第5話 初夜
「ふう」
姫さまに風呂で背中を流してもらうのは、なんとか勘弁してもらい。静かな桶風呂につかりながら僕はほっと一息ついていた。
「……一緒に暮らすとなると別の緊張感があるなあ」
この二年間ほぼ毎日会っていた仲とはいえ、二人だけで部屋の中にいると意識しすぎてしまう感じがあった。姫さまも感じさせないようにしているけれど、それは同じだろうという気がした。やっと一人になれる時間と空間になって僕は気を緩めて鼻歌交じりでのんびりしていた。
手ぬぐいを肩にかけて、気持ちよく温まって戻ってきた僕は、『布団をひいておきましたよ』と台所で洗い物をしている姫さまの声にうながされて和室に入った。
「これは……」
今のところは鏡台以外は何もない一番質素な畳の部屋に、二つの布団が綺麗に並べて敷いてあった。また……いつもの……よくある……そう、そんな感じの冗談かと思ったけれど、そうではないよなと思い直した。
「夫婦なら当たり前のことか」
ランプが一つしかない薄暗い部屋の中で何となく天井の方を眺めながら、僕は布団の上に正座した。なんとも落ち着かずそわそわしながらそのまま動けなかった。夜の生活のことは考えていなかったわけじゃないけれど、あまり深くは考えないようにしていた。どうせ、いつもみたいにイリーナや真琴の邪魔が入って結局何もないままになると思っていた。いや、思い込もうとしていたのかもしれない。
真琴もイリーナもまだ穴守の街に帰ってきてはくれなかった。この二年間の学園探偵団だった僕らの日常はもう終わっている。頭では分かっていても、どこか認めたくなかったのだ。
「お待たせしました」
『いや、待っていません』と冗談で返す余裕はなかった。まだ湯気がでそうなくらいに風呂からあがったばかりの姫さまは、白い寝間着に身を包み隣の布団の上に正座した。そっと静かに少し体を傾けながら膝を布団に降ろしていく姿は何ともいえないくらい色っぽかった。とても同じ風呂に入ったとは思えない匂いを嗅ぎながら、僕は姫さまと座ったまままっすぐ向かいあって、しばらく無言のままだった。
「ね、寝ます?」
そう言いかけた僕の言葉をさえぎるように
「よ、よろしくお願いします」
意を決した姫さまはそう言ったあと、この間見たような綺麗に流れるような一礼をした。以前より少し慌ただしかったけれど流れるような手の動きに見とれていた。ただ、頭を上げたあとの姫さまは顔を突き出したままの姿勢で止まって僕の視線を逃さないかのようにまっすぐ動かなかった。薄暗い部屋の中でも、真剣で真っ赤になっている姫さまの表情がみてとれる、さすがに決意をした表情で、ごまかしたりしてはいけないことは僕にも分かる。
「姫さま、いまさらですけれど、僕なんかと……その一晩を共にしてよろしいのでしょうか」
「も、もちろんです。夫婦なのですから」
姫さまは、一瞬動じたけれど決意を新たにしたのか、座ったままでわずかにずりずりと膝を動かして更に僕に近づいてきた。僕を見上げるまっすぐで少し潤んだ眼差しがまぶしくて、愛おしく思いながらも目を逸らしたい気持ちもあった。
「でも、ずっと姫さまと一緒にいられるわけではないのでしょう?」
今回の僕の言葉には、姫さまはびくりと反応した。ただ、その言葉に対する明確な答えを返してはくれなかった。
「傷つけたりして、僕みたいな庶民でいいものかと……」
「それは関係ありません。……そんな遠慮はいりませんから」
強い意志でぐいっと姫さまは攻め込んでくる。姫さまらしくないなと一瞬思ったけれど、『それもまた違う』と思い直した。今までも姫さまは積極的でまっすぐでちょっと強引なところもあった。ただ、もっと積極的な真歩ともっと強引なイリーナがいただけなのだと。
「姫さま、その……もしかして」
「え?」
もしかして、あと不治の病であと半年の命だったりするのだろうか。そんな考えが頭をよぎったけれど、さすがにどこをどう見ても姫さまは健康そのものだった。僕はなんでもありませんと首を振った。
「二年間ずっと好きでした」
じっと僕の目を見つめたあとで、姫さまの頭が僕の胸によりかかってくる。
まだ、姫さまはここにいる。僕の学生生活が、仲間と過ごした日々は終わったことをあらためて嚙みしめる。その思いが僕に姫さまを抱きしめさせた。僕の手の中で姫さまのぬくもりが鼓動と一緒に伝わってきた。
チュンチュン。
(朝、小鳥のさえずりって本当に聞こえるんだな)
僕の人生で、こんな静かな家で朝を迎えるのははじめてだったので、そんな思いがまずは頭に浮かんだあとで少しずつ意識がはっきりしてきた。
見知らぬ天井を見上げながら、ここはどこだっただろうとまずは思い出すと、昨晩に姫さまを抱いたところまで一気に記憶が頭のなかを駆け巡った。
慌てて布団の隣に視線を向けたけれど、そこには誰も寝ていなかった。一糸まとわぬ姫さまが寝息を立てていたりするのではないだろうかと心配なのか期待なのか分からない気持ちで周囲を見回したけれど、姫さまの気配はどこにもなかった。
姫さまのことは全部自分の妄想だったのではないだろうか、そこまで自分の記憶を疑いながら僕は起き上がると部屋を出た。
朝だと廊下の板の軋む音が響く。僕は悪いことをしているかのように抜き足差し足で音を立てないように廊下を歩いた。
誰もいない。
やはり、本当からも誰もいなくて、姫さまのことも何かのまぼろしだったのではないかと思うと段々早足になっていた。
(姫さまがまぼろしだとしたら、いつからだろう……)
昨晩?
結婚を申し込まれた時から?
学園探偵団としての最後の活動が終わってから?
それとも、街を守った最初の事件で出会った時から実は姫さまなんていなかったのではないだろうかという気もしてきてしまった。
廊下にわずかに暖かい空気が流れている気がした。
ふらふらと何かの音と湯気から伝わってくる暖かい空気を感じて近寄っていくとそこは台所だった。
「あ、蓮君。おはようございます」
割烹着をきた天使が、僕の方を振り返った。
「もうすぐ朝ご飯できますから。座って待っていてくださいね」
天使且つお姫さまな彼女は、割烹着に身を包みおたまを手にとってお味噌汁を作っていた。似合っていないような感じは受けながらも、姫さまが本当にいたことやどこにも行ったりしていないことを実感して思わず胸が熱くなった。
「どうかしましたか?」
姫さまはちょっと照れながらも、今の僕の姿を見て心配になったように料理の手を止めておたまは持ったままでこっちに一歩近づいてきた。
「座っていてくれていいんですよ。もう、持っていきますから」
「いえ……」
思わずじっと見つめたまま少しずつ近寄っていった僕は、どこから見ても怪しかっただろう。姫さまも、困惑して照れた笑顔は少し口元が堅かった。
「その、姫さまは大丈夫ですか」
「え?」
「いえ、昨晩、痛そうだったから……」
本当に心配していたのは間違いないけれど、僕が知る限り姫さまが他の人に弱音を吐いたりしたことはなかったので今回もきっと『大丈夫ですよ』と返事をするだけだと思いこんでいた。その際に微妙な表情を読みとるしかないと。
でも、予想とは違った。姫さまは一瞬昨晩のことを思い出したかのように宙を眺めたあとで右手の人差し指を立てると次は僕の方に指を向けた。
「?」
困惑している僕に一歩近づいてきて、姫さまの人指し指は僕のお腹に突き刺さる。
「い・た・い。なんてものじゃなかったです」
姫さまは、拗ねたような口元をしながら、下から僕のことをじっとりと見上げた目で睨んでいた。もちろん、本当に怒っているわけではないことは伝わってくるのでそれはそれで新しい可愛らしさを発見した気がしていた。
いつも他の人に弱音を言ったりしない姫さまが言ったその言葉は、僕がもう他人ではないという証明な気がしてちょっと誇らしく思えたのだった。
でも、姫さまの人差し指はぐりぐりっと僕のお腹を強く押していて、割と本気で痛かった。
「ご、ごめんなさい」
「はい。次からはもう少し優しくしてください」
許してもらうと、指は僕のお腹から離してもらった。
「まあ、痛かったですけれど……」
姫さまはさらに僕から半歩離れて、昨晩のことを思い出しているのか目をつぶって考えてしばらく黙っていた。
「はい」
「私は今、幸せですよ」
そんな言葉を、顔を赤くしながらにっこりと微笑んで見上げながら言われると僕はもうどうしていいのかわからないくらいに体中が熱くなっていた。
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