第4話 姫様と新婚生活

 ここ数週間で僕の環境はなんて大きく変わってしまったのだろう。

 荷物を抱えて新居の前に立った僕は改めて思うのだった。

 嫌なわけじゃない。光栄に思っているくらいだったけれど、住み慣れた寮を慌ただしく引き払い新しい住居で新しい生活を始めるのはどこか気分が重かった。

 姫さまは本当にいいのだろうか。

 僕と同じように大きな鞄と風呂敷を自ら抱えている姫さまの姿を横目で見てみる。眼鏡で変装した美少女は、まるで僕の視線を待ち構えていたかのよう目が合うとにっこりと微笑んだ。

 悪い事は何もしていないのに、思わず目を逸らしたくなってしまった。

 姫さまのことはもちろん好きだった。でも、どこかで身分違いの二人が一緒に暮らすと考えると腰が引けてしまう気持ちがあるのも正直なところだった。無礼なことでもしたら護衛の人に始末されてしまうのではないかという不安も決して杞憂とは言い切れないだろうと思いながら、家の中に踏み込んでいった。

 大きな荷物はすでに運び込まれていた。

 宮家に仕える人たちが、慌ただしく荷物を運んでは荷物を並べてくれている。

「あの、大丈夫ですから、あとは僕の方でやりますから」

 僕の声は受け入れられなかった。スーツ姿の男たちはテキパキと家具を配置し、食器や小物を棚の中にしまってこんでいった。正直なところ家具を一人で運んでいたら大変だったのでそれはとても助かることだったのだけれど、大人たちにこんなことをさせて申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

 せめて不要になったゴミを庭にまとめておこうと外に出たところで、寮母の美鈴さんの姿を見かけた。この真面目な大人たちの中にいると僕が唯一、気楽に話しかけられそうな人だったので、嬉しくなってからかってみようかと近よった。

(村重さん?)

 でも、近づくと美鈴さんの隣にいたのは凄腕護衛の村重さんだったので、僕はちょっと怯えたように足の運びが止まった。

「こんなことになっているってことは、もう長くないってことかい?」

 美鈴さんは、煙草の煙を吹き出しながら、そう言っていた。

「そうだな」

 村重さんは、簡潔に返事をした。

(あの二人、知り合いなのかな……)

 面と向かわず二人とも立ったまま庭を見ながら話しているのは、ぶっきらぼうに見えるけれど、逆によく知っている相手なのだという雰囲気がした。

 (『長くない』って何が)

 僕は、嫌な想像が浮かんで一瞬、心臓が止まりかけた。

「おばさまも、あんたも、もう若くないものな」

「そうだ……な」

 村重さんが苦笑して答えていた。

「おや、蓮君。どうかしたかい?」

 美鈴さんが、完全に動きが止まっていた僕を見つけて呼びかけてきた。

「あ、いえ、ちょっと片付けようと思っただけなんだけど……何か意外な組み合わせですね。知りあいだったんですか?」

 僕は最初は美鈴さんに対する軽い口調で答えて、途中からは村重さんに対する丁寧な口調で尋ねた。

「ああ、この人の奥さんにはお世話になったんだ」

 美鈴さんが、村重さんをちらりと見てそう答えてくれた。

「私も孤児院育ちっていうのは前に言ったと思うけれど、その孤児院の代表だったのが、この人の奥さんでね」

「へえ。村重さん結婚してらっしゃったんですね」

 最強戦士村重さんのプライベートな姿が想像できなかったので、僕は興味津々に尋ねた。

「まあ、もう何年も会っていないがね……」

 寂しそうにそう言った村重さんは、髪に混じる白いものも多く感じた。

 でも、村重さんはすぐに『余計なことを言ってしまった』といつもの執事モードの温和な笑顔で話題を切り替えていた。

 (『長くない』のは、村重さんの奥さんなのかな……)

 会話から推測するとそう思えた。

(でも、僕が近づいているのがわかって話題を変えた可能性もあるかもしれないな。この達人二人なら……)

 美鈴さんはただの寮母さんなのだけれど、僕はそういう可能性を真面目に考えていた。

 

「引っ越し終わりました。失礼いたします。何かありましたらお呼びください」

 侍従の偉い人が代表して挨拶にきた。宮家に仕えるすごい人たちが丁寧に応対してくれるのは、恐縮するしかなかった。姫さまは慣れたもので『はい。ありがとうございます』と軽く微笑みながら礼を言って、ねぎらっていた。これが長い間の主従関係の光景なのだなと僕はため息まじりで眺めていた。何も問題ない日常のやりとりを終えて部下たちのところに戻ろうとした護衛の偉い人は足を止めた。

「若君。姫さまをよろしくお願いします」

 僕に向かって短く、でも力強くそう言って頭を下げる。短くも重い言葉は、僕の肩に重圧が増したような気がした。

「若君ですって」

 姫さまは、普段より無邪気な笑顔で僕の顔をのぞき込んでからかっていた。

「やめてくださいよ」

 子猫のように擦り寄ってくる姫さまの柔らかい胸の感触を右腕に抱きながら、僕は棒立ちになっていた。間違いなく僕の顔は真っ赤なのだろうと分かるくらいに顔は熱を感じていた。

 僕らは新居の中で二人っきり残されたままだった。見送ったままの方向を向きながら僕らは立ち尽くしていた。家の外には護衛の人は何人か残っているのだろうけれど、ただ静かになった家の中には、もう傾いてきた日の光が入ってきて僕らの足下を照らし続けている。

 僕も姫さまもしばらくそのまま動かなかった。二人になれて嬉しいような気持ちと、どこか取り残されたような気持ちが僕の心に住み着いていた。

「よし」

 姫さまは突如、気合いを入れて僕から離れた。

「晩御飯を作りますね」

 僕に微笑むと、荷物の中からエプロンを取り出してつけると台所に向かった。

「え。ああ、はい」

 姫さまが自分で料理してくれるとは、想像できなくて僕は戸惑った。じゃあ、誰が料理するつもりだったのかと言われると、僕ができるわけではないので何も考えていなかったのだけれど。

「あの、じゃあ、何か手伝いますか?」

「いえ、大丈夫です。この日のために色々教わってきましたから。任せてください」

 包丁を悲壮な覚悟で握りしめて見つめている姫さまの姿は不安そのものだった。

「だ、大丈夫ですから、大人しく座って待っていてください」

 そのまま見守っていると、包丁を振り回されてしまいそうだったので、大人しく部屋の真ん中に座ってみた。でも、タンスや棚だけが置かれた部屋の中はまだ生活感に乏しくてどこか落ち着かない。そもそもお姫さまを働かせて、僕だけがじっとしているのも居心地が悪かった。

「あっ、そうだ。蓮君、じゃあお風呂を用意してもらえますか?」

 じゃがいもの皮を剥きながら、姫さまは僕の方に体ごと向いた。じゃがいもと包丁を握る手につい注視してしまうけれど、意外に器用に剥けているので安心した。

「何を見ているんですか、そんな不安ですか?」

 じゃがいもを隠しながらむくれる姫さまは、それはそれで可愛らしかった。

「い、いえ。お風呂ですね。え、この家にお風呂あるんですか?」

 お風呂がある家なんて、一部の金持ちの家だけだったのであることを僕は全くそうぞうできていなかった。最近は寮にはついているところも増えてきたけれど、僕が昨日までいた松竹寮には風呂はなかったので近くの銭湯までいかななくてはならなかった。

「いいと言ったのですけれど、銭湯だと護衛が難しいとのことでどうしてもと……」

「ああ、なるほど。確かにそうですね」

 女性の護衛官もいるけれど、村重さんたちがついていけない公衆の場所は危険度がかなり高いだろう。

「まあ、家は提供してもらっているので、僕としてはありがたいですけどね」

 こんな家の家賃をまだ学生の僕に払えるわけもない。宮家の所有している家に引っ越してもらうと連れてこられただけだった。

「でも、こんな贅沢に慣れちゃうと貧乏生活に戻った時に、苦しくなってしまいそうです」

「申し訳ありません」

 僕の冗談に、姫さまは硬い表情ながら口元を微笑もうと頑張っていた。

「一緒に銭湯に行ってみたかったのですけどね」

 続けた言葉の時は、にっこりと微笑んだ姫さまらしい笑顔だった。想像すると悪くないとは思いながらも、『面倒ですよ』と僕は素っ気なく言って台所を離れることにした。

 庶民的な生活に憧れていたのだろうかと推測すると、それはそれで僕のような貧乏人をちょっと馬鹿にしたような贅沢に思えた。

 もちろん、姫さまに悪気なんて無いことは僕が一番よく知っている。でも、どこかやっぱり身分の差や育ちの違いを感じないではいられなかった。


 そんなことを考えつつ家の中の探検をしていると桶風呂に行き当たった。一人が入ればいっぱいになってしまう風呂桶だったけれど、新しく設置されたらしいその風呂場は床からして綺麗な檜で敷き詰められていた。

「瓦斯で温まるのか」

 銭湯では最近、広まっていると聞いたことはあるけれど、実際に使ってみるのは初めてだった。水道も含めて、風呂場にいながら風呂が沸いてしまう。まるで魔法のようだと感心する。

「ああ、着火装置は魔法なのか」

 火をつける際に、わずかな魔力を感じた。きっと郁美さまにもらった録音できる玉のような仕組みが風呂桶の下についているのだろう。

「どうですか?」

 オタマを握りしめたままの姫さまが、後ろの廊下の奥から上半身だけを出して覗きこんできた。

「すごいです。蛇口をひねったら水が出て、スイッチを入れたら勝手に火がついてくれて温めてくれています」

 すでに風呂桶を見守っているだけになった僕は、きしむ廊下に後ろ足で戻っていった。

「そうですか」

 興奮気味に話した僕の言葉に、姫さまは風呂場に近づきながら戸惑ったようににこりと微笑んでくれた。宮家じゃそんなことは当たり前なのかもしれないし、そもそも姫さまが自分で風呂を沸かす機会なんてあるわけがないと思うと急に恥ずかしくなってしまった。

「なるほど、このツマミをひねればいいのですね」

 エプロン姿でオタマをもったままの姫さまは、うつむきかげんの僕の隣まできてすっと膝をかがめると、桶風呂を確認していた。後ろで結んである髪がすぐ目の前で揺れていい匂いがした。

「私でもできそうですね。よかったです」

「え、そんな。姫さまにそんなことをやらせるわけには……」

 薪を焚いたりというようなことはなく瓦斯で温めることができるのだけれど、どうしても使用人の男の仕事というイメージがあった。

「いえ、私の仕事ですから」

 にっこりと笑いつつも、はっきりとした態度で宣言をしていた。どちらかといえば、その仕事は私にやらせなさいという命令だった。こうなるともうどうなだめても無駄なことは、この 二年間で僕の体に染み込んでいた。

「でも、この大きさだと一緒には入るのにはちょっと狭いかもしれませんね」

「入りませんから!」

 僕は顔を真っ赤にしながら、否定した。

「え、夫婦ってそういうものだと聞いてましたのに。違うのですか」

「だ、誰にそんなこと聞いたのですか」

「お母様や侍女たちには、そう指導いただいたのですけど」

 姫さまは何もおかしいことはなさそうにまっすぐにこっちを見ながら答えた。

 郁美様は何を教えているのだろうと思ったけれど、もしかしてやんごとなき家では普通なのだろうかと想像しはじめる。

いや、大きな風呂が自分の家にあるような人たちは夫婦で風呂になかよく入ったりするのが当たり前なのだろうか。

 大まじめに僕は頭を抱えて考えこんでいた。

「でも、お背中はお流ししますね」

「む、無理ですから」

「え、何ですか無理って夫婦ですのに」

 僕のとまどいに、姫さまは頬をふくらませて抗議してきた。この可愛らしい生き物は直視することすらためらわれて視線をそらしてしまう。

「なんていうか、さすがに恐れ多くて」

 姫さまはその言葉にさらにふくれているのがわかる。どうしていいかわからずに僕は風呂場から逃げ出してしまった。


「ご飯ができましたよ」

 手持ちぶさたになったので草がいっぱいの庭を探検していたら、姫さまが呼びにきてくれた。怒っているような態度は見えなかったので僕はちょっと安心しながら家の中へと戻った。

 覗き込んだ居間の真ん中に丸いちゃぶ台がぽつんと置いてあって、その上には味噌汁と芋煮がたらこにまぶせてお皿においてあった。

 美味しそうな料理に僕は目をうばわれ、いい匂いにお腹はさらにからっぽになった感じがしていたけれど、こんな質素なちゃぶ台の横でしゃもじを持ちながらご飯をよそってくれる姫さまにまた申し訳ない気になってしまう。

「あの、自分でやりますから……」

「もう、よそってしいました」

 そう言われるのを予想していたのか、僕のご飯はすでにお茶碗からあふれそうなくらいに盛りつけられていた。

「美味しいです」

 僕はそっと芋を口の中に運んで味わうと思わずそんなありきたりな感想が口から飛び出した。

「よかったです」

 姫さまはにこりと笑いかけて、自分も白米を口の中に運んだ。ちゃぶ台を挟んで暖かい空気が漂っていた。それが姫さまにふさわしいかどうかは別として。

「美味しいですね。練習した甲斐がありました」

 姫さまは、味噌汁やおかずに手を付けながら自画自賛していた。

「誰に教わったのですか?」

 僕は、絶妙な塩加減の味噌汁をすすりながら興味津々だった。

「母に教わりました」

「郁美様が」

 ちょっと意外な気がした。

「母は『別に皇族の出でも華族でもありませんから。自分で作れますよ』と言っておりました」

「なるほど」

「このような料理が北東地方の家庭の味なので、食べさせてあげなさいと言われました」

「僕は普通の家庭がどんなものだからしらないんですけどね」

 言ったあとでしまったと思った。いつもの寮でなら普通の軽口だったのだろうけれど、姫さまとの会話で自虐的な言葉でひねくれて空気を悪くしてしまったような気がした。

 でも、そんな心配はする必要がなかったようだ。姫さまはにっこりと笑って僕にこう言ってくれた。

「では、私の料理が蓮君にとっての家庭の味ですね」

 冗談っぽく、でも本気で誇らしげに姫さまが言っているのが伝わってくる。

「それでしたら、もう少し料理が美味しくなってもらいませんと」

「ええっ、美味しいでしょう?」

 ちょっと軽口でも叩かないと、僕は泣いてしまいそうな気がした。

 でも、そのせいで姫さまの方は、真面目に抗議していた。

「『美味しいです』」

「え?」

 姫さまは、机の横に飾られていた録音球を指でそっと押した。さっき、僕がつぶやいた感想がその場で再生されて僕はびっくりしてしまった。

「『美味しいです』」

 いつの間に録音したのだろうと思いながら、僕は録音玉と声を合わせて同じ言葉をつぶやいた。姫さまと僕は目を合わせると大きく笑いあった。

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