナちゃんを入れたら四人。私も入れたら五人ですよね。もてもてですよね」
本気で怒っているわけではないことは分かっていたけれど、じっとりとした目で見上げられて嫌味な口調でねちねち責められていた。
「大丈夫ですよ。……浮気なんてしないと誓います」
「え」
なだめるように言ったら、それまでは責めていた姫さまは驚いたあとで、ぱっと明るい笑顔になった。
「あ、ありがとうございます」
照れているのか、顔を伏せる姫さまだった。僕らは何も言わずに買い物袋を持っていない方の手を繫ぎながら家へと帰った。
晩御飯のあと、座っている姫さまをさらに抱きかかえるに僕も座っていた。
座って本を読んでいた僕に、徐々に座っていた姫さまが足の間に分け入って侵入してきたというのが正しかった。
「あの姫さま?」
「姫は満足です……ぞ」
姫さまは、僕の両膝を椅子の肘掛けのようにして手をおいて座っていた。お伽話のお姫さまのような口調をしようとしているのか良くわからない言葉を発しながら、僕の方を振り返った。
「姫さまがよいのでしたら、いいですけれど」
二の腕の柔らかさを感じながら僕の手は姫さまの前まで手を伸ばし本を広げている。見づらくはあるけれど、時折揺れる姫さまの髪の匂いを嗅ぎながらする読書は心地よい時間と空間だった。
本を読み終わってもなお、二の腕の柔らかさを感じつつ、白いうなじをじっと眺めているとお尻の感触まで伝わるようになってきてますます僕は強く姫さまを抱きしめた。
「姫さま、あの……胸をさわってもいいでしょうか」
半分だけ振り返った顔は、頬をふくらませているのは演技なのか、よく分からなかった。
「夫婦なのですから、わざわざ断らなくてもいいのです。そうでしょう?」
そういう方面で怒っているとよく分からなかったので、ちょっと戸惑ったけれど、僕は自分の欲求に素直に従って、手の位置を動かしていって柔らかい感触を確かめた。
「そうか。夫婦って素敵ですね」
僕はぼそりと素直な感想を口にした。
「それですと、まるで私のいいところが胸だけみたいではないですか」
不機嫌になった姫さまを宥めるのには時間がかかった。夫婦といえども言葉を選ぶ必要があるのだと学ぶ僕だった。
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